下関市の本土と彦島(平家最後の砦の地)を隔てる
小門(おど)海峡沿いに赤間神宮小門御旅所があります。
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かつてここには、中島組という漁業を営む一団がありました。
その中島組が寿永4年(1185)の壇ノ浦合戦後、
丸太船四隻に分乗して網で出漁中、
安徳天皇の遺体を網で拾いあげたといわれています。
中島組はすぐに漁を中止し、安徳天皇の遺体を安置しました。
その時に舟をつけたところが「水揚げ場」、
遺体を安置したのが「御浜殿」でした。
現在、「御浜殿」は赤間神宮小門御旅所となっています。
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以来、中島家はますます隆盛し、
この地域の漁業権を得ることとなりました。
その後、安徳天皇を弔うために紅石山(べにしやま)麓の
阿弥陀寺(現、赤間神宮)境内に安徳天皇阿弥陀寺陵が造られました。
現在、赤間神宮先帝祭の上臈参拝の際には、中島家一門が
先頭に立ってお参りし、お供えなどを行います。
上臈参拝の翌日(5月4日)に御神幸が行われ、中島家の子孫が
小門御旅所で御神幸の行列を迎えて祭事が行われます。
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かつては上臈道中は、安徳天皇の遺骸を網で引きあげたという縁で
伊崎町の中島家から出ていましたが、
今は同町の西部公民館から出発しています。
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「第八十一代安徳天皇は寿永四年(1185)三月二十四日
源平船合戦において、平家一門と下関壇ノ浦に入水し給えり。
そのご尊骸はここ小門海峡に流れ着き、
中島組のいわし網に引き上げられしと伝う。
その後、関門海峡に臨む阿弥陀寺境内(現阿弥陀寺町赤間神宮)に
陵を築き、天皇殿を建立せり。すなわち、この小門の地は先帝祭
御神幸祭お旅所として『先帝祭上臈参拝』の翌日(五月四日)
中島家の子孫賑々しく御神幸祭の行列を奉迎して、
厳粛なる祭事が執行され、今に絶ゆることなし。
當地伊崎町に中島家と称するあり、傳う云う是れ正しく
平家の遺裔にして、代々名を四郎太夫と称せり、先帝會には古来、
先ずこの四郎太夫参拝し、次に女郎の参拝焼香するを常とす。
若し中島四郎太夫にして、参拝せざる間は、何人も之を為すことを得ざる
今もこれ然りを、以て其の由緒深きを知るべきなり。
中島家 赤間神宮 建立」(説明板より)
中島四郎大夫正則について、赤間神宮発行『先帝祭』には、
次のように記されています。
「壇之浦に平家滅亡の祭、中島四郎大夫正則(伊崎町、中島家の祖)と
言へる武士郎党を率いて赤間関西端王城山に籠り、再興を謀りしも
機運遂に至らず、漁業を営むに至れり。やがて例年先帝祭御命日には
威儀を正して参拝を続け、今日に至りぬ。」
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石碑は風化していて読みとりにくいのですが、
一金七拾圓 伊崎町中島家 一金六拾圓 稲荷廓組合中
赤間神宮 御濱殿地所
寄附主 小倉喜六衛門 と刻んであるようです。
現在の下関市赤間町・幸町・宮田町1丁目一帯には、
下関屈指の花街があり、そこに末広稲荷神社があったため
「稲荷町」と呼ばれていました。
源平合戦後、辛うじて生き延びた平家の女官たちが生活のために
ここで遊女になったと伝えられ、稲荷町は格式高い遊郭として栄え、
遊女が座る位置は、上座(客席)に座るのが習わしでした。
先帝祭は、安徳天皇の命日に女臈に身をおとした平家の官女たちが
潔斎して御陵に詣でたのが始まりといわれ、かつては平家伝説と結び付き
遊女が上臈道中をつとめました。今は下関舞踊協会の人達が行います。
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(林雲鳳筆「海の浄土」岐阜県美術館蔵
「図説・源平合戦人物伝」より転載。)
どこに連れていくのかと尋ねる幼い帝に二位尼は、「あの波の下にも
極楽浄土という都がございます。」となぐさめて波間に消えたのでした。
赤間神宮・安徳天皇陵・芳一堂・平家一門の墓
先帝祭・しものせき海峡まつり
壇ノ浦合戦(安徳天皇入水)
『アクセス』
「小門御旅所」山口県下関市伊崎町2-9-16
JR下関駅からバス2分「竹崎」下車、徒歩約10分
JR下関駅から西へ徒歩約15分
『参考資料』
「赤間神宮略記」赤間神宮 「先帝祭」赤間神宮
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
中石孝「平家れくいえむ紀行」新潮社、1999年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
二位の尼と一緒に沈まれ、早い潮の流れに海の藻屑になられたものと勝手に想像し、赤間神宮の陵墓には御遺物などが形代として埋葬されているのだろうと思っていたのです。
こちらで平家物語を深く教えてもらう前でしたし、その後も関門海峡などの撮影で個人旅行はしましたが、詳しいお話に触れることがなかったので目から鱗です
天皇の遺骸を運んでいると籠が動かなくなり、そこに埋葬したので
その地を「御籠立場」、網を架けた地を「御掛けの森」、
天皇の御衣を洗い清めた池を「御衣洗い池」などと呼んでいます。
宮島にも、入水後安徳天皇と離ればなれになった二位の尼の
亡骸が流れ着いたという伝承があり、表参道商店街入口あたりに立派な供養燈籠があります。
尊王七卿落ちの公卿もここに一時居たようです。
この小瀬戸に、捕鯨が盛んな時は多くのキャッチャーボートが行き来していたんですね。
よくご存じですね。地元のお方でしょうか。
PCの調子が悪いのでしばらく開いていませんでした。
当地の新規感染者数は減少傾向にあるものの、依然その数は多く、
医療提供体制は厳しい状況が続いています。
新しいPCを買って設定に来てもらいたいのですが、
生活必需品以外の買い物や人との接触は極力控えています。
どうぞご理解のほどよろしくお願いいたします。