しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

終戦前後の岡山県の新聞

2020年11月26日 | 昭和21年~25年
「岡山市百年史下巻」編集・岡山市 ぎょうせい 平成三年発行


終戦前後の岡山県の新聞



岡山市の『合同新聞』(現、山陽新聞)は一県一紙の政府の政策により、昭和16年県下の地域紙を合併、
昭和20年3月には本土が寸断されたときを想定して、題字の下に大坂紙朝日・毎日の題字も付けていた。
委託の形であった。
終戦前の県下で読める新聞は「合同新聞」一紙であった。
昭和20年6月29日未明の岡山空襲で本社も印刷所も焼失した。
上道郡幡多村’(現、岡山市)でタブロイド版の発行が続けられた。

一県一紙に統合させられていた新聞は再び分離へと動いた。
「倉敷日報」は昭和20年12月週刊「山陽日報」で復刊、のち日刊の「倉敷新聞」となる。
津山市の「津山朝日新聞」も21年1月復刊した。
用紙事情が悪く、新興紙に用紙割り当てが行われたため、昭和21年5月姉妹紙として「夕刊岡山」
(現、岡山日日新聞)が発刊され、11月には「山陽朝報」が出された。


『合同新聞』は昭和23年5月「山陽新聞」と改題、24年3月下石井(現、柳町)の新社屋に移り、山陽朝報を吸収合併した。

昭和24年12月「夕刊山陽」(現在の夕刊)を発刊した。
「山陽新聞」は岡山県下を主体に備後・香川へ進出していたが、
昭和30年には、さらに山陰・愛媛版も発行、赤穂だよりも掲載して拡張をはかったが、
のち撤収した。


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