しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

高瀬舟

2022年05月12日 | 大正
岡山県三大河川の高梁川・旭川・吉井川には、どの川にも高瀬舟が運航していた。
鉄道の開通に合わせるように姿を消した。


(柵原ふれあい鉱山公園 2022.4.6)

↑の説明碑、
高瀬舟(たかせぶね)

柵原のある美作の国は山国でしたが、
吉井川の高瀬舟によって瀬戸内地方との交流ができたので、
経済活動が盛んでした。
江戸時代の柵原には6ヶ所の船着場があり、
高瀬舟は160隻、船頭も480人いました。
高瀬舟は年貢米をはじめ、
木炭や薪など、この地方の品物を積んで吉井川を下り、
帰りには様々な生活用品を積んで、吉井川を上ってきました。
この高瀬舟は、1992年に再現したものです。



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目で見る岡山の昭和

高梁川を遡る高瀬舟
帆を揚げ、地を這うように引き綱を引いて河を遡っていた高瀬舟が、
伯備線の開通でその姿を消した。

(目で見る岡山の昭和)



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(加茂町誌)

高瀬舟

「加茂町史」

古代以来明治にはいるまでの陸上交通手段は、人畜力のみであったから、
人肩馬背により四方を囲む山々の峠道を越えて行われた。
なかでも年貢米の輸送は、津山あるいは樽河岸へと陸送されるのが常であり、
その納入期には人々の長蛇の列が各輸送路に続いた。
こうした重量貨物で一時に多量の輸送を必要とするものは、
道路輸送よりも荷痛みも少なく、運賃も割安であった水運によって輸送しようという試みが各地で行われた。

高梁川の場合14世紀初頭には、支流成羽川で広島県境ふきん(備中町小谷)まで難工事のうえ通行していた。
当時本流では、数なくとも高梁までは通航していたと考えられる。
旭川・吉井川についても、それぞれ勝山・津山・林野までは中世末期に通航してたと考えられる。
この中世の船路が近世大名たちによって開発された。
航路の維持には、年平均1.000人の有償労働賦役を繰り出して川堀りし、藩の課題となった。

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「旭町史」
高瀬舟の運行

旭町からの高瀬舟は一日あれば岡山に着いた。
水の少ない時は途中で一泊することもあった。
岡山に着いた高瀬舟は兵団で荷上げをする。
鶴見橋西詰から土手を500mばかり北に行ったところにありオタビと呼ばれる大きな船着き場があった。
最盛期には100隻近く係留されていたという。

岡山からの帰りは、旭町まで3、4泊を要した。
逆水に舟を引き上げねばならないからであるが、流れの速い難所や、数多くあるかんがい用の井堰の航行に難渋したからである。
高瀬舟は大体一日に4、5里しかのぼれなかった。

高瀬舟の操船
オーブネという高瀬舟には、
オオサシ、ナカノリ、カジトリとよばれる船頭が三人いる。
オオサシは親方船頭ともいい、ミザオ(竹棹)をもって舳先にたち、カジトリに指示しながら操船する。
カジトリとナカノリは、コセンドウ(小船頭)、ツナヒキセンドウ(綱曳船頭)ともいわれ、高瀬舟に綱をつけて引き上げる仕事をする。
下りの時は、カジトリは蛇をとるが、ナカノリは雑用する以外仕事はない。
高瀬舟は、7,8艘つれだっているのがふつうである。
瀬や堰の所で舟を引き上げるための共同作業をしなければならないからだ。
川べりは曳船をするのに都合のよいように、細い道をつけてきれいにされていた。
浅瀬にかかって綱で引っ張れないと;きは、瀬持穴にセモチ棒をさしこみ、高瀬舟を担ぎ上げなければならなかった。

高瀬舟の生活
高瀬舟は、晩までに積荷を終えて、朝早く出て行くのがふつうであった。
舟には飲食に使う道具や寝具などが持ち込まれていた。
米や野菜、塩干物、調味料なども用意され、石のクドで炊事をした。
冬には炬燵までも持ち込まれ、風呂はなかったが、川岸の宿場で銭湯に入った。
船頭は、フナダマ様や金毘羅様を信仰した。
遭難事故は増水時の下り舟に多かった。
難所には金毘羅様を祀り安全を祈った。
川岸にはいくつもの安宿があった。
岡山の中島遊郭で散財をしたり、金川でどんちゃん騒ぎをして、すってんてんになって帰ってくることもあった。

高瀬舟の積荷
時代によっていろいろ変わって行きましたが、
通常、往きは
煙草、木綿、こんにゃく、薪炭、勝栗、「たたら」などを積みました。
帰りは
塩、石油、種油、紙、密柑、陶器、ガラス、砂糖が主なものでした。

種類
貨物のみを大舟、
客と荷物を積むのを日舟(ひせん)、
日舟は荷物が主で、金毘羅参り等が利用し、帰りは福渡まで汽車で帰り、それから舟で帰るという利用法がよくされていました。

積荷加減
水量によって積み方も変えてゆき、下りには前の方に積む方がよちされていました。

舟は通常長さ8間(15m)、幅8尺(2.5m)、
船頭は三人乗り込み、それぞれが麻紐85尋(155m)を一本づつ持ち乗り込みます。
舟の就航は一回5~8日で、一週間に一度。


昭和3年(1928)、伯備線の全線開通

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鉄道に追われた高瀬舟



「せとうち産業風土記」  山陽新聞社  昭和52年発行


今から500年前の室町時代に、早くも岡山県下三大河川には、
中流当たりまで高瀬舟が上っていた。
江戸時代になると、中国山地の山ふところまで航路が伸び、
高梁川は新見市、
旭川は真庭郡久世、落合両町、
吉井川は英田郡美作町、苫田郡鏡野町と奥深く進み、
まさに「舟、山に登る」といった感があった。


舟の長さは12m、幅2m、高さは1.1mほど。
どんな急流でも、幅5mの水路さえあれば自由に通航できたという。
船頭3人は、櫂、櫓、帆を巧みに操りながら下っていく。
江戸時代、高梁川には常時183艘もの舟が往来していたという記録が残っている。


高瀬舟は1艘で、
米なら35俵、
人なら30人運べ、
馬20頭分以上の働きがあり、物資輸送の花形だった。


鉄道が開通し、陸路が整備されると、客と貨物を奪われ
旭川、吉井川から次第に姿を消していった。
昭和3年、伯備線が全線開通するとともに、
高梁川でもその姿は見られなくなり、
河川交通の主役としての長い歴史を閉じる。


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銘仙のおしめ

2022年05月12日 | 昭和16年~19年
戦時中、”産めよ増やせよ国のため”の時代は
母子ともに栄養失調の時代でもあった。

出産祝いにもらって食べた、(漁師の隣家からの)魚がおいしかったことを母は何度も話していた。
産まれる直前まで野良仕事をしていたのは、どこの農家の嫁も同じ。

この時代に出産した母のことを思うと涙が出そうになる。
 



「勝央町史」 勝央町 山陽印刷  昭和59年発行
お産

「銘仙のおしめ」

お姑さんにお湯を沸かせてもらうように頼み、
産婦の腰を一生懸命こすりました。
細い身体が骨ばっていて、この家の生活が全部この人の腰に乗っかかっている感じです。
40歳近いご主人は、この6月召されて父母と子供5人それにお腹の胎児を残して沖縄に出征しているということでした。
当時でも助産婦は妊婦に
「栄養と休養を十分とるよう」などと、現実離れの指導をしたものです。

逼迫した食糧事情に、農家といえども米など十分に食べられるものではありません。
供出米は厳しく言い渡され、残りで家をまかなうのです。
イワシを買うにしても一人半匹しか買えません。
あとは大根や葉っぱを煮て食べるだけです。
この家も例にもれず、子供たちの残したイワシの骨を金網の上で焼き醤油をつけて妊婦は食べていました。
美味しいものは親に、甘い栄養のあるものは子供たちに、まずしくて残ったものがこの母親の食べものでした。

力いっぱいの三回くらいの陣痛で分娩しました。
「また男の子で元気ですよ」と、告げると再びお湯の用意に行かれました。
産後の処置をすませ腹帯を締めることにします。
探していると「そこに帯芯があるでしょう。それをして下さい」。
なるほど、衣料切符で買うといっても、その分はすべて子供たちの物でしょう。
この帯芯はきっとお嫁に来るとき、タンスに入れてきたものでしょう。

「おしめはここにあります」
見ると、黒と藍色の棒縞で、銘仙の着物を解いておしめに縫ってあります。
この銘仙もお嫁入りの時、持ってきた一枚に違いありません。
木綿もなくなったので、やむなくこれでおしめを作ったのでしょう。
これがこの時代の母として最高のお産の準備だったのです。
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