しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

男女共学⑪昭和22年男女共学前夜(笠岡男子国民学校・女子国民学校の場合)

2023年05月27日 | 学制150年

笠岡には明治時代から昭和42年まで、
同じ敷地内に二つの小学校があった。
戦前は男女別の学校で、戦後は東西に区分けして男女共学になった。
男女共学後、両校は競いあい、
田舎の小学校の生徒は、西小や東小には何をとっても勝負にならない、と思っていた。

 

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奉安殿・男子校

 

 

奉安殿・女子校

 

 

大楠公像・男子校

 

楠公母子像・女子校

 

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国民学校

昭和16年4月から昭和22年3月まで施行された。
国民学校は、
「皇国の道に則り」、「皇国民の基礎的錬成」を目的とした。
小国民を皇国民に練磨育成する。
従来の「教授学校」から「国民錬成の道場」に替わった。

「教育史」 柴田・斎藤共著 学文社 2005年発行

 

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「岡山教育史」

昭和19年11月7日
「校地の高度利用に関する件」を指示し、
校地を高度に田園化することを至急実施されたいとして、次の事項を命じている。

田園化すべき面積
其の外を田園化する

中学校・青年学校
体操教練に必要なる最低面積
国民学校
初等科総数一人当たり0.8坪、高等科1坪。

観賞植物等は、食料農作物に転換すること。
至急作付けを行うこと。

 

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「岡山県史・現代1」 岡山県 昭和59年発行


戦時色の一掃


戦後の学校は、軍国主義から民主主義へと180度の方向転換の努力を続けながら、
教育を再開していった。
1945年(昭和20)9月20日文部省は、国防軍備などを強調した教材、
戦意高揚に関する教材などの全部、またはその一部を削除することの通牒を発した。
教科書に墨を塗って使ったのはこのときのことである。
当時、GHQの指令は至上命令であった。
修身・歴史・地理の教科書は焼き捨てられた。
校地内にある御真影・奉安殿・忠霊塔・忠魂碑・和気清麻呂公胸像等の撤去は、
形跡を留めない状態とされた。
御真影はそれぞれ地方事務所を経由して県庁へ奉還し、吉備津神社で焼却した。
教育勅語は、1949年国会で失効が決議され、同年回収された。

 

新しい小学校教育

1947年4月、一連の学校制度の改革が始まった。
国民学校は廃止され、元の小学校に呼び名が改められた。
教育の課程は現場の教師によって自主的に編成されるべきものであって、
文部省の示す「学習指導要領」は参考書にすぎない、という建前をはっきりと打ち出した。


「岡山県史・現代1」 岡山県 昭和59年発行


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(昭和42年)

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「笠岡小学校百年史」 笠岡小学校 昭和48年発行

新学制による男女共学の想い出


(昭和22年)
10月1日全児童が運動場に出て、各クラスとも東小から西小、
西小から東小に行く児童、そのまま残る児童と二列に並び、
行進曲でいっせいに講堂の前で同学年の児童がいっしょになるようにして別れていった。
本日をもって実質男女共学となった。
最初どちらも気をつかい、男子は男子だけ女子は女子だけで集まって行動することが多かった。
どちらもライバル意識を持ち勉強、遊びに対抗意識が強かった。
しだいに学校全体の空気が和らいできた。
なかには学校が変わらうのをいやがり住所変更をする児童もいた。

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「笠岡市史第四巻」 笠岡市 平成14年発行

これまで「男女七歳にして席を同じゅうせず」との意識が一瞬にして覆されて男女がともに机を並べる現実に、
笠岡町立東小学校(旧男子校)と笠岡西小学校(旧女子校)では、
西小から東小へ487名、東小から西小へ503名が移籍することになった。
昭和22年10月1日、東西両校で児童の移籍の為に式典をとりおこない、
相手の学校に送る児童、迎える児童には担任の教師がついて送迎を行った。

これまで見られた男尊女卑の風習が解消され、その名残であった東・西小学校の格差といったものもなくなって、二校が対等、平等に評価されることに変わって、
この二校間は何かにつけ良い意味での競争が始まった。

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男女共学⑩新制中学校

2023年05月27日 | 学制150年

明治20年代生まれの祖父は、中学校のことは終生”新中”(しんちゅう)と呼んでいた。
その時代に生まれた人にとって「中学校」は別世界の人が通うところで、
戦後に出来た新しい「中学校」は、誰も皆が行く学校。
そのギャップが、よほど大きかったのだろう。

 

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「岡山県史第13巻」 岡山県  昭和59年発行

制中学校制度(発足時)

昭和22年。
新制中学校第一学年は、現在の国民学校第六学年を終了する児童を収容し、
第二学年、第三学年は非義務制とし、
国民学校高等科一、二年生および、
青年学校普通科一、二年生などのうち、希望する者を収容するとした。
さらに、男女共学・独立校舎・専任校長などが、新制中学に要求されている。

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「岡山県史・現代1」 岡山県 昭和59年発行
新制中学校の発足
1947年(昭和22)
第一学年だけ実施。
第二学年、第三学年は非義務制で、
国民学校高等科一、二年生および、
青年学校普通科一、二年生のうち、希望する者を収容する。

学校規模は6学級以上20学級以下を標準とする。
通学距離は片道6km程度をもって限度とする。
校舎は独立建築を原則とする。
男女共学制を完全に実施する。

戦後の混乱と生活不安が、人々を取りまいていた当時では、無用の施設としか考えられなかった。
その日その日をいかに生きるかを血眼になって求めていた時代である。

新制中学校の性格
これまでの小学校高等科的感覚か、
旧制中学校的感覚で把握するか。
岡山市では当時の教育課長が
「小学校高等科の延長であるより、中等学校的である」
と中等学校から教師を集めることに主力が注がれている。

教員組織は、
「小学校・青年学校・中等学校からの転勤組と新採用教員とで構成された寄せ集めで
毎日毎日新しくぶつかることばかり」
校長は、多くの苦労があった。

世間は、
「女の子が中学校へ行くそうな」「男女共学じゃそうな」「みんな無試験」「授業料はいらぬそうな」とわいわい騒いだ挙句の果て、
『新中』という半ば侮蔑的な名称をた奉った。
古い中学校の観念しか持ち合わさない人々にとっては、
いろいろな意味において驚くべき存在であったことは間違いない。

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中学校創立当時の苦心

毛利章一(当時金浦中学校長)
中学校長を命ぜられ、開校するまでの一か月、
半数以上そろっていない各教科の教員を集めること、
三か所の小学校と青年学校をまとめる交渉からスタートした。
学校の位置は三か町村の意見が対立し地方事務所長や県会議長まで仲介にたたれたが、まとまらず分裂寸前まで追い込まれたこともあった。


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「教育史」  柴田義松・斎藤利彦  学文社 2005年発行

占領軍のとった教育政策

設立趣旨
教育の機会均等化
6.3.3.4制への学校体系
授業料無償
男女平等・共学
住民選挙による教育委員会の設置
社会科の創設などによる「民主教育化」の、基本構想。
こうして1947年(昭和22年)から戦後日本の「新学期」がスタートするのである。

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男女共学⑨青年学校

2023年05月27日 | 学制150年

昭和10年から昭和24年まで、日本の教育制度は幾度と改編された。
昭和10年頃、城見村には「城見尋常高等小学校」を卒業後、進学しないで就労の人たちは「城見青年訓練所」(いわゆる青訓)に通っていた。
この青訓が昭和10年制度化され「城見青年訓練所」となった。昭和14年義務化された。
昭和17年政府は「小規模校を統合」して「独立校」への指示を出した。
なお学校規模は中隊(約240人)訓練が出来ることが目途とされた。
金浦青年学校は国民学校(高等科の意味か?)の校舎と共に昭和17年1月20日落成した。
城見青年学校は昭和10年に改称、昭和17年から独立校である組合立金浦青年学校に統合して消滅。
金浦青年学校は学制改革により消滅して、新制の「金浦中学校」に吸収された。

参考・岡山県史・笠岡市史

 


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「新修倉敷市史6」

青年学校

青年学校は昭和10年の「青年学校令」によってうまれた。
昭和16年には児島・倉敷・玉島の繊維工場に女子青年学校が開設されている。
三菱重工水島航空機製作所も昭和17年、工場建設に先がけて青年学校や寮の建設が行われ、4月開校している。

昭和14年青年学校令は改正され、軍部の強い圧力のもとで所定の学校に在学するものを除いて、年齢満12歳を超えて満19歳までの男子は、
その保護者が就学させる義務をもつことになった。
義務制実施に伴って昭和16年度からつぎつぎと青年学校が開設されたが、翌年からは教員不足の問題もあり、
全国的に統合が進められた。
戦時教育下での青年学校は軍国日本のために、甲種合格が目標とされた。

軍事訓練は陸軍の強い指導で重視された。

 

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「岡山県教育史」 岡山県教育委員会  昭和49年発行
青年学校

青年学校は独立校が少なくて、町村の組合立が多く、
校長は小学校の兼務が普通であった。
昭和16年以後は
「各週概ね2日とし昼間、
自三時至六時三時間を標準とす」
と定められた。
義務制になるとともに就学、出席の督促がきびしくなり、
理由なくして二週間以上欠席した場合は市長が督促し、
さらに出席しないときは県知事、さらには憲兵隊へと報告されたといわれる。
義務制実施に伴って、昭和16年度から各地方につぎつぎと青年学校が設立された。
学校数の増加に伴い、最も大きな問題は教員の不足ということであった。

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「昭和③非常時日本」  講談社  平成元年発行

小学校と兵役をつなぐ
青年学校のはたした役割

昭和10年4月1日、「男女青年に対し、其の心身を鍛錬し徳性を滋養すると共に職業及実際生活に須要なる知識技能を授け以て国民たるの資質を向上せしむる」ことを目的とした青年学校令が公布され、同年10月10日から青年学校が開校した。
この青年学校は、すでに存在していた実業補習学校と青年訓練所を一つの教育機関に統合したものである。

実業補習学校は
明治26年制度化されたもので、小学校卒の勤労青少年を対象に、修身・読書・習字・算術など小学校教育の補習と併せて、職業上の簡易な知識・技術を授けることを目的とし、その数は昭和9年には15.315校に達していた。

青年訓練所は、
大正15年(1926)4月20日に公布された「青年訓練所令」によって設立された、陸軍省と文部省の管理下に置かれた軍事教育機関だった。
対象は16才から20才までの勤労青少年(男子)で、実業補習学校終了から兵役までの空白期間を埋める形になっていた。
同年7月、公私合わせて15.523校が一斉に開設された。
 義務教育終了後の全青少年を直接管理し、「帝国臣民」としての公民教育を施そうとしたのである。
ところが、小学校の校門には、高等小学校、実業補習学校、青年訓練所の三つの看板がかかげられるのが通例となり、教育制度体系に混乱を引き起こすもととなった。
このため、青年訓練所発足後1年足らずして、実業補習学校との合併論が浮上し、昭和5.6年頃になると、青年期教育全体の再編成構想の一環として双方を合併し、新たに青年学校を設置する案が文部省で策定される。
文部省原案による青年学校は、社会的教育機関という性格が強かったが、これに軍部が反発し、逆に「合併して青年訓練所となす」案を強硬に主張した。論議は平行し10年になってようやく制度下にこぎつけた。

青年学校の課程
普通科と本科からなり、普通科が2年、本科が男子5年、女子3年で、地域の状況により男子4年女子2年とすることもできた。
普通科は尋常卒、本科は高等小学校卒業者だった。

青年学校の義務教育課
昭和12年7月、日中戦争の勃発とともに、日本は本格的な戦時体制へと突入していった。
この情勢のなかで4月、「青年学校令」が改正され、男子青年学校は義務制度化された。
高度国防国家体制の確立が叫ばれるなかで、国体観念の強化、兵士予備軍の育成、軍需生産体制への適応を、いっそうおしすすめるためだった。

これによって、満12歳以上19歳未満の上級進学者以外の男子はすべて青年学校へ就学しなければならなくなった。
また義務制度にともない、工場・事業所など企業内の私立青年学校が奨励された。
義務化実施には私立青年学校の普及が必要だった。
しかし義務制化は、同年から一学年ずつ実施していき、20年に完了するはずだったが、戦争の激化と敗戦によって、完全な実施をみることはなかった。

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「笠岡市史第四巻」 笠岡市 平成14年発行

敗戦

学校では神国日本はいかなる時にも戦争に負けることはないと日々教えられ、
将来の夢は立派な軍人になることを教育されてきた子どもにとっては不安よりも驚きの方が大きかった。
大人にとってはその逆で、これからの生活はどうなるのか、占領軍のさまざまな情報がその気持ちをよけいに煽り立てた。

GHQの指導により単線型の学校体系、男女共学の一大変革が大きな柱となった。
荒らしい学制はまず、高等科の廃止、新制中学校建築や移行であった。

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