しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

男女共学①昭和22年男女共学前夜「青い山脈」

2023年05月15日 | 昭和21年~25年

中学校2年の時の担任の先生には、決まったフレーズがあった。
「いや~~ぁ”青い山脈”はいいですねえ」。
何度も言うので、よほど、その映画に感動や衝撃を受けたことがわかった。
先生の年齢からみても、映画の主人公と同年代で共感やあこがれがあったのだろう。

その後、テレビの放映で何度か見たが、確かに日本人が解き放たれ、新時代をよく感じさせる映画だった。
中2の担任の先生が思わず何度も言っていたことも、よく理解できるような気がした。


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「NHK歴史への招待」 鈴木健二  日本放送協会 昭和57年発行

 

昭和22年男女共学前夜「青い山脈」

 

石坂洋次郎の『若い人』が昭和13年告訴された。
「先生、天皇陛下は黄金のお箸でお食事をなさるってほんとうですか?」
と女学生が質問する場面が”不敬罪”となった。

 

 

戦後日本の再建は、GHQ指導の下に進められた。
マッカーサー元帥は、民主国家日本を築き上げるべく、
「五大改革の指令」を発した。
一、女性を解放すべし
一、経済を民主化すべし
一、労働組合を結成すべし
一、人権を制限する制度を廃止すべし
一、学校教育を民主化すべし

六・三制の施行、男女共学の推進、PTAの設立、などの勧告を行った。
昭和22年「教育基本法」、
第五条(男女共学)
男女は、互いに尊重し、協力しあわなければならないものであって、
教育上男女の共学は、認められなければならない。

教科書が足りない、校舎も足りない、机も足りない、椅子も足りない、教職員も足りない。
教職員も、新しい民主主義に、自分たちはいったい何を子供たちに教えたらよいのか苦悩していた時代である。


・・・


「男女七歳にして席を同じうせず」は国民学校令まで一貫して続いていた。
女子教育は、
「温良貞淑」「良妻賢母」が目的とされ、
男尊女卑の思想がまかり通っていた。

映画「青い山脈」には、
戦後間もない暗鬱としたムード、斬新なストーリーも、
今となってみれば、そう目新しいものでもない。
封切りは昭和24年7月。
原節子、竜崎一郎、池辺良、杉葉子、若山セツ子らが熱演して、
人々の心を強烈にとらえていった。

映画主題歌「青い山脈」は、小説よりも2年後の昭和24年4月のこと。
藤山一郎・奈良光江のデュエットであった。

 

 

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昭和23年3月卒業写真・笠岡高等女学校

上下とも着ているものがいろいろ。

セーラー服あり、スカートやモンペの人。

 

昭和24年3月卒業写真・笠岡高等女学校(高等女学校最後の卒業)

 

(笠岡高校七十年史より)

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五・一五事件・その2

2023年05月15日 | 昭和元年~10年

小田県庁門 笠岡市笠岡 2023.4.3 (犬養毅は明治6~8年、小田県に勤務した) 

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「昭和③非常時日本」 講談社 平成元年発行

犬養首相、海軍将校らに暗殺される

昭和7年5月15日の夕方5時半ごろ、
三上卓中尉ら海軍将校4名と後藤映範ら陸軍の士官候補生5名からなる一団が、
二台の自動車に分乗して首相官邸の表玄関と裏玄関に乗りつけた。
そして警護の巡査2人を撃ち、官邸でくつろいでいた76歳の犬養首相を襲った。
頭部に二発の銃弾を受け、同夜11時26分、絶命した。

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妙乗寺 笠岡市笠岡 2014.2.9 (犬養毅の所属した小田県地券局があった)

 

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「歴史街道」 2023・6月号

昭和史の分岐点
五・一五事件

政党政治の頂点を示した浜口内閣

浜口内閣はロンドン海軍軍縮条約を結ぶことに成功する。
ところが、天皇の「統帥権を犯している」として、海軍などが反発した。
浜口は一歩も引かず、枢密院に対しても果敢に論争を挑み、同意を取り付けた。
昭和5年11月、浜口首相が、東京駅で右翼に銃撃される暗殺未遂事件が発生した。
翌昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を発端とする満州事変が起こる。
若槻礼次郎内閣は事変の不拡大を模索したが、関東軍は独断で拡大路線を突き進んだ。
柳条湖事件は、後世から見れば関東軍によるものだとわかるが、
当時の国民は「中国側が仕掛けたもの」と信じていた。
軍部は中国を懲らしめ、満州国という理想の国家をつくろうとしている---
そう思い込んだ国民は、軍部への評価を一変させていった。

昭和6年12月若槻内閣は総辞職、その後を立憲政友会の犬養毅が継いだ。
翌年
昭和7年3月「満州国」建国が宣言された。
五・一五事件のわずか二か月前のことである。

報道される戦果に接するうちに
「純粋で私利私欲がなく、真に日本のことを考えているのは軍人ではないか」
として、国民の評価が変化していったのである。

五・一五事件の後、新聞に掲載された首謀者の青年将校たちの動機を読むと、
失業者の増加、農村の貧困などを問題とし、
現代風にいえば社会的格差の是正を訴えている。
「首謀者たちは日本社会の現状を憂え、やむにやまれず直接行動に出た」
と当時の国民の多くが同情を寄せ、
減刑嘆願する署名活動が始まった。
手段はよくないが目的は評価できるという見方が広まった。

五・一五事件に始まる対外戦争への道
五・一五事件をきっかけに軍部の力が強くなると、
昭和11年(1936)の二・二六事件のころには、
「軍部がいなければ、クーデターを防げなかった」
とプラスの評価をされるようになった。
軍部が起した事件で、より軍部が強くなるという不思議な現象が起こっていたのである。

昭和12年(1937)7月、
盧溝橋で軍事衝突が起こる。
この盧溝橋事件を発端として、泥沼の日中戦争が始まるのだが
ここまでに軍部の力が強くなっていなければ、全面戦争に突入することはなかったかもしれない。

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「昭和③非常時日本」 講談社 平成元年発行
クーデターの下地を作った農村の疲弊

海軍側将校らの裁判が進むにつれて、全国から減刑を求める声が高まった。
三上中尉らの
「疲弊の極にある農村を救って健全な軍隊をつくらねばならぬ」
という陳述や、
資本主義の農村搾取を怒り、国家改造をはたしたのちにアジアを白人から解放しようという言葉に、説得力を感じさせる社会状況があった。

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「歴史街道」 2023・6月号

 

青年将校たちはなぜ減刑されたのか

荒木陸相と大角海相は、大臣講話を出し、
青年将校らの行為は間違っていた、としながらも、その動機を
「至純」と評して、
「涙なきを得ぬ」と同情をあらわにした。
特に陸軍側は「私心なき青年の純真」を称えた。
満州事変を境に軍へ接近しつつあった大手メディアも、
被告の公私にわたる情報を盛んに報道し、
在郷軍人団体や教育関係者などが、減刑嘆願運動を担っていた。
当時は、
軍人を裁く権限が軍部にあったことにも注意する必要がある。

 

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「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行


日本は深刻な人口危機に直面しており、
それを解決するには軍事的な拡張しかない、というのが大方の見方であった。
国内の指導者はいずれも弱腰で優柔不断に見え、
一方で国民の意思と公徳心は後退していた。
増大する一方の人口と産業とをまかなっていくためには、
欧米列強に匹敵するようなそれなりの大帝国を手にしなければならない、
というわけである。

こうした考えが間違っていたことはほどなく歴史が証明することになる。
この考えに起因する戦いは無残をきわめた。
そして第二次大戦後の日本は、
帝国がなくなってかえって、
従来よりもはるかに繫栄し、成功した国家となったのである。

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五・一五事件

2023年05月15日 | 昭和元年~10年

犬養木堂の選挙区は岡山県二区で、
父も母も、その選挙区内に住んでいたが投票権はなかった。
男性は25歳以上で選挙権、
女性には選挙権も被選挙権もなかった。

 

木堂翁は、普選にたいへん尽力した政治家。
昭和3年2月20日の「第16回衆議院議員総選挙」が、国政では初めての普通選挙。
この時、家では
祖父と曾祖父が生まれて初めて投票所に行っている(と思うが棄権しているかもしれない)。
祖父は明治生まれで平成まで生きたが、戦前の政治や政治家の話をしているのを見たことがない。

 

この選挙に、政界を引退していた木堂翁は無理やり立候補することになり、13,680 票で5位(最下位)で当選した。
翌年政友会総裁就任。

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昭和6年(1931)9月、満州事変。
昭和6年(1931)12月、首相就任。
昭和7年(1932)5月、暗殺。76才。(その後、犯人は全員恩赦で釈放された)

 

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(岡山市吉備津 2023.4.30)

 

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5.15事件


サンデー毎日(2017.11.26号)「憲政の神様」と「統帥権干犯」発言・保坂正康

 

議会の誕生と共に岡山県から当選し、ただの一回も落選することなく、その座を守った「憲政の神様」。
議会政治家として使命を全うし、テロの犠牲になった悲劇の政治家であった。

5.15事件は奇妙な事件であった。
とくに軍人側には存分に法廷で弁明の機会が与えられた。
自分たちは自分自身のことなどこれっぽちも考えていない。考えているのはこの国ことだけ。軍の指導者は、この国の改革について考えてほしい。
テロの決行者は英雄だとの受け止め方が一気に広がった。
テロの犠牲になったはずの犬養家のほうが社会的な制裁を受けることになったのだ。

事件当日、首相官邸にいた11歳の少女は祖父の死をどのようにみたか?
道子氏はこのような歪な日本社会を具体的な作品に書き残している。
昭和6年12月、政友会が与党になり、その代表であった犬養毅は元老西園寺公望の推挙もあり、天皇から大命が降下される。
満州事変から3ヶ月ほどあとのことだ。
満州事変解決を目指して動くと、森恪内閣書記官長は激越な調子で食ってかかった。
「兵隊に殺されるぞ」森は閣議後に、捨てるように言った。
『兵隊に殺させるという情報が久原房之助政友会幹事長の筋に入っている』、父(犬養健)が外務省から密かな電話を受けたのはその晩であった。この情報は確かだったのである。

道子氏は、こうした動きを当時から聞きとめ、メモに残していたのである。
「あの事件は本当にひどい事件でした。テロに遭った私たちのほうが肩を狭めて歩く時代だったのですから。何か基軸になるものが失われていたのですね」。


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城山三郎「落日燃ゆ」新潮社


(5.15事件の4ヶ月後)

日本政府は満州国を承認。議会も満場一致で賛成した。
これにより、関東軍の本庄司令官は爵位を与えられ、板垣、石原らの参謀連は要職に栄転した。
軍はいよいよ思い上がった。
天皇の御意向に背いたかも知れぬが、結果としては、日本の利益になったではないか。
天皇の御意向に忠実なのは「小忠」、天皇にご心配をおかけしても、皇国の発展になるようなら、それこそ「大忠」である。

それに、満州における関東軍の暴走には、それだけの国民的背景があった。
日清・日露に出兵して以来、満州は、日本人には一種の「聖地」と見られ、「生命線」と考えるようになっていた。
朝鮮人80万人を含む日本国民100万人が、すでに満州各地に移住していた。
日本の手で、南満州鉄道の整備をはじめ、大連港の拡張、多くの炭鉱や鉱山の開発がされた。
満鉄付属地には病院・学校なども建設され、満人に開放された。

万里の長城以北にある満州は「無主の地」といわれるほど、明確な統治者を持たず、各軍閥が割拠し、抗争をくり返し、匪賊が跳梁する土地でもあった。


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5.15事件

サンデー毎日(2017.11.26号)「憲政の神様」と「統帥権干犯」発言・保坂正康

 

犬養毅は「憲政の神様」といわれ、日本の議会政治の申し子とされている。
しかしミステークもまた何度か犯している。

たとえば、昭和5年のロンドン海軍軍縮では対米英7割を不満とした軍令部長に、
政友会の犬養や鳩山一郎が「統帥権干犯ではないか」と攻撃を続けた。
つまり軍部の力を借りて政府を攻撃するという構図になった。

軍部に伝家の宝刀があることを教え、
つまるところ日本が戦争に入っていく武器になった。

 

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