平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平治の乱に敗れた頼朝は捕えられましたが、池禅尼のとりなしで死罪を免れ
伊豆に配流となり、京の粟田口を出て東国に向かいました。
この時代の流罪は、遠流・中流・近流の三段階あり、伊豆は流罪の中で
もっとも刑の重い遠流ということになります。
この日、頼朝の同母弟希義(まれよし)も捕えられて土佐国に流されていますが、
土佐も伊豆同様に遠流地の一つとされてきた国です。
永暦元年(1160)3月11日、伊豆まで送る役人・検非違使三善友忠に付き添われ、
頼朝は都から粟田口を出て近江・伊勢へと陸路をとり、
伊勢の阿濃津(あのつ)より海路で伊豆へと向かいます。

頼朝の乳母・比企の尼とその夫の掃部充(かもんじょう)、
亡母の弟藤原祐範が付けてくれた家人のみが頼朝の供でした。
あまりの寂しさに平氏の家人・高庭介資経(たかばのすけすけつね)が
郎党藤七資家に命じて供をさせます。
比企の尼とその夫は所領武蔵国比企郡に帰り、以後頼朝挙兵までの
二十年間、毎月食料を送るなど頼朝の生活を支えます。
東国伊豆は源氏の拠点であり代々源氏に仕えてきた武士が多くいる地域でしたが、
頼朝が当時全盛の平家一門を滅ぼすとは誰も思っていませんでした。

京都市立白川小学校前に粟田口の碑と駒札が建っています。





粟田口は京の東の出入口、粟田郷を抜けるので粟田口とよばれ、
三条口、三条橋口、大津口ともいう。『京の古道を歩く』には、
「東海道の道筋として現在の三条通より一筋南、白川小学校(旧粟田小学校)横から
粟田神社、良恩寺、佛光寺の前を通り都ホテルで行き止まりになる細道がある。
どうもその風情から考えて、これが古の東海道の跡だと思われる。」と書かれています。
ここから日ノ岡峠・逢坂山を越えて近江へと通じる道は東海道、東山道、北陸道に
通じる道筋として平安時代以降重要視されてきました。

『平家物語・巻九・河原合戦の事』には、木曽義仲の都落ちの様子が
「六條河原と
三條河原の間にて、敵襲ひかゝれば、取つて返し々、木曽、僅かなる小勢にて、
雲霞(うんか)の如くなる敵の大勢を五六度まで追返し、賀茂河さつとうち渡り、
粟田口・松坂(日ノ岡峠西)にもかゝりけり。去年信濃を出しには、
五万余騎と聞きしが、今日四宮河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。」とあり
『義経記』には、「鞍馬山を出た遮那王が奥州下向の際、粟田口の十禅寺の前で
金売り吉次と待ち合わせ松坂や四宮河原を過ぎ逢坂関も越え、大津の浜をよぎり
瀬田の唐橋をうち渡り近江国の鏡の宿についた。」と書かれ、
いずれも近江への途次として粟田口を通ったことが記されています。

『平治物語』によると、美濃国青墓で捕えられたのち宗清に預けられた頼朝は、
池禅尼から「日々のお世話するように」と小侍一人付けてもらった。
「去年三月に母御前に先立たれ、正月三日には父頭殿が討たれ、
兄の悪源太や大夫進も亡くなった。今日は父の35日にあたる。
このような身でなければどのような仏事でも行うことができますが、
捕われの身では何もできません。せめて卒塔婆の一本でも刻み念仏を
書いて菩提を弔いたいので小刀と檜の木を探してきてくれ。」と小侍に頼んだ。
これを小侍から聞いた宗清は小さい卒塔婆を百本作って念仏を書き、
宗清の知り合いの僧を招いた。佐殿は着ておられた小袖を脱いで僧の前に差し出し
「頼朝が世に時めいているなら、どのようなお布施も用意させていただきますが、
このような身の上ですので力が及びません。卒塔婆の供養を述べていただけませんか。」
とおっしゃると僧はこの言葉にしみじみと感じ入り、卒塔婆が立派なことや佐殿の
供養の心が深いことを仏前に申し述べ「成等正覚、頓証菩提、極楽往生」と唱えて
鐘を鳴らすと佐殿、宗清以下の者ども皆涙を流した。

「お命助かりたいと思われませんか」と宗清が佐殿に申すと「保元・平治の合戦で
亡くなった兄弟や父の後世を弔いたいので命は惜しうございます。」とおっしゃる。
「池禅尼と申される方は頼盛の母、清盛にとって継母にあたります。この方はたいそう
憐れみ深い方ですが、先年、山法師の呪詛にて右馬助家盛殿を亡くされました。
その家盛殿のお姿に佐殿はよく似てらっしゃいます。池禅尼殿にこのことを
申し上げたならお命を助けてくださるかもしれません。宗清が頼んでみましょう。」と
早速池禅尼の所に参上して「何者が申したのか分かりませんが、頼朝は池禅尼殿が
情け深い方とお聞きなさって尼殿におすがり申し上げて命だけでも助けていただき、
父の後世を弔いたいと申しています。この頼朝の姿は亡き右馬助殿に瓜二つです。」と
申すと池禅尼は「私が情け深いと誰が頼朝に申したのでしょう。忠盛の代には多くの者を
助けることができましたが、清盛の代になってからは申してもかないません。
だが頼朝が右馬助の姿に似ているとは悲しいことよ。駄目かもしれませんが、清盛に
お願いしてみましょう。」と孫の伊予守重盛を呼んで「頼朝が父義朝の後世を弔いたいと
言っているそうです。聞く所によると頼朝は亡くなった家盛にそっくりといいます。
家盛は清盛の弟ですからそなたにとっては叔父にあたります。叔父の孝養と思って
頼朝を助けてやってください。」とおっしゃるので重盛は早速父清盛のもとに参上して
このことを申されると「こればかりは池殿がおっしゃることでも承知したとは言えまい。
源平の中が悪く、源氏にこれまでどれだけ平家の者が斬られたかわからないし、
清盛が大将軍となり保元・平治の乱で源氏の兵の多くを討ったのは本当のことだ。
中でも頼朝は義朝が可愛がり右兵衛権佐まで昇進させ、将来は大将となる人物として、
いい武具も与えたと聞いている。兄弟多いなか、しかも多くの兄弟が
亡くなっているのに、頼朝が今まで生きていたのが不思議である。
助けるなどということは思いもよらない。早く斬ってしまえ。」と取り合わない。

重盛からこのことをお聞きになり池禅尼は、頼朝が斬られたら生きている甲斐がないと
湯水も口にせず悲しんでお嘆きになる。このことを伝え聞いた重盛は再度清盛に
「池禅尼殿は頼朝が斬られたらご自分も餓死すると何も口になさっていません。
年もとっていらっしゃるのでこのままだとお命が危ないと聞いています。もし尼殿が
お亡くなりになったら清盛は継母・継子の仲だからこのようなことをするのだと
人々が噂をすると父上にも差し支えがあるでしょう。頼朝一人助けたところで
何ほどのことがございましょう。平家の運が尽きたときには、諸国に多勢いる
源氏が政権をにぎるのは当然のことです。」と道理を尽して申されるので
清盛もなるほどと思ったのか頼朝を伊豆国へ流罪ということにした。

宗清は池禅尼のもとに、暇ごいをさせるために頼朝を連れて参上した。
池殿は頼朝を近くに呼び寄せてつくづく御覧になって「本当に家盛の姿かたちに
少しも違わない。そなたを遥々伊豆国まで行かせるのは心が痛む。都近くに置いて
心慰めたいものだがそれも叶わぬこと。そなたを家盛と思い春秋の衣装を年に
二度送りましょう。そなたも尼を母と思い私が亡くなったら後世を弔ってください。
伊豆国は鹿が多いところで土地の人々が集まっては狩をすると聞いています。
土地の者などとつまらぬ狩などして『流人なのに勝手な振る舞いをして。』と言われ
訴えられでもしたら又つらい目を見ます。くれぐれも注意しなさい。」と仰ると、
佐殿は「どうしてそのような振る舞いをいたしましょうか。髷を切って父義朝の後世を
弔いたいと思っております。」と申されると「よくおっしゃった。名残りが惜しくなる。
早く、早く帰りなさい。」と涙をお流しになる。三月十五日頼朝は役人とともに
都を出立し粟田口に馬を止めて名残りを惜しまれる。
『アクセス』
「粟田口の石碑」白川(旧粟田)小学校京都市東山区三条坊町52-4
 市営地下鉄東西線「東山駅」下車東へ徒歩約5分。
『参考資料』
永原慶二「源頼朝」岩波新書 「源頼朝七つの謎」新人物往来社 
奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 日本歴史地名大系(27)「京都市の地名」平凡社 
増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 高木卓訳「義経記」河出文庫

 
 
 
 





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