しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大正9年・尼港事件③北樺太を占領

2023年07月23日 | 大正

日本のシベリア出兵は無残な失敗に終わった。
尼港事件は、その中の事件で
それから四半世紀後に発生した、ソ連による日本兵のシベリア抑留の口実の一つにも利用された。

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「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書 

7月3日、日本政府は北サハリンを「保障占領」することを宣言した。ロシアの政府が、尼港事件を解決するまでの担保としての占領を意味した。
アメリカは尼港でなく、なぜ北サハリンか疑問を呈した。


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「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 


1922年10月25日、日本軍のシベリアからの撤兵完了。
1925年、北サハリン撤兵。
日本は各国間で孤立化を深めた。
侵略開始から7年間に及び、敗北に終わった。

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尼港事件「平和をたずねて」 毎日新聞 2018年8月21日


日本の徴兵制は本籍地主義だったことから、部隊の全滅は町や村の戦没者を一気に増やし、男性の人口を減らした。
尼港事件では歩兵第2連隊(水戸)第3大隊がそうだった。
連隊の犠牲者307人中281人が茨木県の出身者で占められた。
在郷軍人会が水戸市内に建立した「尼港殉職者記念碑」に、次の記述がみられる。

《この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍で、情勢の悪化を憂い中央では増援の派遣を図ったが、結局積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。(略)》

戦死した兵士は、異例の2階級特進となったが、地元紙「茨木民友社」の長久保社長は軍部の責任を厳しく問うた。
1920年6月水戸市常盤公園で招魂祭が営まれたとき、田中義一陸相や上原参謀総長らが列席したことにふれ、長久保社長はこう論じた。
『これを以って見ても其の責任上遺族を慰撫する事に於いて如何に狼狽したかを窺知するするに足りるであろう』

続けて「勝田市史 近代・現代編1」は次のように書き留めている。
「領土さえ拡がれば国は繁栄するものと心得ている低能児」の軍閥と
この軍閥と手を結んだ原敬内閣とを、舌鋒鋭く批判する長久保こそ、無名の師にむなしく異郷の地に斃れた兵士たちの真意をあらわした言論人であった。

尼港事件の追悼碑は、全国に少なくとも6ヶ所ある。殉難者は軍人の水戸に対して、民間人は天草(熊本県)が多かった。
≪わが天草人にして、殉難せる者百十名の多きに達す。(略)悉く自力更生のため大陸に進出せる勇者なりき。然るに業中にして俄然凶手に斃る。人生の恨事、何者か之に過ぎん。嗚呼、悲しいかな≫
続けて、
≪然れども殉難者の一死は、あえて徒死にはあらざりき≫として、こう説明する。
≪国家に対して貢献せる所、決して少なからず。
即ち、国防上最も必要なる北樺太の利権は、ひっきょう殉難者の賜たるは勿論、帝国今日の大陸政策もまた、つとに諸君の雄図に胚胎(はいたい)せり≫
時代を映す碑文とはいえ、北サハリンの「保障占領」に「貢献」したといわれても、民間人の死者たちは当惑するのではなかろうか。

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尼港事件で多くの戦死者を出した茨城県では、どのように記されているのだろう

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「茨城県の歴史」 山川出版社 1997年発行


英・米など16ヶ国がチェコスロバキア軍の救済を掲げて、ソビエト政権打倒の軍隊をシベリアに派遣した。

日本も積極的に参加したが、大正9年2月に黒竜江口のニコライエフスク(尼)で、ソビエトのパルチザン兵士によって日本兵が殺害されるという尼港事件がおこった。
尼港を守備していたのは水戸第二連隊であった。
281人の戦死者を出し、県民に大きなショックを与え、深い傷あとを残すことになった。

シベリア出兵は、また、軍隊の食糧需要を狙った米穀商による米の買い占め・売り惜しみをうみ、米価が急騰する事態を招いた。
このため、大正7年8月には富山県の漁村から火を噴いた米騒動が全国各地をおそった。

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甘港事件「いのちと帝国日本・14」 小学館2009年発行 

結局、日本軍が沿海州から撤退を完了したのは1922年10月25日で、米騒動やデモクラシーの拡大という国内情勢を考えると、これ以上の駐留は不可能であった。

こうして、5年近くに及んだ日本軍の「シベリア出兵」は、世界中の批判のなかで、無惨な失敗に終わった。
居留民の保護を名目とした出兵が、逆に日本人に対する反感を増長し、現地での生活が困難になり、日本への引揚を余儀なくさせてしまう結果となったのである。

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大正9年・尼港事件②”尼港の惨劇”

2023年07月23日 | 大正

尼港の惨劇にたいし、日本は北樺太を占領した。
その対抗措置は米国や他国から不審な目でみられた。

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「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  

尼港事件


1920年3月11日、武器引き渡しを迫るパルチザンに、日本軍が民間人と共にパルチザンを襲撃した。
ところが中国の艦隊や、朝鮮人住民もパルチザンに味方し、日本人大半が戦死した。
尼港の状況は4月になって断片的に東京に伝わってきた。
尼港事件は、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇で、日本の国際的な孤立を際立たせていた。
しかし国内ではその点に目は向かず、犠牲者に外交官・民間人・女性子供が含まれているのに衝撃が走った。
4月9日、原内閣は救援軍派遣を閣議決定する。
6月3日、事件現場の尼港に到着。街は焼き払われ、捕虜は全員殺害されていた。
外務省は、日本人735名殉難者とする文書を発表した。

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「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 

1920(大正9)年2月
尼港を占領中の日本軍が4.000人のパルチザン軍に包囲され降伏した。
3月、協定を破って奇襲攻撃を仕掛けた。副領事を始め兵士・居留民7.000人余が全滅した。
5月、日本の救援部隊を前に日本人捕虜・反革命派ロシア人全員の殺害に及んだ。
日本は報復措置として7月に北サハリンを占領した。

1920年4月、米国撤兵完了。
1920年夏、英仏伊も撤兵完了。
米英仏伊は「赤軍」と停戦協定を結んだ。

尼港事件は各国の対ソ経済封鎖解除が進行し、通商交渉が開始されていた時期に起こった。
日本に対しても、20年2月に対日講和を駐仏大使に打診されていた。


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「岡山県郷土部隊史」 岡山県 昭和41年発行


赤衛軍は、大正9年3月12日までに武装解除して降伏するよう強い要求を申し込んできた。
日本軍は領事ならびに居留民と協議したが、
武装解除して敵に降伏することは帝国軍人として絶対できないから、
要求期日の前夜に夜襲を決行して、
敵の首領を倒し、政治犯として投獄されているロシア人有力者を救出して日本軍の味方にすれば、尼港の治安も回復できるとう結論に達した。
石川大隊長は敵の宿舎を襲撃したが、逆にわが軍を包囲され、失敗した。
降伏し、武装を解除されて投獄した。
これよりさき避難民が氷上を北樺太に避難してきて、
はじめて内地に伝わり日本政府も事態の重大さに驚いた。

日本政府は在留民の保護と権益確保のため、
大正9年4月北部沿海州派遣軍を尼港に派遣した。
大正9年4月30日岡山の山砲兵第二聯隊に出動命令が出た。
5月17日岡山を出発、宇品から北上、いよいよ尼港に向かったが
船を沈め、日本軍のそ上を妨害して逃走したので、
大隊は黒竜江の村に上陸、休養をとることになった。

一方多門大佐の指揮する支隊は尼港を挟撃する態勢をととのえた。
そこで敵は尼港を放棄することに決し、
5月24日投獄者全員を縛り、桟橋附近に連れ出して惨殺し、
死体は全部黒竜江に投げ込んだ。
そうしてわが軍の進撃の近いことを知ったバルチザンは、
6月3日全市に放火して逃亡してしまった。

尼港は事件前、5万の人口を有する黒竜江唯一の良港で相当繫栄しており、
在留同胞は4百余名、軍人を合すると7百余名が在留していたが、
その全部が惨殺され、
わが軍が占領した時はわずかに支那人の妾となった4.5名の者がいたのみであった

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「日中戦争全史・上」 笠原十九司著 2017年 高文研発行

4月になって日本軍尼港守備隊全滅の情報を得た日本政府は、ただちに尼港救援隊出動を決定。
2.000人の部隊を小樽から派遣したが、アムール川河口は結氷のため、接近できず、解氷期の5月になってようやく軍事行動を開始した。
日本軍が尼港に進撃すれば、俘虜として収監されている日本人の生命安全が危うくなることへの配慮はなされず、パルチザンから尼港奪回の大義名分にこだわった。
日本軍を阻止できないと判断した赤軍司令官は、5月24日から25日にかけて、約130人の獄舎の日本人捕虜は、アムール河畔に連れ出されて殺害された。
尼港から撤収したパルチザンは、市の大部分に火を放って破壊した。

この事件は、「尼港の惨劇」の悲報として、日本国内でセンセーショナルに報道された。
一次尼港事件(3月)
6月25日・大阪朝日新聞
最後の最後まで我が軍は死力を尽くして奮闘した、領事が妻子を銃殺した時の胸中や如何。
街区に横たわる死骸。
居留民は3月13日以来毎日門口に引き出されて惨殺され、420名中残ったのは僅かに8名であった。
二次尼港事件 (5月)
6月7日・大阪朝日新聞
凶悪言語に絶する尼港の過激派、邦人130名を殴殺する。
残留民を悉く殺戮。
尼港の虐殺五千名。アムール川の氷上に投棄されし同胞。
児童は岩石に叩きつけて打殺し、女は凌辱後裸踊りさして銃殺。
板壁に残る絶筆「5月24日午後12時を忘れるな」。
という大中の見出しをつけて報道された。

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