○明治維新
「士農工商」から「華士卒平」の四民となった、昭和の新憲法による廃止まで続いた。城見地区の住民は全期間、ほぼ100%が平民であったと思える。
寺社は分離された。神社は神道の国家政策に組み込まれて優遇され、「村社」等の指定と各付けがされた。
加地子(税金)は変わらず、苗字を付けた事だけが平民の感じる“ご一新”であった。
○衣
綿を栽培し糸にした。糸で機織りして布にした。布を編んで着物にした。
紡績工場が各地に出来、綿花は明治30年代からインド産になった。その頃より糸を紡ぐのは止めて機織りが残った。
女性は「機が織れねば嫁にいけない」と言われた。
機織りは大正頃消え、布地(ぬのじ)を買うようになり裁縫が残った。
着物は何度もつくろぎ再利用し、最後は生理用品や雑巾にした。
綿は昭和の初め頃まで栽培され、綿打ちして布団やちゃんちゃんこに入れた。
着る物は「イッチョウライ」「よそゆき」「普段着」「仕事着」に分けていた。
洋服は昭和の初めに男性に普及し、次いで女性に及んだ。
モンペ
モンペは昭和12年頃より、国策で戦時の婦人服として生まれ、着用が半ば強制された。
「よそゆき」と「普段着」と「仕事着」を兼ね活動的であったので普及した。農村では和服から洋服へ移行への橋渡しも兼ねた。戦後も野良着として愛用されている。
○食
主食は米麦で比は5:5が多かった。麦は裸麦で、大正頃にまる麦からひしゃぎ麦に変わった。米と麦は二毛作で栽培していた。
米の飯を食べるのは正月、盆、祭りのみ。
祭の日には、無塩の魚、米、ちらし寿司(ばら寿司)、巻きずし、赤飯、それにお酒で祝った。
食べ物は、自給を料理するのが基本だった。
おかずの野菜、
ダイコン、ごんぼー、人参、じゃがいも、かぼちゃ、ナスビ、きゅうり、玉ねぎ。
昭和になると、ホウレンソウ、白菜、キャベツ、ピーマン(鬼とうがらし)、後にレタス、セロリ、アスパラガス、おくら・・・。(追記)
自宅に植えて無い野菜は近所とトリカエしていた。
野菜の他にまったけ、ぜんまい、シイタケ、茶(畑のゲシ)
味噌汁、つけもの(こーこ、梅干し、らっきょう)
味噌も醤油も家庭で作った。
肉は廃鶏、(クジラ肉・豚肉・牛肉は戦後に普及)
お酒は集まった時に呑み、晩酌の人はすくない。ビールは昭和30年頃から若者が呑み始めた。
買うもの
とうふ・酒・塩・酢
おやつも自給が基本で、
ふかしイモ(主食にも)、吊し柿、キズモノの果物、しーしー、ぽんぽん、びーびー、蜂の子、ゆすら、砂糖きび、なんば、野苺、竹の皮で梅干し、
柿、あけび、ニッキ紙の木、大豆やソラマメやアラレを炒ったもの、はったい粉
弁当は柳ごおりからアルミへ箱が変わった。弁当のおかずは、こ-こ・梅干し・らっきょうの他にめざしや削り鰹の醤油、野菜を煮たもの。お茶は弁当蓋で飲んだ。
病気をした時だけ、卵を食べることが出来た。
○住
屋敷には母屋があり、他に納屋、うむし小屋(麦・干しいちじく)、蔵(味噌・醤油・米・漬物)、タバコの乾燥小屋、牛小屋、長屋・ヒヤ、灰小屋・割木・くべ木、風呂・便所、等があった。
家には芋ツボ、土間、えんだ、かどがあった。
母屋は部屋と土間に分けられ、部屋は養蚕の家では人より蚕室が優先された。
○城見の暮らし
農業と漁業で9割を超えたが、他に生業として日用雑貨店、野鍛冶屋、うどん屋、薄荷仲買、会社員・教員・公務員、博労、吉備焼、窯業(瓦)、桶屋、豆腐屋、医者がいた。
家の跡継
男は惣領、女は婿取り・養子取りと呼ばれた。
結婚は家と家。家のつり合いが優先された。嫌われたのはハンセン氏病や結核の家、丙午生まれの女性。
入籍は妊娠後が多かった。逆に言えば「家風に合わない」「1年以内に妊娠しない」嫁の多くは本人の意思に関係なく実家に戻された。
お産は自宅で
嫁は産気付くまで仕事をし、産婆さんを呼んだ。座産で、後ろによかって生んだ。
婦人に選挙権はなく、嫁は家では機織り・裁縫・炊事・洗濯は仕事のうちに入らなかった。
風呂は最後に入り、朝は誰よりも早く起きてクドで火を付けた。
3・昭和(戦中)~高度経済成長期
○戦中・復興期
明治以降より今日の平成までの間、唯一都会よりも田舎生活が恵まれていた数年間だった。
田舎である城見には、住む家があり、食べる物があった。
町から来る買出しの人は着る物を持って訪れ、食料(さつま芋など)と物々交換した。
○高度経済成長期
日本にテレビが普及し始めたが城見は遅く、皇太子ご成婚(昭和34年)時は城見小学校に一台あるのみだった。
城見の二台目は目崎散髪店、子供たちは学校帰りにガラス戸越しにテレビの大相撲を見て、帰ればテレビのある家庭に見せてもらいに行っていた。東京五輪(1964年)開催時は、ほぼ全戸普及していた。その当時はNHK・NHK教育・山陽・西日本の4つのチャンネルが見れた。
昭和35年頃、牛を飼うのを止めテーラー(耕運機)が普及し始めた。
プロパンガスや扇風機や石油ストーブ、扇風機・洗濯機・冷蔵庫など白物家電が普及していった。
電話は昭和45年頃に農村集団電話が各戸に付いたが、その2~3年後より戸別の電話へ換わった。
家は台所が床になり、土間や牛小屋など消えていった。
畳をあげての大掃除や井戸掃除・エントツ掃除もなくなり
カド(庭)は築山になった。
自家用車は昭和42.・43年頃から一家に一台普及するようになった。
その時代を象徴するのが、井笠鉄道の鉄道事業廃止。(昭和46年3月31日)
高校卒業後、男子は阪神地方へ就職する人が多かったが日本鋼管が高炉稼働して後は地元就職が急増した。地元へ残ることを条件に、わが子に新車を購入して与える親も多くいた。
「士農工商」から「華士卒平」の四民となった、昭和の新憲法による廃止まで続いた。城見地区の住民は全期間、ほぼ100%が平民であったと思える。
寺社は分離された。神社は神道の国家政策に組み込まれて優遇され、「村社」等の指定と各付けがされた。
加地子(税金)は変わらず、苗字を付けた事だけが平民の感じる“ご一新”であった。
○衣
綿を栽培し糸にした。糸で機織りして布にした。布を編んで着物にした。
紡績工場が各地に出来、綿花は明治30年代からインド産になった。その頃より糸を紡ぐのは止めて機織りが残った。
女性は「機が織れねば嫁にいけない」と言われた。
機織りは大正頃消え、布地(ぬのじ)を買うようになり裁縫が残った。
着物は何度もつくろぎ再利用し、最後は生理用品や雑巾にした。
綿は昭和の初め頃まで栽培され、綿打ちして布団やちゃんちゃんこに入れた。
着る物は「イッチョウライ」「よそゆき」「普段着」「仕事着」に分けていた。
洋服は昭和の初めに男性に普及し、次いで女性に及んだ。
モンペ
モンペは昭和12年頃より、国策で戦時の婦人服として生まれ、着用が半ば強制された。
「よそゆき」と「普段着」と「仕事着」を兼ね活動的であったので普及した。農村では和服から洋服へ移行への橋渡しも兼ねた。戦後も野良着として愛用されている。
○食
主食は米麦で比は5:5が多かった。麦は裸麦で、大正頃にまる麦からひしゃぎ麦に変わった。米と麦は二毛作で栽培していた。
米の飯を食べるのは正月、盆、祭りのみ。
祭の日には、無塩の魚、米、ちらし寿司(ばら寿司)、巻きずし、赤飯、それにお酒で祝った。
食べ物は、自給を料理するのが基本だった。
おかずの野菜、
ダイコン、ごんぼー、人参、じゃがいも、かぼちゃ、ナスビ、きゅうり、玉ねぎ。
昭和になると、ホウレンソウ、白菜、キャベツ、ピーマン(鬼とうがらし)、後にレタス、セロリ、アスパラガス、おくら・・・。(追記)
自宅に植えて無い野菜は近所とトリカエしていた。
野菜の他にまったけ、ぜんまい、シイタケ、茶(畑のゲシ)
味噌汁、つけもの(こーこ、梅干し、らっきょう)
味噌も醤油も家庭で作った。
肉は廃鶏、(クジラ肉・豚肉・牛肉は戦後に普及)
お酒は集まった時に呑み、晩酌の人はすくない。ビールは昭和30年頃から若者が呑み始めた。
買うもの
とうふ・酒・塩・酢
おやつも自給が基本で、
ふかしイモ(主食にも)、吊し柿、キズモノの果物、しーしー、ぽんぽん、びーびー、蜂の子、ゆすら、砂糖きび、なんば、野苺、竹の皮で梅干し、
柿、あけび、ニッキ紙の木、大豆やソラマメやアラレを炒ったもの、はったい粉
弁当は柳ごおりからアルミへ箱が変わった。弁当のおかずは、こ-こ・梅干し・らっきょうの他にめざしや削り鰹の醤油、野菜を煮たもの。お茶は弁当蓋で飲んだ。
病気をした時だけ、卵を食べることが出来た。
○住
屋敷には母屋があり、他に納屋、うむし小屋(麦・干しいちじく)、蔵(味噌・醤油・米・漬物)、タバコの乾燥小屋、牛小屋、長屋・ヒヤ、灰小屋・割木・くべ木、風呂・便所、等があった。
家には芋ツボ、土間、えんだ、かどがあった。
母屋は部屋と土間に分けられ、部屋は養蚕の家では人より蚕室が優先された。
○城見の暮らし
農業と漁業で9割を超えたが、他に生業として日用雑貨店、野鍛冶屋、うどん屋、薄荷仲買、会社員・教員・公務員、博労、吉備焼、窯業(瓦)、桶屋、豆腐屋、医者がいた。
家の跡継
男は惣領、女は婿取り・養子取りと呼ばれた。
結婚は家と家。家のつり合いが優先された。嫌われたのはハンセン氏病や結核の家、丙午生まれの女性。
入籍は妊娠後が多かった。逆に言えば「家風に合わない」「1年以内に妊娠しない」嫁の多くは本人の意思に関係なく実家に戻された。
お産は自宅で
嫁は産気付くまで仕事をし、産婆さんを呼んだ。座産で、後ろによかって生んだ。
婦人に選挙権はなく、嫁は家では機織り・裁縫・炊事・洗濯は仕事のうちに入らなかった。
風呂は最後に入り、朝は誰よりも早く起きてクドで火を付けた。
3・昭和(戦中)~高度経済成長期
○戦中・復興期
明治以降より今日の平成までの間、唯一都会よりも田舎生活が恵まれていた数年間だった。
田舎である城見には、住む家があり、食べる物があった。
町から来る買出しの人は着る物を持って訪れ、食料(さつま芋など)と物々交換した。
○高度経済成長期
日本にテレビが普及し始めたが城見は遅く、皇太子ご成婚(昭和34年)時は城見小学校に一台あるのみだった。
城見の二台目は目崎散髪店、子供たちは学校帰りにガラス戸越しにテレビの大相撲を見て、帰ればテレビのある家庭に見せてもらいに行っていた。東京五輪(1964年)開催時は、ほぼ全戸普及していた。その当時はNHK・NHK教育・山陽・西日本の4つのチャンネルが見れた。
昭和35年頃、牛を飼うのを止めテーラー(耕運機)が普及し始めた。
プロパンガスや扇風機や石油ストーブ、扇風機・洗濯機・冷蔵庫など白物家電が普及していった。
電話は昭和45年頃に農村集団電話が各戸に付いたが、その2~3年後より戸別の電話へ換わった。
家は台所が床になり、土間や牛小屋など消えていった。
畳をあげての大掃除や井戸掃除・エントツ掃除もなくなり
カド(庭)は築山になった。
自家用車は昭和42.・43年頃から一家に一台普及するようになった。
その時代を象徴するのが、井笠鉄道の鉄道事業廃止。(昭和46年3月31日)
高校卒業後、男子は阪神地方へ就職する人が多かったが日本鋼管が高炉稼働して後は地元就職が急増した。地元へ残ることを条件に、わが子に新車を購入して与える親も多くいた。
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