
【401~402ページ】《古池の句の弁》(明治31年10月~11月)
新古今以後門閥の争い烈しく、形式を論じて実際に疎く、花はかく詠むもの月はかく詠むもの、千鳥の名所はどこどこに限り、某の語は某の処にのみ用いらるるなど規則ずくめになりては和歌は今更に発達すべき寸隙だにあらずなりぬ。かく腐敗し尽つくせる和歌より出でたる連歌の発句は和歌と共に腐敗しおるのみならず、詩形の小なるだけその範囲狭くなりて腐敗はかえって一層度を高めたる者あり。
【425~426ページ】
芭蕉の野ざらし紀行あり。野ざらし紀行の句を見るはこの際最も必要なり。
・野ざらしを心に風のしむ身かな
・秋十とせ却って江戸をさす故郷
・霧しぐれ不尽を見ぬ日そ面白き
・猿を聞く人捨子に秋の風いかに
・道の辺の木槿(むくげ)は馬に喰われけり
・馬に寝て残夢月遠し茶の煙
・三十日(みそか)月無し千とせの杉を抱く嵐
・芋洗ふ女西行ならば歌よまん
・蔦植ゑて竹四五本の嵐かな
・秋風や藪も畠も不破の関
これらの句は虚栗(みなしぐり)に比してさらに一歩進めたり。--------しかれども句々なお工夫の痕跡ありていまだ自然円満の域に達せず。芭蕉はこの時いまだ自然という事に気づかざりき。
[ken] 言葉づかいや文章の作成にあたって、定型を重んじることが優先され過ぎれば、その人なりの心が表出されず聞く人や読む人に響いてきません。とくに、仕事上の文書起案やビジネスレターでは、5W1Hをきちんと記載し、商談等にかかわる数字の正確さ、そして違った解釈や誤解を招かないような文章が優先されます。ある意味では無味乾燥になる弊害があります。
一方、プレゼンテーションにおいては、正確さ以上に、相手方に届くメッセージ性の高い言葉が求められ、「目新しい」「斬新」「時代の先取り」「インパクト」「美しい」「優しい」要素が盛り込まれることになります。コピーライターが専門職として成り立つのも、そこに価値が見出されているからでしょう。
また、正岡子規さんの松尾芭蕉への評価は公平であると感心しました。俳諧について、芭蕉以前と芭蕉初期をわかりやすく批評した上で、未曾有の一句「古池や蛙飛び込む水の音」へと筆をすすめます。(つづく)