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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

レナウンが経営破綻

2020年06月16日 | 昭和41年~50年
アランドロンと言えば、世界を代表する二枚目の大スターだった。
そのアランドロンがなんと、
日本で、
”ダーバン”という背広のテレビCMに出演した。
そのCMは毎日テレビで流れた。
女性服で人気のレナウンが、男性の市場へ進出したのがダーバンだった。
当時、独身貴族だった管理人も百貨店でダーバンの茶色の背広を買った。
身体にフィットし着心地もよく、自分のお気に入りの一着だった。


・・・


姉の同級生(男)で、”ただっちゃん”という、愛されキャラ兼優等生がいた。
同級生の誰からも”ただっちゃん”、と呼ばれる人気者だった。
ただっちゃんは、
笠岡商に進学し、卒業して就職した。
そこまでは知っていたが
姉によれば笠商から「レナウン」に就職したそうだ。
レナウン時代に会ったことがあるそうだが、もう定年からだいぶ経っている。
有名企業だったレナウンは今年倒産した。


※本日(2020.6.16)上場廃止される、と新聞に載っている。

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どうしても見たかった試合『ボクシング』・・・その2

2020年06月05日 | 昭和41年~50年
どうしても見たかった試合②アリvsフレージャー

当時四国の松山市に住んでいた。
松山市は民放が一つしかなかった。
それであきらめかけたら、松山でも放送することを知った。
アリは、
小学生の時から名前を知っていた。
金メダル、KO予告、リストンをKO、徴兵拒否、牢獄で改名、
既に全世界レベルの著名選手だった。
フレージャーは現チャンピオンで、
無敗対決。
見なければいけない試合だが、どこで見るか?
いろいろ検討して近くの食堂で見ることにした。
当時テレビでヘビー級のボクシングを放送することはなかった。
リングへアリとフレージャーが登場しただけで、昂奮のつるぼとなった。
フレージャーが勝って大統領から褒めてもらったが、
すぐにフォアマンに負けた。


・・・・・・


どうしても見たかった試合③アリvsフォアマン

フレージャーをコテンパンにしたフォアマンは”象をも倒す”と言われる、無敵のハードパンチャーだった。
あのアリも最後の試合、引退試合になるだろう。
みんなそう思った。
しかし、どこで見るか。
当時は玉野市の三井造船の工事現場に勤務していた。
平日の勤務時間だったが、寮に帰って(←サボって)試合を見た。
試合の会場は、
長くベルギー領コンゴと呼ばれ、独立国家になり「ザイール」の首都キンシャサ。
アフリカのジャングル地帯での世界戦だった。
観客は100%アリの応援者。
異様な雰囲気の会場だった。
リングの上は40度くらいありそうな熱帯の中だった。
アリは人生で一番か二番かの出来の試合で、予想を覆して勝った。
ボクシングというより、スポーツの歴史的な試合だった。


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新入社員時代②呉の生活  あこがれの”山口果林”が呉に来る

2020年06月03日 | 昭和41年~50年
NHKの「繭子ひとり」、あこがれの”山口果林”が呉に来る

P社に入社した時、東京に配属されたかった。
それは、東京には「山口果林」がいるから。
NHKの連続テレビ小説「繭子ひとり」の主演・山口果林は週刊誌の表紙やグラビアで見ない日は無いほどブームになった。
東京にはあんなきれいな人が住んでいるのか、とあこがれていた。
その「繭子ひとり」の撮影のため、山口果林が呉に来た。
撮影を見に行きたいけど、まだ新入社員で”休む”ことは、とてもできない。
同じ呉の空の下にいることに満足するしか仕方なかった。
撮影は呉の市街地でなく、倉橋島の方であった。


・・・・・・・・・

オーリングブーム

その年は、空前のボーリングブームだった。
テレビでは「さわやか律子さん」が人気だった。
P社に限っても、呉事務所の管轄内で3か所工事中だった。
ボーリングのローラーの装置は大福機工という会社の独断場で、天下だった。
その会社の据え付け日を厳守しないと、多忙で、次はない、という状況だった。
無事、大福機工が済む頃、新聞に「○○ボールxx月xx日オープン」と宣伝記事が掲載される。
それから毎日のように女子社員をオープン前のボーリング場に派遣していた。
それは、いきなりオープンするより、いくらか玉を滑らしておくのが良いそうだ。
毎日女子社員は仕事で、無料の、新品のボーリング場を楽しんでいた。


・・・・・・・・・

”浅間山荘事件”、まるいちにちテレビの見放題

赤軍派が人質を取って立て籠もる浅間山荘に、警察が突入する日。
その日、会社のテレビはスイッチがオフになることは無かった。
仕事をするのは女子社員だけ、男子社員はテレビにくぎ付けだった。
テレビを見ながら、
そのうち突入するだろう、終わるだろうと思っていたら、そのまま一日かかった。
仕事日でありながら、一日テレビを見てすごす日となった。
テレビの最高視聴率は90%になったと言われている。
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P社の「昭和46年入社」

2020年06月03日 | 昭和41年~50年
新入社員は450名くらいいた。
昭和46年4月1日、
入社式は広島市の国際ホテルであった。
P社は翌年から東京で入社式を行ったので、最後の広島での入社式だった。
翌日から江田島の研修所で新人訓練があった。
江田島と言えば、海兵や海軍を連想さすが、普通の訓練所だった。
その施設には日本ホイストなど他社も同時に行っていた。

・・・・・

中国支店に配属された

2週間の江田島での教育期間が終わり、中国支店に配属になった。
そこでも2週間ほどで、「呉事務所」へ、最初の転勤があった。
GWがあり、それが終わると呉に行くことなった。

・・・・・

GWに初めて天皇・皇后を見た。

両陛下が会社の隣にある広島グランドホテルに到着した。
GW中その後に、一度実家に帰った
その時に祖母に天皇皇后を見たことを言った。
その訳は、
家には天皇皇后の写真を掲げていた。
祖母はそれを見ながら、
「戦争が終わった時、この写真を隠した」
その話を何度も聞いていた。
写真保持だけで逮捕されたりする(噂の)時代があった。

・・・・・

初めて仕事がまわってきた

女性社員や上司の仕事を見るだけだったが、
上司から初めて仕事を言われた。
その仕事とは・・・・、
葉書に宛先を書くことだった。
参議院議員に永野鎮雄(ちんゆう)さんという先生がいて、その人の
暑中見舞状を書く、選挙運動だった。
鎮雄さんは
当時、会社の会長の実弟で「永野七兄弟」として有名な兄弟だった。

・・・・・


日新製鋼の現場事務所に配置された

日新の現場には有能なMさんがおられ、そこで勉強せよ、という含みで日新製鋼に行くことになった。
日本鋼管福山製鉄所には何度も入ったことがあるので、日新の製鉄所とは比べてしまう。
規模も製鉄現場もなんとなく暗い感じを受けた。
しかし毎日元気いっぱいに日新製鋼へバスで通った。

・・・・・

社会人になって、初めて褒められた

日新の現場には12~13人の社員がいた。
仕事が終わると、冷蔵庫からビールを出して飲んで帰るのが日課だった。
たいてい午後6時前後、
毎日のことで、あたりまえのことのように飲んでいたら、
20も30才も上の先輩から、
「○○(私のこと)はうまそうに呑むのう」
これが入社以来最初の褒めことばだった。
その後、会社生活で褒められたことは記憶にない。

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三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド

2020年05月23日 | 昭和41年~50年
三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド


春と夏の甲子園では、幾多のヒーローが生まれているが
誰が一番人気者であったか?
といえば三沢高校の太田幸司投手だろう。
顔は日露混血のエキゾチックな二枚目。試合は一人で延長戦を投げ抜き、翌日も連投、そして敗者となった。
たちまち日本中の大ヒーロー。
その試合に勝ったのが松山商業。

優勝パレードがあり、松山市の上一万で見物した。
選手はユニフォーム姿で、オープンカー4~5台、連なって学校方面へ向かっていった。

松山商業は、もともと香川の高松商業と並んで、四国を代表する伝統の強豪校だった。
その年は、甲子園優勝が加わり更に話題になった。

それで、
街中にある松山商の校庭に、野球部の練習を何度か見に行った。
独立した野球部のグラウンドでなく、校舎と同じ敷地の校庭が練習場。

広いグラウンドの外野の奥(敷地のいちばん後ろ)に大きな木が並んでいて、その下にコート姿の大人が黙って練習を見ていた。
時おり、手帳を出してメモしていた。
「あれはプロ野球のスカウトだ」という話だった。
スカウトは離れた状態で4~6人いて、視線は選手だけに注がれていた。

その時代はまだ、学校内、特に校庭はどこからでも出入り自由。
選手・部員の邪魔にならないことだけが前提だった。
今思えば平和な時代だった。

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「い草」の盛衰

2020年03月30日 | 昭和41年~50年
「い草」の盛衰
山陽地方では、広島県松永から岡山県都窪郡にかけてい草が多かった。
管理人は昭和44年と45年に”臨時雇用者”として10日間ほどい草刈に行った。
臨時雇用者は、お金だけが目的で、雇い主もお金だけで釣っていた(と思う)。
一日4.000円~5.000円だったような記憶がある。
(土方仕事が一日1.200~1.500円だった)

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「早島歴史紀行」 平成28年 早島教育委員会編 学校教育ビジョン発行

い草王国「岡山」
昭和15年(1940)岡山県のい草作付面積は、3600ヘクタールに及び戦前の最高を記録しました。
そして終戦後、昭和21年はわずか3ヘクタールという状況で、まさにゼロからの出発でした。
昭和26年に戦前の水準を回復しました。
そして昭和30年代になると岡山県のい草産業は、その作付け、畳表の生産ともに最盛期を迎え岡山県は名実ともに「い草王国」として全国に君臨しました。
昭和37年に岡山県が発表した調査書によると早島町では、農家数436戸のうち約7割の312戸がい草を栽培し、製造者数301戸のうち282戸で、早島の製造業者のほとんどがい草関係であったことがわかります。
ちなみに戦後、岡山県のい草作付けが最高となるのは昭和39年の5548ヘクタールでした。

公害
岡山県のい草が最盛期を迎えようとしていた昭和39年3月、倉敷市中島のい草先端がこげ茶色に枯れ始めるという事件がおこりました。
調査の結果、近隣の工場から出される亜硫酸ガスが原因ではないかということでした。
翌年は倉敷市福田の東塚や広江のい草が枯れ始め、「水島の石油化学工場の排ガスによるものである」という報告をおこないました。
昭和43年には早島町や茶屋町にも先枯れが発生、価格が暴落した。
昭和49年、岡山市・倉敷市・都窪郡・浅口郡の農家13.053戸と補償総額10億3千万円で企業と覚書調印した。

落日のい草王国
昭和30年代黄金期を迎えたが、その後は減少の一途をたどり昭和49年には940ヘクタールと激減し、全国一の座も熊本県に譲りました。
水島工業地帯は、岡山県の主要ない草産地に近接していました。
必要とされる労働力は、まさにい草生産地域から提供されたのでした。
真冬の植付と炎天下の刈取りという重労働に加え、価格の動向に一喜一憂していた農家にとって、安定した雇用と収入は大きな魅力でした。
さらに工業化の波は労働者の不足を招きました。い草農家では毎年、刈取り時期に多くの労働者を県北や四国から臨時雇用してきましたが、これらの地域も工業化が進み重労働のこの仕事は敬遠され労働力不足となりました。
また生活様式の変化で畳の需要も減り、追い打ちを公害による被害で、品質の低下や価格の低迷、進まぬ原因究明で、農家の意欲は萎えていきました。


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昭和46年の広島・・・①

2020年03月14日 | 昭和41年~50年
福屋前の傷痍軍人

広島の百貨店・福屋の前に、いつも白衣姿の男性が3人ほどいた。
座って、募金箱を前にお辞儀を繰り返していた。
アコーディオンが(勇壮でなく)沈んだ感じの軍歌を流していた。
歳の頃は戦後26年目だから、45~55才位の元軍人だった。
それから2~3年後、
あれは傷痍軍人でなく、身体は元気な人で
福屋の時間が過ぎると「しゃきっとして、お金をもって、高級車に乗って去っていく」のを見たという話を多く聞いた。
当時、東京や大阪にはこうゆう偽の元軍人が繁華街にいたそうだが、
中四国では岡山や松山で見たことがないので、大都市限定の偽傷痍軍人だったようだ。


昭和天皇が広島に

会社の隣に広島グランドホテルがあった。
ある日、昭和天皇が広島に来てパレードをした。
グランドホテルから出るときか、来た時に天皇をはじめて見た。
生まれて初めて天皇を見た。特に皇后はよく見えた。
いつもの笑顔で手を小さく振っていた。
実家に帰った時、このことを祖母に教えた。
家には父・母・祖父・祖母がいたが、話したのは(普段いちばん話をしない)祖母だった。
祖母以外は、このことに反応がないだろうと思っていた。
(家では、祖母以外から「天皇」という言葉を聞くことがなかった)


超スピード運転が得意の課長

会社には社内報があり、毎月発行されていた。
毎月、どこかの課が職場紹介というページがあり、仕事でなく課員の紹介をしていた。
ある月に人事課が載り、課員の特技も紹介される。
人事課長の特技はなんと「超スピード運転が得意」と載った。
当時でも、これ書いていいのかな?と思ったけど、やはり今でもそう思う。
まだ珍しかった車通勤ですよ、と言いたかったのかな?


会社の上司に挨拶なしの無言(トルコ風呂で)

広島の薬研堀は当時、トルコ風呂が盛んで
お店に入ると待合室があり数人の客が自分の番が来るのを待つ。
番になるとトルコ嬢が両手をついて個室に案内するというシステム。
或る日、同期のTくんが待合室で上司に会い、しばらく同じ場所で待機したそうだ。
その時間はとてつも長く感じたそうだ。そうだろうな。
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父は葡萄酒の密造をしていた

2020年03月06日 | 昭和41年~50年
子供の頃、衣食の多くは、田舎の農家は自給自足や、近所との物々交換で生活していた。
そのうちお酒。

家では、
お酒(日本酒)は高価なので、焼酎を飲んでいた。
お酒は客があるときに限り、熱燗をしていた。
ビールは高価であり、アルコール度も低く対象外だった。(冷蔵庫もないが)

他に葡萄酒があった。
盆が過ぎて葡萄の出荷が始まる。傷や腐ったつぶをバケツに入れて、手でも揉みながら葡萄酒造りをしていた。
父が造った葡萄酒は、父と祖父が飲んでいた。
子供も正月などハレの日に杯についで呑んでいた。アルコール分が弱いのか、呑む量が少ないのが原因か、酔った記憶はない。

日本の経済も暮らしも大きく変わっていた大阪万博の頃、父は税務署から密造の摘発をされたそうだ。茂平では葡萄農家が4~6人ほど挙げられたようだ。
時は、茂平の干しイチジクが禁止された頃と重なる。



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「台所に敗戦はなかった」魚柄仁之助著 2015年 青弓社発行より転記。

葡萄酒の自家醸造は合法?だった

昭和24年、婦人雑誌「女性の友」のお料理欄には、家庭で葡萄酒を造るって「楽しいではありませんか」と一升瓶の図とともに書かれている。
昭和7年の「家の光」には、
つくりませう!葡萄酒
と自家製法が、かなり専門的に書かれている。


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ニュー井原新聞・縮小版 昭和42年8月21日


”ぶどう酒は造るまい”
笠岡税務署が呼びかけ


笠岡税務署では、今月7日から31日まで「ぶどう酒の密造をなくす運動」を展開している。
これは、最近における酒類の密造状況が米を原料にしたものかが次第に減少し、ぶどうを原料とした密造が漸増の傾向をみせているためで、法律に違反するするとの認識は十分持ちながらも、ぶどう果物の入手が容易である、製造方法が簡単などからこのたびぶどうの出荷最盛期を迎えて一般の自覚を呼びかけることになったもの。

従って、この密造酒帽子宣伝期間、ヤミ酒は造るまい、飲むまい、譲り受けまい・渡すまい、などの周知徹底を図るため左記の行事をもくろんでいる。




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ワンマンバス

2019年01月20日 | 昭和41年~50年
♪運転手は君だ 車掌は僕だ あとの四人は電車のお客・・・
電車もそうだが、バスもまた必ず車掌さんが乗っていた。
昭和42年、広島市でバスに乗ったらワンマンバスだった。これにはびっくりした。
後を追うように、笠岡のバスもワンマン化された。

「井笠鉄道70年のあゆみ」昭和56年井笠鉄道発行より転記
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昭和45年4月15日 第一次ワンマン運行実施
系統名・・福山高屋団地大門団地 福山引野大門団地 福山~宮の前
     福山~東福山駅 大門団地~鋼管 大門団地大門鋼管
昭和46年3月20日 第二次ワンマン運行実施
系統名・・井原御領福山 笠岡新国道福山 富岡団地~福山
     福山千軒土手二ツ川
(昭和46年3月31日 井笠鉄道廃止記念式典)
昭和46年9月23日 第三次ワンマン運行実施
系統名・・福山新道玉島 井原山王笠岡 井原~矢掛
     矢掛~福山 井原~鋼管 笠岡~鋼管
昭和47年9月10日 第四次ワンマン運行実施
系統名・・井原~共和 寄島~里庄 矢掛~宇土谷
     矢掛~高梁 矢掛大倉三山 沙美~金光
     鴨方~遥照 鴨方~仁故 鴨方~西六
昭和48年6月30日 第五次ワンマン運行実施
系統名・・福山伊勢丘培達団地 培遠団地高屋鋼管 培遠団地病院鋼管
昭和48年9月15日 第六次ワンマン運行実施
系統名・・福山~旭ケ丘団地 福山~茂平入口
昭和50年5月16日第七次ワンマン運行実施
系統名・・井原小田笠岡 矢掛~笠岡 沙美~玉島
(省略)
昭和52年8月1日 第十一次ワンマン運行実施で完了。

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家船(えぶね)の事

2018年06月25日 | 昭和41年~50年
岡山県側に「家船(えぶね)」は、見聞きしないが、瀬戸内海の西部では存在し、
特に尾道市は千光寺と並び有名だった。

「尾道市史第4巻」より転記する。
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家船・末子相続制

家船という古いしきたりは、多くの漁業に残っている。
必ずしも吉和だけの専売特許ではない。
漁業者は、船を家として各地を放浪するので、自然とそうならざるを得ないのである。
すなわち海のジプシーなのであるが、吉和の漁民はほとんど陸に家を持っている。とはいうものの土地はほとんど借地である。

三間ほどの漁船に一家族が世帯をもっていれば、時と共に親夫婦も、子供も年をとる。
適齢期に達した子供には嫁をとってやると共に、船を一艘造ってやって、分家させるのが親の義務であった。
末子が後に残り相続した。
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