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五千石の寺領寄進で立派な伽藍が出来た事でしょう (yukariko)
2010-01-23 18:34:12
今様の名手の乙前は遊女だったのでしょう?
青墓の長者の娘延寿は義朝の妻の一人で夜叉御前を設けた人ですが、大炊長者の娘で遊女とは違ったでしょうが地方の有力者の娘に過ぎない訳ですよね?

10~12才の夜叉御前がいたからには10数年前から義朝の妻だった事になりますが、その頃は京の都にもいたのでしょうか?
交通の手段もあまりなかった時代と思うのに頼朝の母なども結構京都と一族の土地を往復されていますね。

この時代の上皇や法皇は天皇の位を降りられたら
身分はすごく高くても案外気楽に地下の身分の低い者とも逢われたのでしょうか?
後白河院は何事につけ型破りな方だったようですが…。

思いもかけず「梁塵秘抄」や今様、西行の祖父の名前などが出てきたので、保元・平治の時代でも血なまぐさい戦乱の明け暮れとは違った世界があった事が分かって読んでいてホッとしました。

義経の故事とその和歌はいかにも説話めいていると思いますが…また逆に各地に義経一行の足跡がちゃんと辿れる説話があって、楽しいです。
それだけ判官義経が後の人々から愛されたという事でしょうね。


 
 
 
お返事遅くなって申し訳ありませんでした (sakura)
2010-01-25 14:44:39
乙前は遊女です。西行の祖父は乙前とともに彼女の養母にあたる
今様の名手目井も都につれて帰り、一緒に暮らし最期まで面倒をみています。
延寿の逸話は乙前と師弟の約束をした後、後白河が延寿や青墓の歌い手を集め、
歌談義をした時のことです。年代は保元の乱後、平治の乱の前になります。
分かりにくかったですね、記事にも少しつけ加えておきます。
後白河は十歳あまりの時から今に至るまで今様の魅力に取り付かれ
稽古を怠けることがなかった。と口伝集に書かれていて
即位前から即位後、上皇となってからも今様の稽古は続きます。
口伝集は後白河の自叙伝のような内容になっていて、
ある一面だけですが後白河の生の姿を見るようです。
母待賢門院が鳥羽の後宮から疎外され今様や雑芸に
楽しみを見つける生活を送るようになります。
この頃十代だった雅仁(後白河)は、三条高倉にある
母の御所に出入りして遊び暮らしていましたが、
いつしか母に影響されて今様を好むようになり、母の
今様の師神崎の遊女かねを母と取り合いして歌っていたといいます。
その母が亡くなり沈みがちな雅仁を兄崇徳院が御所に招き一緒に暮らしますが、
院の近くで遠慮もあったが、毎晩今様を歌い遊び暮らした。
とこちらも口伝集に載っています。父の鳥羽は、このような雅仁を
「王位の器にあらず」と言ったとありますが、思わぬことから即位の道が開かれます。
即位後、上皇時代を通じて後白河の宮廷は上達部・殿上人は言うに及ばず、
京の男女・端者・雑仕・各地の遊女・各国の傀儡女等との交流の場であり、
あちこちの情報が集まる場でもあったようです。
後白河は熊野詣や四天王寺近江の日吉社などさかんに参詣していますが、
熊野・高野詣や各社寺への参詣が、貴族・皇族だけでなく
一般庶民にも広まり街道は人々の往来が頻繁になり宿などが発達し、
地方の庶民の歌が都へと運ばれて流行します。
これらを集めて編纂したのが梁塵秘抄で、そこには神仏にかかわるものや
西日本だけでなく、四国、九州、東日本などの名所が数多く詠み込まれています。
後白河も清経同様、85歳で亡くなった今様の師乙前の世話をしています。
没後には青墓に荘園を寄進し、朝夕一年間彼女のために
お経を唱え、追善供養も行っています。

遮那王が金売り吉次の手引きで奥州に向ったとする
「義経記」は、物語であつて史料として信憑性は高いものでは
ないのかもしれませんが、義経説話の多くがこの物語からきていて、
私達の知っている義経はこの中の義経像なのかもしれませんね。
 
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