平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
CALENDAR
2010年1月
日
月
火
水
木
金
土
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
前月
翌月
ENTRY ARCHIVE
2021年07月
2021年06月
2021年05月
2021年04月
2021年03月
2021年02月
2021年01月
2020年12月
2020年11月
2020年10月
2020年09月
2020年08月
2020年07月
2020年06月
2020年05月
2020年04月
2020年03月
2020年02月
2020年01月
2019年12月
2019年11月
2019年10月
2019年09月
2019年08月
2019年07月
2019年06月
2019年05月
2019年04月
2019年03月
2019年02月
2019年01月
2018年12月
2018年11月
2018年10月
2018年09月
2018年08月
2018年07月
2018年06月
2018年05月
2018年04月
2018年03月
2018年02月
2017年12月
2017年11月
2017年10月
2017年09月
2017年08月
2017年07月
2017年06月
2017年05月
2017年04月
2017年03月
2017年02月
2017年01月
2016年12月
2016年11月
2016年10月
2016年09月
2016年08月
2016年07月
2016年06月
2016年05月
2016年04月
2016年03月
2016年02月
2016年01月
2015年12月
2015年11月
2015年10月
2015年09月
2015年08月
2015年07月
2015年06月
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
RECENT ENTRY
流人時代からの頼朝の側近安達盛長館跡(甘縄神明宮)
源範頼館跡(息障院)
朝日神明社(逆櫓社)
屋島出撃の際、義経が風雨の鎮護を祈願した朝日神明社跡(坂口王子伝承地)
判官松伝承地
源義経が姓を与えた鮒子多(ふじた)家の墓
お断り
判官松之跡・大和田万葉歌碑(住吉神社)
都落ちの義経を見送り咎められた渡辺番(渡辺党)
伝静なごりの橋の碑 辰巳八幡神社
RECENT COMMENT
三河の者/
源頼朝の乳父、山内俊通の塚(都ホテル裏山)
シズカ/
京都市の三嶋神社 建春門院滋子
埼玉県の高校教員/
木曽義仲最期の地(粟津の松原・粟津の番所跡)
加藤 まさ子/
八十島祭(熊河尻)
いのこぞう/
猪俣小平六範綱の墓(高台院)
あき/
平氏六波羅邸跡(平家一門の遺構出土)
AY/
壇ノ浦合戦 潮流は勝敗に左右したのか
AY/
壇ノ浦合戦 潮流は勝敗に左右したのか
AY/
壇ノ浦合戦 潮流は勝敗に左右したのか
AY/
壇ノ浦合戦 潮流は勝敗に左右したのか
RECENT TRACKBACK
CATEGORY
義経逃走ルート
(2)
壇ノ浦古戦場・山口県
(25)
源義経の都落ち
(7)
東国
(23)
鎌倉
(25)
神奈川県
(18)
長野県
(3)
北陸
(6)
静岡県
(19)
愛知県
(5)
岐阜県
(3)
大阪府
(34)
三重県
(3)
滋賀県
(20)
京都市
(112)
京都府
(20)
奈良県
(9)
兵庫県
(60)
高野山
(16)
熊野三山・和歌山
(23)
岡山・広島県
(13)
四国
(14)
屋島古戦場
(16)
九州
(27)
義経奥州下り
(11)
平治の乱義朝・常盤・...
(29)
保元の乱・崇徳天皇ゆかりの地
(24)
Weblog
(49)
BOOKMARK
goo
最初はgoo
MY PROFILE
goo ID
mitsue172
性別
都道府県
自己紹介
SEARCH
このブログ内で
ウェブ全て
URLをメールで送信する
(for PC & MOBILE)
野間はりつけの松・長田忠致屋敷跡
平治の乱義朝・常盤・...
/
2010-01-05
長田忠致(おさだただむね)は、源氏の家人であり
源義朝の乳母子鎌田正清(政家)の舅でした。
平治元年(1159)の年末、
平治の乱に敗れた義朝は、
東国へ落ちる途中、尾張国野間内海荘(
(現、愛知県知多郡美浜町)
の領主
長田忠致を頼りましたが、平治二年
正月三日、湯殿でだまし討ちにされ、
正清も討たれ正清の妻は夫の刀を胸にあてて自害しました。
慈円の『愚管抄』には、
「義朝は馬にも乗らずかちはだしで
長田忠致の家にたどり着いた。忠致が入浴をさせた所、
鎌田政家(正清)は忠致の謀略に気づき、
義朝とともに自害して果てた。」と記されていますが、
水原一氏は「純粋の歴史書としてこれを信用したいけれども、
慈円は頼朝びいきでしたから、頼朝の父義朝にせめていさぎよい最期を
遂げさせたのかもしれません。」と述べておられます。(『保元・平治物語の世界』)
平治二年正月七日、恩賞にあずかろうと長田父子は
源義朝・鎌田正清の首を持って、
六波羅の清盛の許に参上すると、
義朝を討った功で、忠致は壱岐の守に、
子息の景致( かげむね)は左衛門尉(じょう)に任命されました。
忠致は「義朝・正清は昔の将門・純友にも劣らない朝敵です。
彼らを国の乱にもせずに何事もなく討ちとりました我らに義朝の所領全部か、
せめて尾張国だけでもいただいてこそ恩賞といえましょうに。
壱岐島などいただいても、これから先何の励みになりましょう。」と
不服をいうので清盛は「相伝の主と娘婿を討つとは汝らは罪深い奴らだぞ。
お前たちほど汚らわしい奴があるだろうか。義朝は朝敵であるから、
恩賞として壱岐国をとらせたのに。
それを不足に思って辞退するというなら勝手にしろ。」と一蹴しました。
しかし忠致が再度不服を申し立てたので
壱岐国も左衛門尉の官職も取り上げられてしまいました。
「今後のために奴らを六条河原へ引き出して20日に分けて両手の指を
1本ずつ切り落とし、頸は鋸で斬ってしまいましょう。」と清盛の子
重盛にまで威され長田父子は早々に尾張へと逃げ帰りました。
世の人々はこのことを聞いて「長田は平家にさえ冷たくあしらわれ、
この先源氏の世にでもなった時には、生きたまま地中に埋められて
頸を斬られるか磔にされるか。その最期を見たいものだ。」と噂しあいました。
長田忠致父子の最期には諸説あります。
①『保暦間記(ほうりゃくかんき)』
によると、「建久元年十月頼朝既に上洛す。
爰に長田庄司平忠致 此間は鎌倉に置かれたりけるを、
美濃国青墓の宿にて斬られたり。云々」とあり、
建久元年十月頼朝上洛の際、鎌倉に捕えられていた
長田忠致が青墓宿で斬られたと記されています。
②『古活字本平治物語』によると、「治承四年(
1180
)頼朝が伊豆で挙兵すると、
長田父子は十騎ほどで鎌倉殿の許に参上し、自らの罪科を訴え降伏すると、
頼朝は軍功があれば罪を許し恩賞を与えようと約束します。
喜んだ父子は平家追討に活躍しますが、
平氏滅亡後、頼朝は約束通り論功行賞をとらせようと
義朝の墓前で磔にしてなぶり殺しにした。」と伝えています。
③『吾妻鏡』治承四年(1180)十月十四日条によると、
「富士川合戦の直前、頼朝とは別に、独自に反平氏の行動を起こしていた
武田信義、安田義定らが駿河に侵入したのに対し、
長田父子は駿河目代橘遠茂らとともにそれを防御していました。
しかし敗れ長田父子の首はとられ、遠茂は生け捕られた」とあります。
長田屋敷跡の南方、密蔵院の裏山には美濃・尾張(身の終り)を
さずけるとして長田父子を磔にしたという松があります。
当時の松は枯れていますが、松の若木が植えられ、
背後に周ると長田が辞世に詠んだという句を刻んだ石碑が建っています。
長田屋敷跡から密蔵院の裏山を望む
長田最後の辞世
ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞたまはり
磔の松から長田屋敷跡を見下ろす
『保元・平治の乱を読みなおす』には、
「平治物語によると、忠致は恩賞として壱岐守に補任されたというが、確実な史料に
任官の記録はみえない。そればかりか、彼のその後も確認することができない。
頼朝に降伏して平氏追討に活躍したものの、最期は磔の極刑に処せられたとするが、
これはいくら何でも荒唐無稽である。」と記されています。
長田(平)忠致(生没年不詳)は、桓武平氏良茂流、致頼の末孫にあたります。
尾張国野間内海庄及び駿河国長田庄を所領としていたので長田庄司ともいいます。
将門の乱、平忠常の乱で東国の地盤を失った平氏は、
伊勢に勢力を張り伊勢平氏と呼ばれ致頼もその一族でした。
のちに忠盛・清盛を出して伊勢平氏の主流になる
維衡(これひら)と致頼(むねより)・致経が10C末~11C始に
伊勢の所領をめぐって戦い、敗北した致頼は隠岐に流されました。
忠致の代か彼の父祖の代に伊勢の拠点を失った一族が、
知多半島の野間内海庄に、新たな地盤を求めて移り住んできたと思われます。
河内源氏との主従関係をいつ結んだのかはわかりませんが、
京と東国を往復する義朝に近づいた忠致が義朝の乳母子
鎌田正清とも姻戚関係を結んだと考えられます。
平治の乱で源氏が平氏に敗北すると、忠致は平家に寝返り
義朝を殺害しましたが、平家からは思うような恩賞はもらえず
功をあせってかえって身を落としていったようです。
源義朝最期の地野間(湯殿跡・法山寺)
源義朝の墓(野間大坊大御堂寺)
『アクセス』
「長田はりつけの松」名鉄電車知多新線 終点一つ手前「野間」駅下車徒歩12、3分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 「平安時代史事典」角川書店
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」
NHK
ブックス
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会
「群書類従」『保暦間記』続群書類従完成会 「半田市誌 本文篇」(半田市
1971
)
「系図文献資料総覧」緑蔭書房 「日本名所図会」(6)角川書店
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館
コメント (
2
)
|
Trackback ( )
goo ブログ
編集画面にログイン
ブログの作成・編集
gooおすすめリンク
おすすめブログ
@goo_blog
【お知らせ】
ブログを読むだけ。毎月の訪問日数に応じてポイント進呈
gooブロガーの今日のひとこと
訪問者数に応じてdポイント最大1,000pt当たる!
goo blogは20周年を迎えました!