平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




大里(だいり)の中心街にある御所神社は、平家ゆかりの柳の御所跡と伝えられ、
屋島に渡る前の一時期、安徳天皇の仮御所があったところとされています。
昔は付近一帯を柳の内裏といい、のちに内裏村となり、
大里という現在の地名が生まれたといわれています。

風呂の井戸から柳の御所へ向かいます。


バス停柳御所



境内に入ると左手に「柳の御所」にちなんだ柳の木が植えられています。



 柳 の 御 所
 寿永二年(1183)木曽義仲に都を追われた平家一門は、
安徳天皇を奉じて西に逃れ、太宰府に落ちていった。しかし、ここでも、
豊後の豪族、緒方三郎惟義が攻め寄せると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城を経て、
豊前国柳が浦にたどりついた。この柳が浦が現在の大里のことで、古い記録に
「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと
伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。
  境内の歌碑は栄華を極めた都の生活をしのんで平家の公達が詠じた歌である。
都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立ち寄りてみよ
                       薩摩守 忠度
   君住まは ここも雲井の 月なるを なほ恋しきは 都なりけり 
                        大納言 時忠
      参考文献 平家物語(応永書写延慶本) 北九州市 北九州市教育委員会

境内には、清盛の弟忠度・時子の弟時忠・清盛の甥経正の歌碑があります。

平忠度 ♪都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立ち寄りてみよ

分けてきし 野辺の露とも 消へずして 思はぬ里の 月をみるかな 経正卿

君住めは こヽも雲井の 月なるを なお恋しきは 都なりけり    時忠卿



    


鳥居の近くに「安徳帝柳御所舊趾」の碑が建っています。

鳥居を潜った左側、大里郷土資料室の前に石室があります。
ここには安徳天皇、平宗盛の木像が祀られていましたが、
現在二体の木像は、戸ノ上(とのうえ)神社に安置され、ご神体となっています。

大里郷土資料室に入ろうと戸に手をかけてみましたが、あいにく閉まっていました。





明治天皇が熊本に来られた時、大里に造られた休憩所の建物がここに移され、
御所神社の拝殿として遺されました。
拝殿の右横には、御所丸稲荷が祀られています。


普段は閉じられている拝殿の扉がお正月に参拝すると、開けられていました。

明治天皇玉座の間
明治三十五年(1902)十一月十日(復路仝月十五日)明治天皇は熊本で行われた
  陸軍特別大演習を御統覧のため大里に上陸なさいました。
   このとき明治天皇は大里停車場構内に新築された休憩所にて熊本への往復とも
  しばらく御休憩になりました。この休憩所の建物を安徳帝旧蹟の
柳の御所拝殿として遺し、永く御聖徳を偲ぼうとの声が起り当時の村長、
村会議員の人達は九州鉄道株式会社と折衝を重ねた結果、
 遂に寄贈が決り、翌年ここに移築造営されたものであります。
 この拝殿には正面の屋根には「菊の御紋章」があがり内部左側には、
「玉座の間」があって当時の歴史を偲ぶことができます。

『源平盛衰記・巻33』には、平家一門が太宰府を追われ、
山鹿城から小舟に乗って柳ヶ浦に上陸したときの情況を次のように記しています。
「沢辺の虫の声弱りて、磯打つ波に袖濡らす柳という所に着かせ給いけり。
楊梅桃李を引き植えて、九重の都に少し似たりければ、
薩摩守忠度、都なる九重の内恋しくば柳の御所に立ち寄りてみよと詠める。」
京都の御所になぞらえて、周囲に柳・梅・桃・李(すもも)を植え、
内裏を造営しようとしましたが、土地が狭い上に資金を調達できず、
敵が攻め寄せるとの情報に再び
海上へ漕ぎ出しました。

「柳の御所には、七箇日渡らせ給ひける程に、又惟栄(義)寄すると
聞えければ云々」と『盛衰記』にあり、僅か一週間の滞在であったことが知れます。

 
緒方軍が攻め寄せたため、夜通し舟を漕いで一門が上陸した
「柳ヶ浦」には、二つの説があります。一つは北九州市門司区大里、
もう一つは大分県宇佐市柳ヶ浦です。
宇佐の柳ヶ浦は、芦屋の山鹿城から関門海峡を通って100㎞以上もあり、
一晩でそんなに遠くまで逃げるのは、とても無理のように思われます。
風呂の井戸・風呂の地蔵・不老通  
平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)  
『アクセス』
「御所神社」北九州市門司区大里戸ノ上1-11-25
JR門司駅 から徒歩6分、「柳御所」バス停から徒歩1分。
『参考資料』
「郷土資料事典 福岡県」ゼンリン、1998年 新定「源平盛衰記」(第4巻)新人物往来社、1994年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 「検証日本史の舞台」東京堂出版、2010年
渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
平氏の本拠地で勢力を立て直すはずがが追われ追われて… (yukariko)
2016-12-12 11:45:35
柳の御所には七箇日渡らせ給ひける…一週間しか滞在できずにまた船で海に浮かぶ生活へ。そこから屋島へ向かったのでしょうか?

都しか知らない平氏の公達には都落ち以後はずっと
辛い生活だった事でしょう。
都落ちした平家一門への喪失感と絶望感に苛まれた清経の入水の地はここの沖合なのですね。『能・清経』

 
 
 
九州から屋島へ (揚羽蝶)
2016-12-12 22:28:51
 柳の御所もすぐに追われる、いいところなしの平家ですが、まだまだ四国、山陽には平家を慕うものも大勢おられます。
幸い、源氏も例のごとく義仲と頼朝の仲も悪い。
捲土重来、反撃を期し屋島に向かいます。
 
 
 
Yukarikoさま (sakura)
2016-12-14 07:48:29
一行は柳ヶ浦から瀬戸内海に入り、屋島に上陸します。
平家物語には多くの諸本があり、九州での一門の足取りは
それぞれ異なることは以前、述べさせていただきました。
山鹿城から豊前国柳ヶ浦へ至るルートは、どれも一致しますが、
柳ヶ浦には、門司区大里と宇佐市のふたつあり、
史実としては門司の柳ヶ浦が妥当であろうとも書きました。
ところが「源平盛衰記」の記述によると、宇佐市とも考えられます。

清経入水の話は、平家物語の太宰府落ちを題材に「謡曲清経」にも取り上げられ、
この矛盾をうまく脚色しまとめてあります。

清経の墓もふたつあります。門司駅から宇佐方面に普通電車で
30分ほどのところにある福岡県京都郡苅田町、
もうひとつは大分県宇佐市です。

 
 
 
揚羽蝶さま (sakura)
2016-12-14 07:56:14
そうですね。
このあと、海上に漂う平家に長門国から援助の手が差しのべられますし、
落ち延びた四国では、阿波の田口重能の計らいで内裏を構え、
再び勢力を盛り返します。

都落ちの時、宗盛に九州の事情に明るい平貞能が九州は
一枚岩ではないと進言しましたが、その通りでしたね。
 
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