護国の人柱
「岡山県史」
『合同新聞』は、
「独流鎮の華 仰げ護国の人柱 碧血に輝く郷土将兵の偉勲」
「あゝ○○大尉、我が赤柴部隊に鳴る勇猛果断」と大きく報道。
そこでは、岡山市の留守宅を訪れると、夫人はさすがに武人の妻らしく、
「かねて覚悟してゐました、
お国のために立派に働いたのですから思ひ残すことはありますまい」
と、少しも取り乱すことなく言葉少なに語ったという。
この後も、一貫するワン・パターンの記事が載せられ、
銃後の国民の本音はそうした建前に押し流されていくことになる。
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「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行
支那事変
昭和11年12月に起きた西安事件は、それまで対立抗争を続けてきた国共両党を合作に導き、
抗日意識を全国的に統一させた。
こうした情勢の下に、昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発した。
7月11日、内地から三個師団(第五・第六・第十)が考えられていて、
我が歩兵第十聯隊もそのとき運命が決せられていたのである。
従来日本の武力の前に支那は屈っしていた。
派兵の目的も、伏在的にそうした威圧の奏効を考えてのことであったが、
もはや支那はそうはいかなかった。
9月2日「北支事変」の名称を「支那事変」と改称し、全面的な日支戦争の開始を政府は確認した。
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(「歴史街道2021年9月号)
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「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行
大本営徐州会戦を決す
徐州会戦の戦機は愈々熟し、その包囲網は狭べられた。
しかし敵の逃げ足は早く、四方から迫った我が軍は、もぬけのからの徐州城へ突入していった。
5月19日徐州城西門に日章旗を掲げ、翌20日入場式が挙行された。
徐州会戦後、近衛首相は閣僚を更迭し、
政戦両略に通じる我が郷土出身の宇垣一成大将に外相就任を懇請するとともに、
第五師団長板垣征四郎中将を陸相に起用した。
だが、その後、
興亜院新設問題に端を発し宇垣外相は辞任した。
かくして戦争は継続され、ますます拡大されていった。
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漢口作戦
漢口進撃命令が下ったのは昭和13年8月22日であった。
漢口進撃作戦に従事した中支那派遣軍は、総兵力30万をこえる大軍団であった。
我軍の作戦進路は四路に分かれ、
我が第二軍は大別山の北麓に沿って信陽に進攻し漢口北方へ迂回するものであった。
8月27日、第十、第十三師団は金橋、椿樹嵩の線より行動を開始した。
8月28日、師団は六安を占領した。
道路は予想の如く不良で、尚且つ敵の破壊甚だしく車両部隊の追及は困難を極めた。
第十師団は歩兵第第八旅団が先頭にたち、我が歩兵第三十三旅団は大した戦闘を交えることなく進軍したが、
8月末の晴天つづきの炎天下であり、昼間百十余度も騰り、
当時携帯食糧等の負担量多く、給水また十分でなかったので、
落伍者多く喝病患者また発生、
マラリヤ、コレラ患者も続出して、苦難を極めた難行軍であった。
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