平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




青墓の宿(岐阜県大垣市)は東国へ往来する旅人の宿場で、
当時遊女で賑わった町です。

旅人の宿泊の世話をしたのが、長者とよばれる土地の豪族でした。
後白河院によって編纂された『梁塵秘抄』には、青墓宿の
阿古丸・目井・乙前(おとまえ)延寿(えんじゅ)などが登場し、
なかでも乙前は後白河院の今様の師でもありました。

西行の祖父にあたる今様の名手監物源清経は、尾張の国に
下向した折、宿泊した青墓宿で当時12、3才の乙前に出会い
その声の美しさに将来大成するだろうと京へ連れ帰ります。
西行の母方の祖父である源清経は今様の達人であっただけでなく、
蹴鞠も得意とし文武両道に通じていました。
父を早くに亡くして母方の家で育てられた西行は
清経の才能を受け継いだといわれています。

延寿は青墓の長者大炊(おおい)の娘で、義朝(頼朝の父)との間に
夜叉御前という娘を儲け、延寿の伯母は為義(義朝の父)の
晩年の愛人となって4人の子供を生んでいます。


昼飯(ひるい)バス停からJRのガードを潜ると
「史跡の里青墓町」の木標が
見えてきます。すこし行くと、
遮那王(義経)が鞍馬寺から金売り吉次とともに奥州へ下向の途中、

立ち寄ったというよしたけ庵(円興寺の一坊円願寺)があります。

よしたけ庵

遮那王は近江から杖にしてきたよしの杖を地面に突き挿し、
源氏が再び栄えるよう祈り
「♪挿し置くも形見となれや
後の世に源氏栄えばよし竹となれ」と詠み出発しました。

後にその願いが通じたのか、よしが芽をふき竹の葉が茂り
寺は「よしたけ庵」と呼ばれました。

円願寺は信長の兵火で焼失、江戸時代になって

中山道が整備されたのち、街道沿いのこの地に移転再建されましたが、
再び焼失し現在は廃寺になっています。

小篠竹の塚(照手姫の墓)

集落を外れると大谷川、この川に沿って遡れば右手に元円願寺跡。
ここは今から四百余年以前に東山道の宿場町だった青墓の
円興寺36坊のひとつ円願寺跡です。
山上の円興寺や朝長の墓に参詣できない人のために、
山上の朝長の墓と同じものをこの寺の一角に建てました。
向こうに見える山は伊吹山系、この山系の東端には
石灰の採掘で山肌を削りとられた金生山があります。
あたり一面収穫の時期を向かえ黄金色に輝く麦畑が広がっています。
この辺一帯平安時代末期には、
傀儡(くぐつ)といわれる
遊女で賑わった青墓宿が営まれていたはずですが、
宿場らしい
面影はどこにもありません。

それもそのはず、ここが宿場として栄えていたのは
鎌倉時代あたりまでのことで、以降は杭瀬(くいせ)川の
渡し場がある赤坂宿が代わって発展していきます。

今となっては大炊長者屋敷がどこにあったのかは定かではありませんが、
元円願寺から3、400m東方、JRの鉄道沿いの道の北側に
長者屋敷推定地として
好事家が建てたという石碑があるそうです。
元円願寺跡からさらに峠の方へ進むと、
大炊長者の菩提寺円興寺が見えてきます。




大炊一族、義朝の菩提を弔う円興寺

参道脇には自然石に手彫りで刻まれた歌碑が建っています。


♪遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ

   遊ぶ子どもの声聞けば わが身さえこそ揺るがるれ
(遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのであろうか、
それとも戯れをしようとして
生まれてきたのであろうか。
無心に遊ぶ子供たちの声を聞いていると
自分の体までが
自然と動きだすように思われる)
『梁塵秘抄・巻二』

 
母・待賢門院の影響を受け、今様に熱中していった後白河院は
「鳥羽院(後白河院の父)が亡くなると、
まもなく保元の乱が起こり、今様どこではなかったのだが
保元2年乙前の歌をなんとかして
聞きたいといやがる乙前を
むりやり引っ張りだし、人ばらいをして高松殿の居室で
互いに歌談義をし、その夜師弟の約束をした。

乙前に部屋を与えて留め、前から歌っていた歌で
節が違う歌は乙前の歌い方に統一して
習い直した。」
そののち、延寿とは「5月の花の頃、江口、神崎の遊女や傀儡女が

集まって供花会をしたことがあった。その時今様の話が出て
延寿が『恋せば』という
足柄を御所様にお習いしたいと
いっていると近臣の者から聞いたが
取り合わないでいたとこ
ろ『何としてでもお習い申し上げたい』というので乙前に尋ねると

『お教えなさいまし』というので夜ごとに二、三夜ほどで教えた。
その後、別れの挨拶に
来たときに今様を歌わせた時
『みごとであるぞ』と褒めると延寿はすぐさま今様で

返歌をかえしたので大変感激し褒美を与えた。」
(『梁塵秘抄口伝集 巻第十』)

円興寺本堂

昆虫採集の子供達で賑わう境内

この寺の北東、金生山の西側には麓から山頂にかけて
七堂伽藍が建ち並ぶ元円興寺がありましたが、織田信長に焼かれ
江戸時代に現在地に移転再建されています。
今年(2010年)12月28日は朝長の850年忌、
この地で十六歳で亡くなった朝長に因んで、
命日には16回梵鐘を突くそうです。
境内から山道を辿ると(裏参道)東方の山中にある
元円興寺、朝長の墓所へと通じるのですが、
「クマ出没の注意書き」に急遽予定を変更して表参道から上りました。

青墓 (源朝長の墓・元円興寺)
平治の乱から30年後、建久元年源頼朝は上洛に際し
円興寺に五千石の寺領を寄進し、大炊長者や延寿に褒賞を与え、
父義朝をだまし討ちにした長田忠致(ただむね)を斬首しました。

『アクセス』
「円興寺」岐阜県大垣市青墓町880
JR
大垣駅 「赤坂総合センター行き」バス乗車25分位終点下車
自転車で25分
赤坂総合センター隣の消防署で無料レンタサイクルをお借りしました。
『参考資料』
日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館 
桃山晴衣「梁塵秘抄 うたの旅」青土社 現代語訳「義経記」河出文庫  
日本地名大系「岐阜県の地名」平凡社 白洲正子「西行」新潮文庫
 「平安時代史事典」角川書店 「群書類従」『保暦間記』続群書類従完成会
 現代語訳「吾妻鏡」(5)吉川弘文館
 
 
 
 

 

 
 
 





コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
五千石の寺領寄進で立派な伽藍が出来た事でしょう (yukariko)
2010-01-23 18:34:12
今様の名手の乙前は遊女だったのでしょう?
青墓の長者の娘延寿は義朝の妻の一人で夜叉御前を設けた人ですが、大炊長者の娘で遊女とは違ったでしょうが地方の有力者の娘に過ぎない訳ですよね?

10~12才の夜叉御前がいたからには10数年前から義朝の妻だった事になりますが、その頃は京の都にもいたのでしょうか?
交通の手段もあまりなかった時代と思うのに頼朝の母なども結構京都と一族の土地を往復されていますね。

この時代の上皇や法皇は天皇の位を降りられたら
身分はすごく高くても案外気楽に地下の身分の低い者とも逢われたのでしょうか?
後白河院は何事につけ型破りな方だったようですが…。

思いもかけず「梁塵秘抄」や今様、西行の祖父の名前などが出てきたので、保元・平治の時代でも血なまぐさい戦乱の明け暮れとは違った世界があった事が分かって読んでいてホッとしました。

義経の故事とその和歌はいかにも説話めいていると思いますが…また逆に各地に義経一行の足跡がちゃんと辿れる説話があって、楽しいです。
それだけ判官義経が後の人々から愛されたという事でしょうね。


 
 
 
お返事遅くなって申し訳ありませんでした (sakura)
2010-01-25 14:44:39
乙前は遊女です。西行の祖父は乙前とともに彼女の養母にあたる
今様の名手目井も都につれて帰り、一緒に暮らし最期まで面倒をみています。
延寿の逸話は乙前と師弟の約束をした後、後白河が延寿や青墓の歌い手を集め、
歌談義をした時のことです。年代は保元の乱後、平治の乱の前になります。
分かりにくかったですね、記事にも少しつけ加えておきます。
後白河は十歳あまりの時から今に至るまで今様の魅力に取り付かれ
稽古を怠けることがなかった。と口伝集に書かれていて
即位前から即位後、上皇となってからも今様の稽古は続きます。
口伝集は後白河の自叙伝のような内容になっていて、
ある一面だけですが後白河の生の姿を見るようです。
母待賢門院が鳥羽の後宮から疎外され今様や雑芸に
楽しみを見つける生活を送るようになります。
この頃十代だった雅仁(後白河)は、三条高倉にある
母の御所に出入りして遊び暮らしていましたが、
いつしか母に影響されて今様を好むようになり、母の
今様の師神崎の遊女かねを母と取り合いして歌っていたといいます。
その母が亡くなり沈みがちな雅仁を兄崇徳院が御所に招き一緒に暮らしますが、
院の近くで遠慮もあったが、毎晩今様を歌い遊び暮らした。
とこちらも口伝集に載っています。父の鳥羽は、このような雅仁を
「王位の器にあらず」と言ったとありますが、思わぬことから即位の道が開かれます。
即位後、上皇時代を通じて後白河の宮廷は上達部・殿上人は言うに及ばず、
京の男女・端者・雑仕・各地の遊女・各国の傀儡女等との交流の場であり、
あちこちの情報が集まる場でもあったようです。
後白河は熊野詣や四天王寺近江の日吉社などさかんに参詣していますが、
熊野・高野詣や各社寺への参詣が、貴族・皇族だけでなく
一般庶民にも広まり街道は人々の往来が頻繁になり宿などが発達し、
地方の庶民の歌が都へと運ばれて流行します。
これらを集めて編纂したのが梁塵秘抄で、そこには神仏にかかわるものや
西日本だけでなく、四国、九州、東日本などの名所が数多く詠み込まれています。
後白河も清経同様、85歳で亡くなった今様の師乙前の世話をしています。
没後には青墓に荘園を寄進し、朝夕一年間彼女のために
お経を唱え、追善供養も行っています。

遮那王が金売り吉次の手引きで奥州に向ったとする
「義経記」は、物語であつて史料として信憑性は高いものでは
ないのかもしれませんが、義経説話の多くがこの物語からきていて、
私達の知っている義経はこの中の義経像なのかもしれませんね。
 
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