平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



赤間神宮は文治元年(1185)壇ノ浦の戦いに敗れ、
わずか八才で入水した安徳天皇を祀っています。
その遺骸は紅石山(べにしやま)麓の阿弥陀寺に葬られ、
その後、建久2年(1191)に後鳥羽天皇は御影堂を建立し、
阿弥陀寺を勅願寺としました。

江戸時代までは真言宗の寺で聖衆山阿弥陀寺と称していましたが、
明治の神仏分離令によって赤間宮となり、
昭和15年(1940)官幣大社となって赤間神宮と改称されました。





竜宮の城門のような水天門から拝殿まで臨時に
天橋(てんきょう)が設置されています。これは今日5月3日に行われた
先帝祭で女臈(太夫)、稚児たちが練り歩いた花道です。

二位の尼(時子)が安徳天皇を抱いて入水する際、
どうして海に飛び込むのかと訝る幼い天皇に
「波の下にも都の候ふぞ(波の下にも都があるのですよ)」と、
身をひるがえしたのでした。
水天門はその願いを写したものといわれています。



門前には国道9号線が通り、目の前に関門海峡が広がっています。


大安殿(外拝殿)の中に入ると、廻廊の中には水が張られ、
能舞台、奥に唐破風内拝殿、その背後に神殿(見えませんが)があり、
海の都を模した宮殿かと思わせる美しさです。








安徳天皇阿弥陀寺陵は水天門の西、白塀に囲まれた中にあります。




陵墓は円墳です。

赤間神宮神殿(本殿)左手には、水天供養塔が三基並び、
そのむこうに芳一堂があります。


水天供養塔の由来
安徳天皇は御位のまま御入水され水天皇・水天宮と申し上げます。
吾が国民は天皇の御守護のもと斯く永らへ安心して冥黙も出来ます。
同時に亦国民同胞の中に或は海難に水難にと幾多の水歿者の方々は
即ち水天皇さまの御膝元に冥りたく、
此の石塔の台石下に幾多の小石に名を留めて納められています。
人は名を留むる事に依り安心を得るもので
即ち是を水天供養塔と申します。
 一.昭和二十五年三月建立 二.今次大戦中水歿者霊位 


昭和32年に造営された芳一堂には、琵琶法師耳なし芳一の木像
(山口県防府市出身の彫刻家、押田政夫作)が祀られ、
平曲を語っています。

明治の文豪、小泉八雲はここを舞台に
『怪談』(耳なし芳一)を書きました。



耳なし芳一の由来
 その昔、この阿弥陀寺(現・赤間神宮)に芳一という琵琶法師あり。
夜毎に平家の亡霊来り。いづくともなく芳一を誘い出でけるを、
ある夜番僧これを見、あと追いければ、やがて行く程に平家一門の墓前に端座し、
一心不乱に壇ノ浦の秘曲を弾奏す。
あたりはと見れば数知れぬ鬼火の飛び往うあり。
その状芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相なり。
さすがの番僧慄然として和尚に告ぐれば一山たちまち驚き、
こは平家の怨霊芳一を誘いて八裂きにせんとはするぞ、とて
自ら芳一の顔手足に般若心経を書きつけけるほどに、
不思議やその夜半、亡霊の亦来りて芳一の名を呼べども
答えず見れども姿なし。暗夜に見えたるは只両耳のみ、
遂に取り去って何処ともなく消え失せにけるとぞ。
 是より人呼んで耳なし芳一とは謂うなり。

芳一堂の横に白壁の築地塀があり、
「平家一門之墓」と刻んだ石標が建っています。
山陰となっている墓地周辺は、
昼間でも薄暗く気味の悪い場所です。

平家一門の供養塔で、平有盛や平清経など14人の名が刻まれ、
名前に「盛」のつく塚が多いことから七盛塚ともいわれています。

あちこちに散らばっていた塚が集められたもので、江戸時代初期の建立です。

前列
 左少将 平 有盛(重盛の子) 左中将 平清経(重盛の子)
右中将 平 資盛(重盛の子) 副将能登守 平 教経(清盛の甥)
参議修理大夫 平 経盛(清盛の弟)大将中納言 平 知盛(清盛の子)
参議中納言 平 教盛(清盛の弟)
後列
伊賀平内左衛門家長(知盛の乳母子)
上総五郎兵衛忠光(藤原忠清の子で平景清の兄)
  飛騨三郎左衛門景経(宗盛の乳母子で飛騨守景家の子) 
飛騨四郎兵衛景俊(景経の弟)越中次郎兵衛盛継(平盛俊の次男)
 丹後守侍従平忠房(重盛の子) 従二位尼 平時子(清盛の妻)

2列に並ぶ14基の自然石の背後には、一石五輪塔がいくつもあります。
都から平家につき従ってきた女官や名もない兵たちの石塔でしょうか。
この墓所と地つづきの紅石山に散在していた五輪塔といわれています。

『ホトトギス』の下関同人らの手により、昭和30年に10月に建てられた
「平家一門之墓」の塀ぎわにある高浜虚子の句碑です。
昭和3年に虚子が赤間宮に詣でた際、
♪七盛の 墓包み降る 椎の露 と詠みました。

赤間神宮   

御祭神 第八十一代 安徳天皇    御祭日 五月三日先帝祭   十月七日例大祭
 寿永四(一一八五)年三月二十四日源平壇浦合戦に入水せられた御八歳なる
御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる 
昭和二十年七月二日戦災に全焼せるも同四十年四月二十四日御復興を完成し
同五十年十月七日 寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行 
同六十年五月二日 勅使御参向のもと高松宮同妃両殿下の台臨を仰ぎ
御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり

  水天門記
惟時昭和三十二年十一月七日大洋漁業副社長中部利三郎氏は率先多額の
御寄進に加えて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市政七十周年大博覧会
開催の秋 吾国未曽有の御由緒と関門の此の風光明媚とに鑑み
 水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に昭憲皇太后より賜はりし御歌の
  今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへは
に因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日畏くも 
昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり
赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて
 みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに
の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり
  
太鼓楼記
 水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長靖原梅義氏は本宮
崇敬会長として夙に敬神の念に篤く 時恰も下関市制百周年を 迎うるや
本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ
平成二年一月二十七日元旦を期し見事に竣成す 
蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる
 打鳴らす鼓音とうとうと関門海峡にわたり 国家鎮護世界平和の響き
四海に満ち水天皇の神威愈を光被せむ
 
 水天門 掲額の記
 神門楼上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は
寛人親王殿下の御染筆をたまわり平成17年5月3日御祭神と仰ぐ
安徳天皇八百二十年大祭に際して宮様お成りのもと
思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。
  御神宝類
重要文化財   平家物語長門本  全二十冊
重要文化財   赤間神宮文書      全十巻一冊
山口県文化財  安徳天皇縁起絵図    全八幅
       平家一門画像      全十幅
     源平合戦図屏風 一双ほか宝物殿にて適時公開す
先帝祭・しものせき海峡まつり 
赤間神宮小門御旅所(安徳天皇の遺体を仮安置した場所)  
壇ノ浦古戦場跡(みもすそ川公園)  
『アクセス』
「赤間神宮」〒750-0003 山口県下関市阿弥陀寺町4−1 
電話: 083-231-4138
JR下関駅からバス10分→ 「赤間神宮前」バス停下車すぐ。
『参考資料』
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年 「赤間神宮略記」赤間神宮 
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
日下力監修「平家物語を歩く」講談社、1999年 

 

 

 



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黒ラブのいる生活様が宇和島の (自閑)
2020-05-08 13:18:29
ご無沙汰しております。どうにも動きようの無い昨今ですね。
同じgoo blogの宇和島の黒ラブのいる生活様が、壇ノ浦後の落武者狩りの五郎吉武の悲劇を伝えた遺跡を紹介していましたので、お知らせします。
引き篭り状態で、昔の写真からblogを書こうとした中に、静岡市清水区の田子ノ浦に義経伝説を伝えたものがありました。既にご存知かと思いますが、紹介いたします。
拙句
晴れ渡る富士の裾野の鹿の子かな
(伊勢物語東下の本歌取りです。)
 
 
 
いつもありがとうございます。 (sakura)
2020-05-09 11:02:30
宇和島の遺跡も田子ノ浦の義経伝説も知りませんでした。
全国平家会編「平家伝承地総覧(愛媛県)」を開くと、
宇和島市石応堂崎には壇ノ浦から逃げてきた官女たちが
堂崎鼻で斬殺された云々の記事が載っています。

宇和島は壇ノ浦のすぐ東に位置するためでしょうか、
平家落人伝説があちこちに残っているようです。

♪田子の浦ゆ うち出でてみれば ま白にぞ富士の高嶺に 雪は降りつつ ですね。

「宇和島の黒ラブのいる生活」さまは、のちほど訪問させていただきます。

思うようにいかない状況が続いています。
 
 
 
私には意味不明でしたが、アップいたしました (自閑)
2020-05-09 13:00:20
Sakura様
私には意味不明でしたが、源義経が最初?奥州に行く際、蒲生木之内家に立ち寄ったとのこと。浄瑠璃姫と言う女性が出てきますが私には関係が分かりませんでした。
ご覧頂ければ幸です。自主隔離が長く他にすることが無いです。
 
 
 
お知らせありがとうございました。 (sakura)
2020-05-10 09:54:24
拝見させていただきました。

鈴木亭「源義経と源平の合戦」河出書房新書には、
浄瑠璃姫と義経の伝説や岡崎市誓願寺にある浄瑠璃姫の墓の写真が掲載され、
浄瑠璃姫を浄瑠璃の起源とし、ここから人形浄瑠璃に発展したとあります。

ご存知のように「平家物語」は義経の前半生についてほとんど語っていません。
「平治物語」「義経記」謡曲「熊坂」「参考源平盛衰記」などが組み合わさり、
説話が説話を生んで義経(牛若丸)奥州下りの説話が生まれたようです。

岡崎市HP西三河ぐるっとナビには、
次のように書かれています。

牛若丸(源義経)と兼高長者の娘浄瑠璃姫の、美しくも悲しい恋物語です。
承安4年(1177)、牛若丸は、奥州平泉の藤原秀衡を頼って旅を続ける途中、
矢作の里を訪れ兼高長者の家に宿をとりました。

ある日、ふと静かに聞こえてきた浄瑠璃姫の琴の音色にひかれた義経が、
持っていた笛で吹き合わせたことから、いつしか二人の間に愛が芽生えました。

しかし、義経は奥州へ旅立たねばならず、矢作を去りました。
姫が義経を想う心は日毎に募るばかりでしたが、添うに添われぬ恋に、
ついに菅生川に身を投じて短い人生を終えました。

姫の墓や遺品は、誓願寺、光明院に残り、悲しい恋を偲ばせてくれます。
また、成就院と安心院は浄瑠璃姫の菩提を弔うために創建されたと伝えられます。

さらに「愛知県岡崎市公式観光サイト 岡崎ナビ」には、
浄瑠璃寺の写真や物語がUPされています。
 
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