しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

父は葡萄酒の密造をしていた

2020年03月06日 | 昭和41年~50年
子供の頃、衣食の多くは、田舎の農家は自給自足や、近所との物々交換で生活していた。
そのうちお酒。

家では、
お酒(日本酒)は高価なので、焼酎を飲んでいた。
お酒は客があるときに限り、熱燗をしていた。
ビールは高価であり、アルコール度も低く対象外だった。(冷蔵庫もないが)

他に葡萄酒があった。
盆が過ぎて葡萄の出荷が始まる。傷や腐ったつぶをバケツに入れて、手でも揉みながら葡萄酒造りをしていた。
父が造った葡萄酒は、父と祖父が飲んでいた。
子供も正月などハレの日に杯についで呑んでいた。アルコール分が弱いのか、呑む量が少ないのが原因か、酔った記憶はない。

日本の経済も暮らしも大きく変わっていた大阪万博の頃、父は税務署から密造の摘発をされたそうだ。茂平では葡萄農家が4~6人ほど挙げられたようだ。
時は、茂平の干しイチジクが禁止された頃と重なる。



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「台所に敗戦はなかった」魚柄仁之助著 2015年 青弓社発行より転記。

葡萄酒の自家醸造は合法?だった

昭和24年、婦人雑誌「女性の友」のお料理欄には、家庭で葡萄酒を造るって「楽しいではありませんか」と一升瓶の図とともに書かれている。
昭和7年の「家の光」には、
つくりませう!葡萄酒
と自家製法が、かなり専門的に書かれている。


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ニュー井原新聞・縮小版 昭和42年8月21日


”ぶどう酒は造るまい”
笠岡税務署が呼びかけ


笠岡税務署では、今月7日から31日まで「ぶどう酒の密造をなくす運動」を展開している。
これは、最近における酒類の密造状況が米を原料にしたものかが次第に減少し、ぶどうを原料とした密造が漸増の傾向をみせているためで、法律に違反するするとの認識は十分持ちながらも、ぶどう果物の入手が容易である、製造方法が簡単などからこのたびぶどうの出荷最盛期を迎えて一般の自覚を呼びかけることになったもの。

従って、この密造酒帽子宣伝期間、ヤミ酒は造るまい、飲むまい、譲り受けまい・渡すまい、などの周知徹底を図るため左記の行事をもくろんでいる。




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