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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

神仏分離①最上稲荷

2018年02月28日 | 江戸~明治
「流れる おかやま百年」山陽新聞社 昭和42年発刊より転記

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新しい政府は明治元年3月、神仏分離の布告を出し、神社から仏教的なもののすべてを取り除かせた。
”廃仏毀釈”の運動が各地に起こり、仏像や仏具が焼かれた。
寺院内にあった神社で神官にのっとられたところもある。

吉備郡高松町の日蓮宗稲荷山妙教寺(最上稲荷)には正一位稲荷大明神もまつっていた。
いわゆる神仏混合である。

倉敷県当局は「妙教寺と稲荷を分離せよ。稲荷は神官の手に渡せ」と強硬な態度に出た。
当時の住職等は、毎日ひたいを寄せ合っては議論と、方策を練った。
「稲荷大明神といえば、神道とみられがちです」
「このままでは分離はまぬかれない」
ある日、
「そうだ!妙教寺としては法華経の一つの象徴として稲荷の白狐を使ったら」
明治3年の暮れ、県は視察役人派遣を通告してきた。
心配した檀徒は境内にかけつけた。この無言の抵抗に恐れをなしたのか、役人は早々に引きあげた。
こうして妙教寺は分離からまぬかれた。

三大稲荷の一つ愛知県豊川稲荷は仏教の荼枳尼天(ダキニテン)として切り抜けたが、
京都伏見稲成は神道となった。

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木口小平の話

2017年06月28日 | 江戸~明治
白神源次郎も木口小平も実在の人物で、同じ連隊に属し、安城渡しの戦で、同時期に戦死している。
白神は船穂、木口は成羽の出身だが、父の話によると矢掛や神辺にも”木口小平”はいたそうだ。


「明治・大正・昭和の郷土史・岡山県」昌平社出版1983発刊より転記する

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つくられた英雄--ふたりのラッパ手の死

明治27年(1894)7月29日、宣戦布告の三日前安城の渡しで清国軍と激しい銃撃戦があり数名が戦死した。
近衛師団の一楽手が一つの挿話を耳にした。
ただちに同僚と軍歌をつくりあげた。
弾丸咽喉を貫けど 熱血気管に溢るれど 喇叭は放たず握りしめ 左手に杖つく村田銃
「安城の渡し」または「喇叭の響」と題されたこの軍歌は一世を風靡した。

9月4日、白神の盛大な葬儀が行われた。地元紙「中国民報」は一人息子を失った白髪の両親への義援金募集のキャンペーンを始めた。
ところが一年たった明治28年8月30日、読売新聞は「喇叭手は白神源次郎に非ずして木口小平なり」と報じた。勇敢なる喇叭手は白神から木口にかわった。やがて木口は「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と、小学校の修身の教科書に、国民的英雄として登場したのである。

二人とも貧しい農家の跡取り息子で白神は25才独身。木口は22才、入営する前に新妻と離婚。実家に帰った彼女は、木口の死後再婚して天寿を全うしているが、
木口の伝記には、「小平が戦死の報を聞き憂悶の極、病を得て間もなく小平の名を呼びつつ其の跡を追うた」とある。


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神仏分離②寺の廃絶

2017年04月02日 | 江戸~明治
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「神仏分離と倉敷」より転記
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寺の廃絶
全国で最も多くの寺院が取壊されたのは宮崎県です。末寺を加えると一千とされます。
伊勢地方では196ヶ寺が廃寺となりました。
伊勢神宮があるため、天皇の伊勢参拝のとき、不浄な寺が目に入るのを嫌ってのこととされます。

仏像、仏具の廃棄
仏像、仏具、仏画を焼くか二束三文で売り飛ばすことでした。
奈良の興福寺五重塔は焼かれるところでしたが、その火が町に延焼するから中止されました。
仏像仏具は持っていると罪になるとして、誰も買わず外国人が信じられない安さで買っていきました。
京都の四条大橋
明治7年に竣工しました。これは京都の寺院の
仏具を再利用して完成しました。

僧侶への弾圧
明治3年、玉島の清瀧寺が羽黒神社を分離させられ、住職が還俗されられました。
国東半島にある富貴寺では僧侶を皆殺しにして埋めました。



新たに選ばれた「神」

神話に出て来る人物や天皇、功臣を「神」として、それ以外を非としたのです。
全国で現在祀られている神社の祭神は、そのほとんどは明治初年に替えられてしまっています。

明治末期の合祀令
経費節減等で全国で約七万社の神社が合祀か廃止されたということです。
人々が勝手に神仏を祀ることを禁じたのです。

神仏分離・廃仏毀釈の程度は地域差がある。
徹底的に行われた地域は、鹿児島、宮崎、水戸、佐渡、富山、信州などで、皇統や神話と関係ある各地。
皇統=神を汚すものとして「仏」や寺を潰そうとした。

維新の変革までは、鎮守の圧倒的多数は神仏混淆であった。
おおおよその村鎮守には(神職がいなく)、僧侶や修験者(山伏)が別当職として勤務し、日常の管理を村役人や百姓中がおこなっていた。

神という範囲は広く神仏は区分が困難でした。
鳥居があるのが「神社」であるのは明治になってから。
現在神道の様式として神社で行われている祭祀方法、しきたり、作法は殆どすべてが陰陽道のそれを借りたものです。


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神仏分離①

2017年03月31日 | 江戸~明治
明治維新で御一新され、
昭和の敗戦でマッカサー指令から免れたものといえば「神社」が代表だろう。

維新前後の出来事は小説家も好んで書くが、作家に限らず歴史家もまた、少し腰がひいているように感じる。

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「神仏分離と倉敷」より転記する

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日本は、昭和20年まで政府に神祇官(じんぎかん)が置かれる神国だった。

自分たち(政府)の選んだ神を祭祀せよ。それ以外の聖なるものをすべて排除する、というのが神仏分離です。
「神」や「神社」以外は、すべて排除された。
即ち、権現や宮や明神は神仏の内容も考慮せず捨て置き、
仏教、陰陽道、修験道等々、弾圧破壊追放した。

慶応4年3月。
それまで全国ほとんの権現、明神、宮と呼ばれる「神社」の支配と管理を行ってきた僧侶(社僧)の復飾が命じられた。つまり、一方的に「神社」と規定し、そこから僧侶を排除した。
これによって一方的に「神社」と規定された所から、仏教的な要素はすべて排除しようとした。
「八幡大菩薩」は称号が仏教的であると「八幡大神」に改めるよう命じられた。

記紀神話や延喜式神名帳に記された神に歴代天皇や南北朝の功臣を加え、要するに神話的にあるいは歴史的に皇族と国家の功臣を神とし、底辺に産土神を配し、それ以外の神仏は廃絶の対象とする。

①祭神の交替
②神社名の変更
③神主・宮司の新任

陰陽道は、宗教としては完全に廃絶された。天文と暦学は大学や海軍に移した。
修験道も弾圧された。熊野や羽黒山は神仏分離で大権現が神社管理になった。




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日比遊郭 ②「日和申し」

2017年03月21日 | 江戸~明治
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「玉野市史」より転記する。
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当時の廻船業は船主が船長であるという例が多く、自分の船に自分が乗って、自分の資金で諸国の物産を買付けて商売するもので、運賃積という分業はそれほど発展していなかった。
北前船もそうであるし、廻船業者もほとんどが船主船長で商売をしており、数隻の船を持った者は身内か、信用ある雇い船長にまかすが、積み荷は自分の商品であった。
つまり船長は船主であり、荷主であり、商人であった。
したがって金づかいも荒く、町に落ちる金も相当なものであったという。

2~3日もしけが続くと、日比港の西側の山の丸山という広場で海の静まるのを祈り、そこで各船対抗の角力や力くらべをやり、芸者を集めて飲めや唄えの大さわぎをやる。
これを「日和申し」といって、日比港の名物であったと伝えられている。

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日比遊郭 ①ひと潮

2017年03月21日 | 江戸~明治
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「玉野市史」より転記する。
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瀬戸内海の、東西のみちひきする潮の分かれ目が、笠岡市の沖合である。
そこで「ひと潮」といわれる周期の約6時間を、日比港を起点として潮流にのって西に航海すると、満ち潮にのって走ると笠岡の沖合でひき潮に変わる。そのまま引き潮ににのると広島県大崎の木江港、御手洗港まで一気に走るのである。

潮待に寄港する船は多く、煙草屋、風呂屋、船具屋、米屋、荒物屋、油屋、塩みそ醤油かの商家をはじめ、茶屋料理屋などの花街も繁盛したのである。

岡山県では明治10年、貸座敷の営業できる所を指定している。
備前国 
上道郡 岡山西東中島町、九ばん村、西大寺村。
御野郡 福島村
児島郡 下津井村 吹上村 田ノ口村 日比村 山村
以下略
これらは、すでに江戸時代から花柳街として発展してきた場所ばかりであるが、日比港の新地が遊郭というかたちを整えて繁盛しはじめたのはこの頃のことであろう。

海が荒れて、上り下りの船が溜まると日比の町はたいへんなにぎわいである。
何百人もの船乗りが一度に上陸すると、まず繁盛するのが風呂屋であり料理屋であり花柳街であった。

この頃、日比港の花柳街の資料を紹介しておく。
この資料は日比村の娼妓の数を記録したものの残欠である。
明治
13年 30.人
14年 45人
15年 19人
16年 25人
17年 31人

またこれとは別に、明治31年から書かれた岡山駆梅院日比分院の日誌というのがある。
この「岡山駆梅院」というのは、娼妓に対し性病の検査、予防、治療などを専門とする病院で、日程を決めて医師が検診にきていた。
この日誌は、その都度立会する駐在所の巡査が記録したものであるが、だいたい60~70人程度の人数が記録されている。
性病に対する厳しい予防体制と、日比港のようすを想像することができるのである。

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明治維新と国家神道① 【福山市史】

2017年01月18日 | 江戸~明治
明治維新と敗戦で神社は二度大きく変わった。

「福山市史 下巻」より転記する。

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神仏分離
明治2年、神仏分離は全藩的に実施され、典式以下が回村して仏体改めを行った。
寺院にある妙見・弁天・大黒天・鬼子母神などの像はこれまでどおり寺院に管理させ、
神社の仏体および神体と称していたものはすべて寺院に引き渡し、鏡か幣帛(へいはく)を新たに勧請させて神体とし、祭典を行わせることとした。
また神社にある寺院は移転させ、以後は僧侶が入ることを厳禁した。

神道の国教化
明治3年、天皇崇拝中心の神道を国教化しようとする新政府は、伊勢神宮を頂点とする各社の社格を定めた。
官社(官弊社と国弊社)
府県社
郷社
村社
および無各社の5段階の社格がそれで
各郡に一郷社、ほぼ各村に一村社とした。それ以外は無各社とした。

氏子札と御札
政府の神社保護政策は、神道の信仰、民衆の教化というイデオロギー的任務を強制するだけでなく、民衆の直接的掌握という実質的役割を期待した。
その代表が「氏子調べ」であろう。
これは旧幕時代の寺請制度の継承で、神社をして戸籍制度を補完させ、全国民を神社の氏子として掌握しようとするものであった。
神社が、生国・氏名・住所・生年月日・父名を書いた札を発行したが、政府の意図に反し無理な段階であった。1年ほどで中止された。

キリスト教と教派神道
明治6年、諸外国からの批判の前に、キリシタン禁止の高札は撤去された。文明開化を標榜する政府としては、キリスト教布教を黙認せざるをえなかった。明治8年には信教の自由も保証された。
明治10年代、政府は神社神道を国家の祭祀として一般の宗教から分離し、国家神道として確立する政策をとるようなった。
この過程で幕末以来の民衆的新興宗教が教派神道として別派独立することが認められていった。

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「大津野のあゆみ」から城見村関連を抜粋する

2017年01月16日 | 江戸~明治
隣村である、広島県深安郡大津野村(現・福山市大門町)の郷土史本から
城見村に関連する事項を抜粋する。

大門町誌編集委員会「大門町誌 大津野のあゆみ」より転記。

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M17・8月大津波のため堤防破壊する。
M24・山陽鉄道笠岡~福山間開通。
M24・大津野村に4店の真田問屋が開業する。
M30・大門駅落成開業。
M39・城見村茂平に吉備製陶合資会社が発足。初代水川豊太郎。
M41・大津野村立大津野尋常高等学校と改称。歩兵41連隊が広島から福山へ転営。
M44・第一次塩田整理で、大津野塩田が全て廃業となる。

T9・旧国道2号線が大門を貫通する。以前は日和峠~横道~七隠れが本村の一等道。
T11・村内に電灯がともる。灯数500.
T11・村内の牛数123、豚27、鶏413。養蚕戸数50.
T12・山陽本線の複線化が広島まで開通。
T15・小学校に青年訓練所を創立。

S6・満州事変、この頃より大門駅より多くの若者たちが出征して行くようになる。
S10・青年学校創立。
S10・大津野小学校木造二階建て完成。女子青年団は、真田での収益金を寄付。
S11・忠魂碑が小学校の校庭に出来る。
S12・日華事変起こる。8/27大津野村に70名の召集令状くる。この頃より村出身者戦死の報が届くようになる。
S12・大津野村出征軍人家庭後援会創立。
S12・大日本国防婦人会大津野村分会創立。
S12・小学校に二宮金次郎の像できる。
S15・紀元2600年式典、加茂神社に碑建立。
S16・牛の首に海軍水上機乗員養成所ができる。
S20・4/18福山で初の空襲警戒警報。以後終戦まで93回、空襲警報28回。
S20・6月より米軍機グラマンの大津野航空隊襲撃が頻繁に始まる。
S20・7/2米軍機が大津野飛行場へ20機、30機と4度来襲。
S20・8/15正午、天皇陛下のラジオ放送により終戦。戦死者172名。村人航空隊の物資を山に隠す。
S20・11/2米軍福山に進駐、旧海軍宿舎が兵舎となる。約1.000名。

S21・3/23米軍に替わりオーストラリア軍400名進駐。
S23・神辺高校大津野分校設置。
S24・春日村、坪生村、引野村、大津野村の4ケ村組合立培遠中学校大津野分校発足。
S27・大津野小学校の校庭に「慰霊塔」建立。
S27・航空隊跡地へ保安部隊病院。
S29・培遠中学より独立して大津野村立大津野中学校設立。
S31・3月大門駅地下道完成。
S34・新国道2号線が大門駅南側へ着工する。
S35・貨物の取り扱い廃止となる。
S36・日本鋼管の福山進出決定。福山駅前に信号機が付く。松永塩田廃止。岡山~三原間電化開通。
S37・新国道2号線開通。農耕牛が姿を消す。
S38・大門駅前舗装工事完成。備後工業整備特別地区に指定される。
S41・福山製鉄所第一高炉火入れ。鳳中学校開校、大津野中廃校。広大水産・教育が東広島へ移転。
S42.・神辺高校大津野分校廃止。
S50・大門高校新設開校。福山大学開校。
S54・野々浜小学校新設。
S55・大門中学、福山女子高が開校。
S58・シャープ福山進出内定。


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明治時代の城見村の工場

2017年01月13日 | 江戸~明治
明治42年(1909)の工場状況に城見村がある。



(茂平阿浜の吉備焼・登り窯2016.10.12)


「井原市史紀要 井原の歴史第3号」より転記する。

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職工5人以上の工場(小田郡)
町村  工場数  うち原動機使用工場 職工数 うち男子
笠岡町   17   8        670   170   
金浦町   10   --        54    --   
矢掛町   6    2        66    25
城見村   3    --        15    15
合計    36   10        805   210  

10人未満の零細な工場は、町村ごとに特色があり、金浦町はすべて麦稈真田製造、城見村は窯業、矢掛町は酒造を中心とした飲食物である。

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記事明治17年 茂平堤防決壊(宮ノの崎まで浸水)の記事・記録その③

2016年06月28日 | 江戸~明治
「岡山県史」より転記。

1884(明治17)の大津波
8月25日夜半から26日未明にかけて台風が襲来したため起こった災害である。
折からの満潮と重なり、高潮により堤防が決壊し、海水が広範囲にわたり流入し、未曽有の大惨事になったのである。
『山陽新報』は、
小田郡笠岡村は其の災を被る尤も甚だしく、海岸に添える人家80余戸尽く破壊し、港中にある三百余艘及び港外に停泊する者皆市中に打ち上げられ、市中の高処と雖も尽く海水に浸され、中の町筋は市中の中央なれとも、座板より水の高きこと数尺に及べり、人民は家具も何も捨て置て其の身のみ脱れ出て、山上へ我も我もと逃げ登れり
と報じている。



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「福山市史・上下巻」記述なし。

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「倉敷市史」記述なし。

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