しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「江戸参府旅行日記」番外編・オランダ商館が望んだ輸出品 

2021年09月23日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「九州そしてニッポン」   宮崎克則編 海潮社 2009年発行


オランダ商館が望んだ輸出品

輸出品は銀や銅が中心であった。
江戸初期の頃、日本から輸出される銀は非常に良質で、オランダの目的はこの銀であった。
銀の輸出が禁止されると、銅の輸出が主力となった。
大量に輸出された銅はヨーロッパの銅の相場にも影響を与えたといわれる。

オランダ船は日本に来航する際、
砂糖をバラストとして積み込んでいた。
その砂糖を降ろすと、今度は銅をバラストとして積み込んでいた。

他に輸出品として樟脳、陶磁器、漆器、醤油、海産物などがある。







輸出禁止品
貨幣、地図、あらゆる武器。
金製品であったはずの刀剣は、鎧兜とともにオランダ国立民族学博物館に収蔵されている。


輸入品
主な輸入品をあげると、「本方荷物」として
生糸、毛織物、染料、ガラス製品、皮革類など。
「脇荷物」として
薬品、ガラス製品、装飾品、文房具など異国趣味あふれるもの。
「誂物(あつらえもの)」は将軍や諸大名への
辞典や図鑑、薬種や医療器具、時計、眼鏡、望遠鏡など。
「献上品」として、オランウータンほか珍獣・珍鳥もあった。
船底には、バラストとして砂糖があった。










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「江戸参府旅行日記」番外編・青い目の見た元禄 

2021年09月23日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト

青い目の見た元禄より~ドイツ人ケンペルの日本見聞録~ 岡山大学長 大藤真

「岡山の自然と文化」 岡山県郷土文化財団 昭和62年発行






私は内科の医師ですが、今日は医学の話はしません。日本に最初に来たドイツ人ドクターのケンペルさんの話です。
ケンペルさんはドクターのくせに『日本誌』に、医学の話はでてこないのです。

今から296年前オランダ船に乗ってきました。
タイから日本の長崎まで約3ヶ月かかっておりますね。
元禄3年9月26日に、あこがれの日本に着いております。
2年後の元禄5年10月31日に離日し、インドネシアを経由し、ドイツに帰り、
1716年65才で亡くなっております。
ですから、39才から40才という壮年のときに日本に2年おられた。
もともとのすごい博学の上に、その一番充実した壮年の時に日本にいて、
沢山の日本のことを勉強し、かつ見聞を広めたわけでございます。


イチジク
日本のイチジクには3種類ある。
一つの種類を柿という、と書いてあるんです。これは柿がヨーロッパになく、ほんとの柿です。
あと2種類はまさにイチジクなんです。
一つは日本のイチジク、
一つはヨーロッパ人が持ってきて植えたイチジク。

大根
日本は大根が非常に多い。
肥やしをまくでしょう。大根に肥えがしみ込む、だからとても食べられないというんですね。
日本人は平気で食べる。
生のまま食べたり、煮て食べたり、
ぬかずけにしたり、
干したり、とにかく非常によく食べる。



日本人は農耕に使うけども、ミルク、バターを採ることは全然知らんと書いてある。



三毛猫が多い。どうも日本の猫はネズミをとらない。
女に抱かれてかわいがられるばかりである。


セミ
昆虫の中で大変珍しいものが日本にいる。
日本中どこに行っても、夏になったらものすごいセミの声で、これは好きだ。


フグ
日本人がこれをよく食べるけれど、よく死ぬと書いてある。
死んでも死んでも食べると。
それで、とうとうお上の方で、
「侍はフグ食うべからず」と禁止令を出した。
もしこっそり食べた死んだら、後継ぎは許さんとゆうのですから厳しいです。


農家
わらぶき、かやぶきが多い。
家の奥の方に行くとかまどがある。
清潔な畳がある。
戸がない、道具はほとんどない、目につくのはニワトリだけ。
生活は自給自足で農民は結構生活を楽しんでいる。






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「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルの長い旅 

2021年09月23日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「ケンペルとシーボルト」  松井洋子著 山川出版社 2010年発行





1690年ケンペルを乗せた船は長崎に到着した。
その132年後、シーボルトが長崎に降り立った。
この二人には、いくつかの共通点がある。

ドイツ語を母体とした。ドイツ人だった。
医師であり、商館付き医師として日本に滞在した。
日本について広範な調査・研究を行った。



ケンペルの長い旅



ケンペルはドイツ北部のレムゴーで生まれた。父母は牧師。
21歳の時ポーランド領ダンツィヒの学校で、
哲学・歴史・古典語を学ぶ。

1681年、当時の強国スウェーデンに赴く。ペルシャへの派遣使節の書記官に選ばれる。

1683年3月出発、スエェーデン~フィンランド~サンクト・ペテルブルグ~モスクワ
7月10日、11才のピョートル皇帝(後の大帝)に謁見

モスクワから船でカスピ海まで進む。

イスファハンへの入市許可待ち中にバグーの油田地帯など詳細に記録。
ラクダに乗ってイスファハンに到着。
イスファハンの市街地図や建造物を調査研究。
神父からはトルコ語とペルシャ語を学び、
宮廷や国内事情を聞く、
ペルシャ植物の詳細なスケッチをする。

ホルムズ湾にオランダ東インド会社の艦隊が停泊していることを知ると、
その船でさらに遠くへ旅することを考えた。
彼は知人への手紙に「知識欲による病」と述べている。
1685年、バンダル・アッバース商館の医師として出発。途中ペルセポリスなど遺跡を詳細に記録。

1688年、インドへ向けて出発。タバコ・麻薬や風土病、地理学・歴史学を調査研究。

1689年、植物学の楽園といわれたジャワ島へ着く。バタビア周辺の広範な記録を作成。

1690年5月7日、日本への旅が始まる。
シャムのアユタヤで都の観察や政争の情報を記録、

9月20日すぎ、船は長崎湾に入った。



ヨーロッパから、オランダ東インド会社の船で日本まで来たほとんどの人びとと違って、
彼はその旅の前半を陸路や河川・湖の船で、内陸をとおって来ている。
それは海上の旅に比べ、多くの自然と異民族たちの営みを見る旅であり、
ケンペルの好奇心を満たすとともに、その比較観察の目を養うものだったに違いない。



出島生活

オランダ語や医学を教え、その代わりこの国の位置や状態、政府、制度、宗教、歴史、家庭生活などについて、このうえなく詳しく教えてくれ、かつ文献を探し協力者がいた。



江戸参府

貿易継続への感謝のため将軍に拝謁し献上品を贈る儀式として定例化した。
同行するオランダ人は三人のことが多かった。全所要日数は平均で90日ほど。
出島に閉じ込められていたオランダ人たちが日本国内を旅する唯一の機会であった。






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「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルとは

2021年09月23日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「和船」 石井謙治著  法政大学出版局 1995年発行


ケンペル

元禄3年(169)9月、長崎出島の商館に、一人のドイツ人が商館付き医師として着任した。
その名はエンゲベルト・ケンペル、当時39歳。
彼は医師のほかに歴史・地理・植物・音楽などの部門も修めた多才な学者で、
しかも外国語はロシア語を含むヨーロッパ7ヶ国語に通じていたという人物であった。

どうして極東の日本に来たかというと、アジア地方、とくに中国に強い関心を持ち、何とか調べたい気持ちから、渡航の足掛かりとしてオランダ東インド会社の船医となり、
ジャワなど各地を回ったのち、長崎の商館付き医師の役を得て来日したということなのである。







ケンペルは、わずか2年間の短い在任にもかかわらず、商館長の随員として2度の江戸旅行を体験することになる。

この江戸参府旅行によって、彼は日本の風土・産業をはじめ民衆の生活に至るまで、さまざまな事象を見聞する機会を得、
そのたぐい稀なる観察力と高い見識を生かして、帰国後に名著『日本誌』を著することになるのである。

日本人の手工業の技巧の優秀性に着目して、
武器・絹織物・漆器のすばらしさを絶賛している。
また当時の海運と商業流通の活発さに目を見張っている。
これは世界的な視野を持つケンペルの見方なのであるから、掛け値なしに受け取ってよいと思う。




(出島のオランダ商館)




ケンペルは鎖国政策を認める立場で、
ともかく彼の考え方の要点は、
日本のように他国よりも天然資源に恵まれているうえ、勤勉な国民によって各種の産業が発達している国、
つまり自給自足で豊かな生活のできる国が、
何も求める物のない外国人たちの奸悪・貪婪・詐欺・戦争などの手段から守るため、
門戸を鎖すのは適切な処置であるばかりであく、そうすべきである、
というのだから手放しの鎖国礼賛なのである。




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