
【236~237ページ】
----黒田如水などという豪傑さえも、やはり死ぬる前にはひどく家来を叱りつけたといことがある。その家来を叱ることについて如水自身の言いわけがあるが、その言いわけはもとより当になったものではない。畢竟は苦しまぎれの小言と見るのが穏当であろう。陸奥福堂も死際にはしきりに細君を叱ったそうだし、高橋自恃居士(じじこじ)も同じことだったというし、してみると苦しい時の八つ当りに家族の者をしかりつけるなどは余一人ではないと見える。
【238ページ】
◯余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事はいかなる場合でも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きて居る事であった。
[ken] 最初の抜き書きは、一見して「居直り」とも読めますが、正岡子規さんの「身内に対する言い訳と謝罪」をかねた文章でしょう。とはいうものの、次回の抜き書きでは母と妹に対する不平不満が噴出し、それが「日本における女子教育の必要性」にまで発展するに及び、「苦しい時の八つ当たり」を正直に吐露した名文になっています。
さて、私は自分を何の疑いもない愛情で可愛がってくれた祖母、そして今も天上から甘えん坊でわがままだった末っ子の私を心配そうに見守ってくれている母の臨終には立ち会えず、親族の「死に目に会う」ということでは89歳で他界した父だけです。私の親族は、64歳で他界した義父を含め、本書にあるような「苦しい時の八つ当りに家族の者をしかりつける」ことはほとんどなく、とても我慢強い人たちでした。
それに比べて、私は昨年の入院時に少しだけですが、カミさんにわがままを言ってしまいました。入院や療養がもっと長引いたならば、ひどい醜態を見せたものと想像できます。本書を読み、今後はそんなことがないようにしたいものだと思いました。
238ページの「悟り」については、死に対する心構えではなく、生に対する「いかなる場合にも平気で生きて居る」姿勢だと知りました。でも、それは誠に至難の技といえますね。(つづく)