しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (岡山県郷土部隊~護国の人柱~)

2023年07月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

護国の人柱

「岡山県史」

『合同新聞』は、
「独流鎮の華 仰げ護国の人柱 碧血に輝く郷土将兵の偉勲」
「あゝ○○大尉、我が赤柴部隊に鳴る勇猛果断」と大きく報道。
そこでは、岡山市の留守宅を訪れると、夫人はさすがに武人の妻らしく、
「かねて覚悟してゐました、
お国のために立派に働いたのですから思ひ残すことはありますまい」
と、少しも取り乱すことなく言葉少なに語ったという。
この後も、一貫するワン・パターンの記事が載せられ、
銃後の国民の本音はそうした建前に押し流されていくことになる。

 

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「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行


支那事変

昭和11年12月に起きた西安事件は、それまで対立抗争を続けてきた国共両党を合作に導き、
抗日意識を全国的に統一させた。

こうした情勢の下に、昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発した。
7月11日、内地から三個師団(第五・第六・第十)が考えられていて、
我が歩兵第十聯隊もそのとき運命が決せられていたのである。

従来日本の武力の前に支那は屈っしていた。
派兵の目的も、伏在的にそうした威圧の奏効を考えてのことであったが、
もはや支那はそうはいかなかった。
9月2日「北支事変」の名称を「支那事変」と改称し、全面的な日支戦争の開始を政府は確認した。

 

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(「歴史街道2021年9月号)

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「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

大本営徐州会戦を決す
徐州会戦の戦機は愈々熟し、その包囲網は狭べられた。
しかし敵の逃げ足は早く、四方から迫った我が軍は、もぬけのからの徐州城へ突入していった。
5月19日徐州城西門に日章旗を掲げ、翌20日入場式が挙行された。

徐州会戦後、近衛首相は閣僚を更迭し、
政戦両略に通じる我が郷土出身の宇垣一成大将に外相就任を懇請するとともに、
第五師団長板垣征四郎中将を陸相に起用した。

だが、その後、
興亜院新設問題に端を発し宇垣外相は辞任した。
かくして戦争は継続され、ますます拡大されていった。


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漢口作戦

漢口進撃命令が下ったのは昭和13年8月22日であった。
漢口進撃作戦に従事した中支那派遣軍は、総兵力30万をこえる大軍団であった。
我軍の作戦進路は四路に分かれ、
我が第二軍は大別山の北麓に沿って信陽に進攻し漢口北方へ迂回するものであった。
8月27日、第十、第十三師団は金橋、椿樹嵩の線より行動を開始した。
8月28日、師団は六安を占領した。
道路は予想の如く不良で、尚且つ敵の破壊甚だしく車両部隊の追及は困難を極めた。

第十師団は歩兵第第八旅団が先頭にたち、我が歩兵第三十三旅団は大した戦闘を交えることなく進軍したが、
8月末の晴天つづきの炎天下であり、昼間百十余度も騰り、
当時携帯食糧等の負担量多く、給水また十分でなかったので、
落伍者多く喝病患者また発生、
マラリヤ、コレラ患者も続出して、苦難を極めた難行軍であった。

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昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (岡山県内)

2023年07月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

第二次世界大戦の始まりは、
1939年(昭和14年)9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻といわれる。
大東亜戦争と呼んだ戦争は、
1941年(昭和16年)12月8日のハワイ・マレー沖海戦。
日中戦争の始まりは、
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件。(旧日支事変、旧北支事変、旧支那事変)

令和の現代からみると、
日本が戦争状態になったのは
国家総動員態勢となり、国家・国民が戦争体制に組み込まれた、
「盧溝橋事件」と思える。
”神州不滅”という狂乱国家の始まりは、今から86年前の今日。

 

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「美星町史」 美星町 昭和51年発行


戦争の泥沼へ


昭和12年7月、日本はついに中国への全面戦争に突入し、動員令がしきりに下命されて軍隊は続々と中国大陸へ向けて出勤したのである。
岡山に駐屯する歩兵第十聯隊、工兵第十聯隊にも7月27日、動員が下され、
8月上旬華北へ向けて出発した。
そして赤柴隊など郷土部隊の奮戦ぶりが報ぜられた。
出征後月余にして町内出身兵士の戦死が報ぜられ、
また続々と発せられる召集令状により郷土を出発する出征兵士の数も日増しに増加して、
村民の複雑な緊張感は急に高まっていった。

村では出征兵士に送る「千人針」をもとめる婦人、
また武運長久を祈る八社または百社参拝の群が多く見られた。

日中戦争勃発とともに政府は「挙国一致、尽忠報国」「堅忍持久」を標語とする
国民精神総動員運動を展開し、
その実践事項としては奉公精神の涵養、銃後の援護の強化持続、経済政策に順応する生活の建て直し、資源の愛護などで、
ことに神社参拝や隣保団結、納税貯蓄、勤倹力行などが強調され、
国民一人一人の生活は抑制されていった。

この運動は次第に強化されて昭和14年11月には部落会、隣組の末端組織を作り、
それぞれ常会を設けて全国民を戦争体制の中に入れ、国策に協力するよう強く推進されたのである。
この頃から服装も男子は巻脚絆、女子は筒袖にモンペが常用になった。

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「岡山県郷土部隊史」昭和44年発行

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「早島の歴史2」 早島町史編集委員会  1998年発行


昭和の幕開けは全国的な御大典祝賀行事で始まった。
しかし、そのお祭りムードの裏で戦争への準備も着々と進み、満州事変・上海事変を経て昭和12年には日中の全面戦争へと突入した。
そして昭和16年の真珠湾攻撃によって日本は世界を相手に戦争を行うこととなった。


昭和12年7月の盧溝橋事件を機に日中全面戦争にいった。
そして、人々の生活も軍事最優先とされた。
こうした時代の中で、早島からも数多くの人々が戦地へ赴いた。
早島町出征軍人後援会(会長=町長)は町や家族の近況などを掲載した『早島新報』を発行した。

男たちの多くが出征した後、地域や家庭の守りは女たちの役割となった。
そして、彼女たちは愛国婦人会・連合婦人会・大日本国防婦人会などの婦人団体に組織された。
婦人会員の実行すべき申し合わせ事項として、
一、非常時の国家に報いるために、はたまた一家の更生のために一層勤労努力致しましょう。
二、経済の組織化計画化を図り、之が実行を期しましょう。
三、分に応じ社会奉仕をしましょう。
四、経済生活と道徳生活を一致させましょう。

その下に数項目からなる細かな目標を定めている。
ととえば、
子女の教育に留意し御国に役立つ善良な第二の国民をつくろうとか、
非常時を自覚し一日のうち一時間長く働こうとか、
宅地を利用して野菜や鶏・兎を育てようとか、
日常生活の細部にわたって目標が掲げられていた。


昭和12年8月、大日本国防婦人会都窪郡早島町分会が組織された。
宣誓決議には

本町よりも勇士を多数戦場に送っていることは、ひそかに誇りとし歓びとするところでありまして、
本町民たるもの挙町一致、
常に皇軍の武運長久を祈り、不断に銃後の務に欠くることなきを念ひ、努力を続ける次第であります。

その後、三つの婦人団体は昭和17年全国的に統合され「大日本婦人会」として再発足した。
早島町でも、モンペ服装にて国防訓練に貯蓄に援護に会員一同団結して活動する会員数1779名の早島支部が発足した。


昭和12年8月、政府は全ての国民を戦争に協力させるために国民精神総動員実施要項を策定した。
早島町でもこれを受けて、10月13日から一週間を強調月間とし、
各戸ごとに国旗を掲揚して、
13日・時局生活の碑、
14日・出動将兵への感謝の日、
15日、非常時経済の日、
16日、銃後の守りの日、
17日、神社参詣殉国勇士を讃える日、
18日、勤労報国の日、
19日、非常時心身鍛錬の日、
と定め、行事の励行に努めさせた。

思想防衛団
また、思想統制も強化され昭和13年10月には「早島町思想防衛団」が組織された。
共産主義や反国家思想による銃後錯乱に備えるものであった。
団長は町長、副団長には助役と小学校長が就任した。
町内を16の班に分けそれぞれに班長を置いた。
その活動は思想動向の調査にあり、人々は心の中まで監視されるようになった。

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