もとやんは茂平の漁師で、
漁業とわらじを編むのを業としていた。
普通の茂平の漁師は、半農半漁で、
収入も労働時間も、
ほぼ漁業半分、農業半分で生活していた。
もとやんは農業をせずに毎日、稲わらで草鞋を編んでいた。
もとやんは無口な男で、浜にいるときも無口だった。
自宅で草鞋を編むでいる時も、もちろん無口だった。
子供たちも、もとやんを不思議な感じで見ていた。
もとやんは、中年だったが、独身の身の様子だった。
その当時、独身で一人家族の家は珍しかった。
もとやんとは年に一度話す機会があった。
それが城見小学校の運動会の前の日。
5円玉を持ってもとやんの家に入る。
そこには、もとやんが黙々と手と足を使って藁仕事をしている。
家の土壁には、もとやんが作った草鞋が紐に結んで何足も壁中に吊ってあった。
そこで、もとやんと何か話したはずだが記憶がない。
たぶん、気に入った草鞋を手にして、黙ったまま、お金をもとやんの手のひらに渡したのだろう。
翌日、もとやんが編んだ草鞋を履いて運動会の競走に出場した。
小学校を卒業するころ、
もとやんは苫無の海岸で死んだ。
もとやんが死んだのは子供たちの大きな話題になったが、
すぐに過去のことになっていった。
もとやんは、
茂平の子どもたちに愛されたわけでも、嫌われたわけでもないが、
黙々とした漁師姿と稲わら仕事は、茂平の一つの昭和の風景だったことには、間違いない。