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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

明治17年 茂平堤防決壊(宮ノの崎まで浸水)の記事・記録その②

2016年06月28日 | 江戸~明治
「寄島町史」より転記。

明治17年8月の高潮。
8月25日の夜、岡山県南部を襲った暴風雨は高潮を伴い激波は堤防を崩し、海岸を越えて陸地に襲いかかり、居宅の流失するものも多く、深夜殊に暴風猛雨の間に襲ったためおびただしい溺死者を出した。「岡山県の歴史」によると県全体では流失戸数2.217戸、死者不明655人、廃荒田畑は2.427町歩で、被害の最も大きかったのは水島灘沿岸であった。

本町では8月25日午前11時頃から空が曇り、豪雨が襲い、耳をつんざく雷も加わり、東から吹きたる暴風に怒涛は堤防を乗り越えた。人々は必死になって防御に努めたので、昼間は幸いに何事もなかったが、夜半になって猛雨が西からきて奔涛激波がついに塩田の堤防数か所を崩し、潮流一時に襲来するに及んでたちまち人家を浸した。老幼男女は悲鳴をあげて避難し、家財は顧みる暇がなかった。
被害は、死者4、負傷8、流家39、破壊家13、破損家194、破損船63、流失船7、・・・・。
「寄島町沿革史」によると、路傍に泣き砂上に伏臥するもの数百名、目も当てられぬ惨状であった。大浦神社の東馬場裏に大船が上がり、駐在所の屋根に小舟が打上げられていた。
・・・・その後、漸次冷気に向かい一層の餞寒を憂え、窮民一同が郡役場へ救いを求めに行こうとしたので、斉藤戸長がこれを制し、郡長あてに伺書を提出した。


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明治17年 茂平堤防決壊(宮ノの崎まで浸水)の記事・記録

2016年06月02日 | 江戸~明治
子供の頃、祖母は「昔堤防が切れて海水が流れ込んだ」ことを何度も話していた。
昔というのは、祖母が若いころ経験した事だろうと思っていた。
祖母は明治28年に茂平で生まれた。
堤防が決壊したのは明治17年の事で、未曾有の出来事を祖母は自分の親や近所のおじさんたちから聞かされていたのだろう。


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「大津野のあゆみ」より転記。

8/15大津波のため堤防破壊する。耕地浸水90町歩、死者5名、一夜の内に郷頭山、烏帽子山の下まで一面の青海となる。(翌年修復)
時の戸長神原神次郎ほか3名が、県庁に嘆願し、国家補助を仰ぎ、堤を修復した。


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「東谷公民館新築記念ふる里のあゆみ」(福山市大門町) 昭和52年6月発刊より転記。

明治17年7月5日夜

「堤防破潰し一夜の間に郷頭山、烏帽子山下まで一面青海となり、耕地浸水90町歩、田面の作物は海藻と化し、死者5名を出し、其の上家畜及び家屋の損害多く惨状を極めたり。と記録あるも家畜、家屋の被害の詳細判明せず。



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「福山市史・上下巻」記述なし。


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「孫たちに語りつぎたい金浦」より転記

被災地区・吉浜。
7月、大嵐、大津波、生江浜・新川の両堤防決壊、家屋流出あり。


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以後転記を追加予定

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笠岡紡績の設立・発展②

2015年12月02日 | 江戸~明治
笠岡史談4号「笠岡紡績」より転記

笠岡紡績→福島紡績→敷島紡績(一時・敷島航空工業)と流動する中で、最初の笠岡紡績の話が少ない。乏しい資料からできる限り展開してみようと思う。

県議・村長・地方地主により設立、明治27年8月2日開業。

明治40年の状況、従業員606人、男84・女522、職工賃金男41銭・女23銭。
明治40年供給過剰により糸価低落、対支綿輸出激減。
明治41年極度の営業不振で中央資本の福島紡績と堤携やむなきに至った。
明治42年福島紡績は笠岡紡績を買収した。




(笠岡史談20号より)






笠岡史談20号「敷紡笠岡工場」より転記

明治42年福島紡績になった工場は数度の増錘を行い、明治45年今治から3.000錘を移設した。
大正10年新工場を増設した。大正13年以降は8.000錘の撚糸機をも擁し、別にコーマ―機(精流)を備えて、撚糸および40番手の細糸、高級メリヤスを生産した。
大正末と思われるが、
「総錘数14.000、男女工1000余を使役せり、生産額60余万貫、価格170余万円なり。目下増錘の計画あり」

昭和初期紡績業界も不況に見舞われた。
一時的に職員の半数と女寄宿舎の大部分を帰省させ、操業は200名程度の通勤者のみで行い寄宿舎、炊事などは閉鎖された。操業は午前6時から午後6時まで12時間労働を行い、休日は月2回(1日と15日)とした。
昭和3年福紡笠岡労働組合(総同盟)の結成式が笠岡のえびす座(大和座)で行われた。
昭和13年頃工場整備もほぼ完了、製紡機29.000錘、操業も軌道に乗った。
昭和16年の戦争開始より工場も不安定期にはいった。防府よりスフを移入し混紡機で綿・人絹・撚糸を紡出した。

昭和17年5月より極度に原綿が不足した。敷島紡績と改称した。
昭和19年2月軍部からの強い要請により木製飛行機の製造に従事することになり「敷島航空工業」と改称した。従業員も一千名を上回った。
木製飛行機の部品を作って呉の川尻の日東航空(日東紡績)に送った。一年余で終戦を迎える。

昭和21年2月、再び敷島紡績笠岡工場となった。
昭和22年4月から精紡機26.000錘で本格的な操業が開始された。
昭和25・26年は、朝鮮動乱で特需景気にわきフル操業を続けた。

昭和50年ごろ、綿糸は不況になった。
アクリル繊維、安い外国産におされ不況カルテルが結成された。
昭和52年10月5日、笠岡工場の閉鎖が公表された。
昭和53年3月25日、工場閉鎖。
従業員は昭和41年370、昭和52年260.
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笠岡紡績の設立・発展

2015年11月27日 | 江戸~明治
以下、「笠岡市史・3巻」より転記する。

殖産興業の中心となったのが綿糸紡績工場の育成である。
幕末・維新期に綿作の展開をみていた県南の地には岡山紡績会社をはじめ、次つぎに工場が設立され、明治29年にはその数9社に達した。

笠岡紡績は明治28年にドブソン製紡績機9984錘、従業員700名をもって開業した。
発起人は18人、株主は204人。後月郡・小田郡・浅口郡・岡山市。(持ち分は岡山市が41%)


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笠岡の製糸

2015年11月26日 | 江戸~明治
ツアー会社の北関東方面のコースに遠路、群馬県富岡市の「富岡製糸場」見物が多い。
富岡製糸工場は代表的な工場であり、2014年世界遺産になり、保存状態も良好のようで無理もないとは思うが、ひとつ気になることもある。

製糸工場は群馬県富岡にあっただけではない、日本全国どの町にもあった。笠岡にもあった。
そして原料となる繭は、明治から昭和初期まで、どこの田舎にも桑畑があり、養蚕農家があった。

(富岡まで行くより)かつてあった、わが町の製糸と養蚕を知り偲ぶ方がより重要なことではないかと思う。富岡はその次でいい。

・・・・・・・・・・・・・・・・

以下、「笠岡市史・3巻」より転記する。

笠岡の製糸

現在笠岡市役所分庁舎が建てられている所は、明治5年笠岡製糸場が建設された歴史的場所である。その製糸場は士族授産事業として作られたものである。

小田県権令矢野光儀は殖産興業を図るため「蚕事の儀は御国産第一の業」として養蚕を奨励し、製糸の有望性に着目し、県の士族授産の方策として製糸場の設立を考えた。

明治5年小田県は福山士族の子女を製糸練習、男を器械公作練習として4人東京に派遣、スイス人に蚕糸製造を習得させた。

県為替方の島田組に命じ製糸場を設けさせた。
島田組は政府から融資を受け、小田県庁の東方に土地を購入し洋風建物の笠岡製糸場を建設することになった。

翌明治7年4月、開業式を盛大に行い60名を収容し事業を開始した。

華々しく新築開業した笠岡製糸場の、その後の経営は不振であり、明治7年12月島田組倒産により事業は停止されてしまった。

明治9年9月、笠岡村や深津村の人ら11名が笠岡製糸場の土地、建物、器械を1500円で払い下げを受け蚕糸製造を再開した。
事業再開後は、繭が安く・輸出価格が高い年は利益が出た。
明治13年「山陽製糸社」を創設し、山陽地方の製糸業を連合して生糸を改良し、輸出することを図った。これによって笠岡製糸場の名声が高まり、広島・愛媛ほかから製糸工女の伝習を受けるため、入社するものが数十名に及び、製糸業の改良に実績を上げている。

大正時代、
賃金は年9回払い、平均10円80銭で地方としては一流であった。
就業時間はだいたい12時間、朝6時半から夕方6時半。8時頃までの夜業は普通。休業日は年間40日、祭り・盆・正月にまとめてとる。男子職員にはほとんど休みはなかった。
大正7年、工女による5日間のストライキあり。
大正9年、糸況が悪化。大正11年に井原の「中備製糸株式会社」と合併、その笠岡工場となった。

昭和7年、
解散し笠岡に一時代を飾った山陽製糸は歴史を閉じた。

中国情勢の変化、アメリカを中心とする輸出の低迷と糸価が暴落。人造綿糸(レーヨン)の出現が引き金になったものと考えられる。
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笠岡駅~大門駅の路線

2015年09月09日 | 江戸~明治
山陽鉄道は金崎にトンネルを掘ることで議論はあったろうが、城見地区についてはほぼ田んぼであり、買収等に問題はなかったのではと思う。


大門町誌「大津野のあゆみ」より

笠岡~福山は明治24年9月に開通している。
当初山への迂回も考えられたが、結局金ヶ崎隧道工事(現在の笠岡トンネル)によって最短距離となった。
大津野村では灌漑用の池(河口池、海運寺池)を買収されては用水を失うので地区民が反対、紛争は長引いたが池を他につくることで話し合いがまとまった。
河口池の東南に新池がつくられたのはその事情によると伝えられている。
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女工哀史

2015年07月27日 | 江戸~明治
明治の初期・中期日本全国の地方都市に綿糸と生糸の近代工場が設立されていった。
群馬県富岡やアイビースクエア(倉敷紡績)が有名だが、跡地のほとんどがショッピングセンターとなっている。

戦後、工場の労働者の多くは集団就職で確保していたが
戦前の実態はどうだったのだろう?

「小学館・大系日本の歴史14」より以下転記


繊維産業の女子労働者の場合、農民の貧困と無知につけこんだ詐欺的なやり方でなされた。
契約は親と会社で結ばれ、前借金によって年季奉公が義務付けられ、途中の転廃職は許されず、逃げれば捕えられてリンチを加えられる。
会社の寄宿舎に事実上監禁され、私生活の自由は無く、人権無視の生活を強いられる。
また募集にあたる見番は、ことば巧みに女工を口説き、もてあそんだ。娼妓の前身はしばしば女工であった。私娼の場合も大阪府の1916調査例では46%の前職が「工場職工たりし者」でしめられている。


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「しろみのあゆみ」の年表に追加

2015年07月01日 | 江戸~明治
(年表に追加分)

明治17年 茂平堤防が台風と高潮で撤壊(宮の崎まで浸水)
昭和3年 帝国軍人会城見村分会が出来た
昭和15年 城見青年学校が布設された
昭和15年 大政翼賛会城見分会が出来る
昭和17年 米の供出制度が始まる
昭和18年 組合立金浦青年学校が開校→戦後・金浦中学校へ移行
昭和18年 米の供出と配給(ヤミ取引の調査はじまる)
昭和21年 女性が初めて投票した(衆院・岡山全県区2名連記)
昭和22年 城見郵便局が開局
昭和22年 城見農協が出来た
昭和22年 初の城見村長選挙があった(松浦昇氏当選)
昭和23年 学校にPTAが出来た
昭和28年 茂平潮止堤防の補強工事
昭和29年 茂平港の改修工事(水門・波止場)
昭和33年 茂平へバス路線が開通した
昭和33年 忠魂碑が城見小学校校庭に完成
昭和33年 城見小学校に給食調理室完成
昭和37年 城見小学校の校歌ができた
昭和37年 笠岡西農協発足(金浦・城見・陶山)
昭和40年 備後工業特別整備地域に笠岡市追加指定
昭和43年 茂平・野々浜間に大型道路が完成
昭和44年 茂平沖埋立が始まる
昭和44年 両国橋が完成
昭和45年 日本鋼管笠岡工場大径管工場が操業開始
昭和48年 市役所の車が「オキシダント情報車」を発令してまわった
昭和49年 笠岡湾干拓の東西潮止堤防工事盛ん
昭和55年 茂平工業団地へ企業進出が盛ん
昭和56年 茂平工業団地完成
昭和60年 金浦中学校新校舎完成
平成2年 笠岡湾干拓完成「食と緑の博覧会」
平成3年 平成町へ茂平地区から営農が始まる


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2・明治~大正・昭和(戦前)   

2015年07月01日 | 江戸~明治
○明治維新
「士農工商」から「華士卒平」の四民となった、昭和の新憲法による廃止まで続いた。城見地区の住民は全期間、ほぼ100%が平民であったと思える。
寺社は分離された。神社は神道の国家政策に組み込まれて優遇され、「村社」等の指定と各付けがされた。
加地子(税金)は変わらず、苗字を付けた事だけが平民の感じる“ご一新”であった。

○衣

綿を栽培し糸にした。糸で機織りして布にした。布を編んで着物にした。
紡績工場が各地に出来、綿花は明治30年代からインド産になった。その頃より糸を紡ぐのは止めて機織りが残った。
女性は「機が織れねば嫁にいけない」と言われた。

機織りは大正頃消え、布地(ぬのじ)を買うようになり裁縫が残った。
着物は何度もつくろぎ再利用し、最後は生理用品や雑巾にした。
綿は昭和の初め頃まで栽培され、綿打ちして布団やちゃんちゃんこに入れた。

着る物は「イッチョウライ」「よそゆき」「普段着」「仕事着」に分けていた。
洋服は昭和の初めに男性に普及し、次いで女性に及んだ。

モンペ
モンペは昭和12年頃より、国策で戦時の婦人服として生まれ、着用が半ば強制された。
「よそゆき」と「普段着」と「仕事着」を兼ね活動的であったので普及した。農村では和服から洋服へ移行への橋渡しも兼ねた。戦後も野良着として愛用されている。



○食

主食は米麦で比は5:5が多かった。麦は裸麦で、大正頃にまる麦からひしゃぎ麦に変わった。米と麦は二毛作で栽培していた。

米の飯を食べるのは正月、盆、祭りのみ。
祭の日には、無塩の魚、米、ちらし寿司(ばら寿司)、巻きずし、赤飯、それにお酒で祝った。

食べ物は、自給を料理するのが基本だった。

おかずの野菜、
ダイコン、ごんぼー、人参、じゃがいも、かぼちゃ、ナスビ、きゅうり、玉ねぎ。
昭和になると、ホウレンソウ、白菜、キャベツ、ピーマン(鬼とうがらし)、後にレタス、セロリ、アスパラガス、おくら・・・。(追記)
自宅に植えて無い野菜は近所とトリカエしていた。
野菜の他にまったけ、ぜんまい、シイタケ、茶(畑のゲシ)
味噌汁、つけもの(こーこ、梅干し、らっきょう)
味噌も醤油も家庭で作った。
肉は廃鶏、(クジラ肉・豚肉・牛肉は戦後に普及)

お酒は集まった時に呑み、晩酌の人はすくない。ビールは昭和30年頃から若者が呑み始めた。

買うもの
とうふ・酒・塩・酢

おやつも自給が基本で、
ふかしイモ(主食にも)、吊し柿、キズモノの果物、しーしー、ぽんぽん、びーびー、蜂の子、ゆすら、砂糖きび、なんば、野苺、竹の皮で梅干し、
柿、あけび、ニッキ紙の木、大豆やソラマメやアラレを炒ったもの、はったい粉

弁当は柳ごおりからアルミへ箱が変わった。弁当のおかずは、こ-こ・梅干し・らっきょうの他にめざしや削り鰹の醤油、野菜を煮たもの。お茶は弁当蓋で飲んだ。

病気をした時だけ、卵を食べることが出来た。


○住

屋敷には母屋があり、他に納屋、うむし小屋(麦・干しいちじく)、蔵(味噌・醤油・米・漬物)、タバコの乾燥小屋、牛小屋、長屋・ヒヤ、灰小屋・割木・くべ木、風呂・便所、等があった。

家には芋ツボ、土間、えんだ、かどがあった。
母屋は部屋と土間に分けられ、部屋は養蚕の家では人より蚕室が優先された。


○城見の暮らし

農業と漁業で9割を超えたが、他に生業として日用雑貨店、野鍛冶屋、うどん屋、薄荷仲買、会社員・教員・公務員、博労、吉備焼、窯業(瓦)、桶屋、豆腐屋、医者がいた。

 
家の跡継
男は惣領、女は婿取り・養子取りと呼ばれた。

結婚は家と家。家のつり合いが優先された。嫌われたのはハンセン氏病や結核の家、丙午生まれの女性。
入籍は妊娠後が多かった。逆に言えば「家風に合わない」「1年以内に妊娠しない」嫁の多くは本人の意思に関係なく実家に戻された。

お産は自宅で
嫁は産気付くまで仕事をし、産婆さんを呼んだ。座産で、後ろによかって生んだ。

婦人に選挙権はなく、嫁は家では機織り・裁縫・炊事・洗濯は仕事のうちに入らなかった。
風呂は最後に入り、朝は誰よりも早く起きてクドで火を付けた。


3・昭和(戦中)~高度経済成長期

○戦中・復興期

明治以降より今日の平成までの間、唯一都会よりも田舎生活が恵まれていた数年間だった。
田舎である城見には、住む家があり、食べる物があった。
町から来る買出しの人は着る物を持って訪れ、食料(さつま芋など)と物々交換した。

○高度経済成長期

日本にテレビが普及し始めたが城見は遅く、皇太子ご成婚(昭和34年)時は城見小学校に一台あるのみだった。
城見の二台目は目崎散髪店、子供たちは学校帰りにガラス戸越しにテレビの大相撲を見て、帰ればテレビのある家庭に見せてもらいに行っていた。東京五輪(1964年)開催時は、ほぼ全戸普及していた。その当時はNHK・NHK教育・山陽・西日本の4つのチャンネルが見れた。

昭和35年頃、牛を飼うのを止めテーラー(耕運機)が普及し始めた。
プロパンガスや扇風機や石油ストーブ、扇風機・洗濯機・冷蔵庫など白物家電が普及していった。
電話は昭和45年頃に農村集団電話が各戸に付いたが、その2~3年後より戸別の電話へ換わった。

家は台所が床になり、土間や牛小屋など消えていった。
畳をあげての大掃除や井戸掃除・エントツ掃除もなくなり
カド(庭)は築山になった。

自家用車は昭和42.・43年頃から一家に一台普及するようになった。
その時代を象徴するのが、井笠鉄道の鉄道事業廃止。(昭和46年3月31日)

高校卒業後、男子は阪神地方へ就職する人が多かったが日本鋼管が高炉稼働して後は地元就職が急増した。地元へ残ることを条件に、わが子に新車を購入して与える親も多くいた。






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鉄道唱歌(笠岡駅)③昭和3年 鉄道唱歌 第4区山陽線

2015年02月04日 | 江戸~明治
金崎トンエルを抜けると藺田が広がる。
吉浜の事だろうか?城見も?、それとも市村や深津の事だろうか?


以下「鉄道唱歌」より借用。

鉄道省が明治の唱歌に匹敵する「新鉄道唱歌」を企画、毎日新聞と提携し全国から作詞・作曲の募集をした。

19・流れさやけき笹瀬川
渡れば備中庭瀬駅
伯備線へは乗かえの
倉敷あとに玉島や

20・知盛父子奮戦の
水島の海いずかたぞ
千年の苔と名のかおる
吉備真備の墓いずれ

21・窓を押さずや左手には
近づく海の冴え冴えと
浮かぶ白帆も神島
蔭の片島片あかり

22・笠岡駅や金崎の
トンネル越えも束の間に
野良にあふるる涼しさは
緑ながろう藺田の風

23・かなたに両備こなたには
鞆の鉄道岐れ行く
福山いでて半日の
旅のついでも鞆の津や

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