しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」第一章・参府旅行の準備

2021年09月28日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)


第一章・参府旅行の準備


すべての大名は、年に一度将軍の居城に参勤する。
彼らは直接将軍に恭順の意を示すのである。
わがオランダ東インド会社の代表者たる商館長もそれに従っている。

彼は1~2名の書記と1名の外科医をこの旅行に伴うことができるが、
そればかりでなく身分や官位の異なる一群の日本人に護衛されるのである。
これらの日本人は長崎奉行所の支配下にあり、奉行がその役を任命する。
この護衛の裏にある意図は全く別で、スパイや捕虜と同じようなものなのである。

私は参府旅行に加わる楽しみを持った。
二度の旅行で重要と思われたことを、この本に毎日順を追って記そうと思う。
若干の一般的な注釈を、前もって行う。






この旅行の準備。

将軍と閣老および江戸・京都・大坂にいる数人の高官に対する、一定の金額の進物を選ぶことから始まる。
贈物の選択は長崎奉行が行い、幕府に喜んで受け取ってもらえそうなものの中から決める。
彼らはそれらの品を早い時期に商館長を通じて注文するか、あるいは現に倉庫にあるものを取り出す。
しかし、こういう時に彼らは中国人が贈ってくれた自分の持物を紛れ込ませるのに、この機会を利用し、非常に高い値を付けたり勝手な値段をつけて売った。

それらの品は他のすべての旅行の必需品と一緒に船に積み込まれ、3~4週間かかって海を渡り、下関という小さな町まで先に運び、陸路を行くわれられの到着を待っている。
上に述べた船は、ただこの旅行にだけ使用し、長崎の港内に少なからぬ費用をかけて置いておかねばならない。

護衛として付けられる上級および下級の使用人
長崎奉行は与力から1人を選ぶ。指揮官である。
彼の後ろには鎗もちが従う。
与力には同心が付く。これに捕り方が加わる。
通詞は大通詞と小通詞がいる。
費用はすべてわが社(東インド会社)。
出発前に出島で少しばかり顔見知りになることが許されている。

次に荷物運搬人と馬匹を手配しなければならない。





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紫式部(宇治)

2021年09月28日 | 銅像の人
場所・京都府宇治市宇治橋西詰


紫式部
「日本史探訪5」 角川文庫 昭和59年発行

『源氏物語』はおよそ80年に及ぶ大河小説である。
華麗な絵巻物をくり広げるように、優雅な宮廷の社交生活が展開し、
おもな主人公は、その一生を、
詩と音楽と恋愛だけにささげているかのように見える。







たとえば光源氏は、12歳で最初の結婚したのち、40歳近くまでの間に10数人の女性との恋愛遍歴がある。
しかし光源氏は、たとえその女性がどんな女性であっても、最後までそれらの女性を見捨てることがなかった。
光源氏が、当時の女性の読者にとって理想の男性になったゆえんである。
そして、みやびな描写に託して、この小説は、
時の流れと人生の真実を描こうとした。
そこに紫式部の美意識があった。







昭和41年、パリのユネスコ本部は、この紫式部を、日本人としてただ一人、世界の偉人に選んだ。
シーザーやゲーテと並んで、世界の文化に貢献したというわけである。
紫式部は世界的な存在となった。






撮影日・2010.4.8


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(若き日の)徳川家康

2021年09月28日 | 銅像の人
場所・静岡県浜松市中区元城町  浜松城公園

家康の浜松時代は、29才から45才までで、”若き日の”でなく壮年期を浜松で17年間過ごしている。
もっとも大きな出来事は、岡崎から浜松に移って2年後の”三方ヶ原の戦い”であろう。







三方ヶ原の敗戦
「日本史探訪12」 角川文庫 昭和58年発行

元亀元年(1570)、家康29歳の時、家康は岡崎を離れ。浜松城に居城を移した。
二年後、家康は生涯ただ一度の手痛い敗戦をそこで経験する。

元亀三年(1572)十月、武田信玄は四万五千の大軍を引き連れて上洛の途についた。
天竜川沿いに北から侵入してきた信玄の大軍に対し、家康の軍は信長の援軍を合わせた八千余を率いて、三方ヶ原に討って出た。
ここで徹底的に討ち負かされた家康は、わずかな従者と、追い迫る武田勢をけちらし、やっとのことで浜松城に逃げ込んだという。

しかし、この戦いで、家康の譜代武将の率いる三河武士は勇名をとどろかせた。
武田軍の孟将馬場信房は、あとで信玄に、
「三河武士はたいしたものです。
死体を見てもこっちを向いている者はみんなうつぶし、
浜松の方を向いた者はあおむきになっていました。
敵に後ろを見せた者は一人もいない証拠です」と言ったという。

家康が「街道一の弓取り」と称されるようになったのは、
この戦いからだといわれる。











撮影日・2014年10月9日



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