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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




長田忠致(おさだただむね)は、源氏の家人であり
源義朝の乳母子鎌田正清(政家)の舅でした。

平治元年(1159)の年末、平治の乱に敗れた義朝は、
東国へ落ちる途中、尾張国野間内海荘((現、愛知県知多郡美浜町)の領主
長田忠致を頼りましたが、平治二年
正月三日、湯殿でだまし討ちにされ、
正清も討たれ正清の妻は夫の刀を胸にあてて自害しました。

慈円の『愚管抄』には、「義朝は馬にも乗らずかちはだしで
長田忠致の家にたどり着いた。忠致が入浴をさせた所、
鎌田政家(正清)は忠致の謀略に気づき、
義朝とともに自害して果てた。」と記されていますが、
水原一氏は「純粋の歴史書としてこれを信用したいけれども、
慈円は頼朝びいきでしたから、頼朝の父義朝にせめていさぎよい最期を
遂げさせたのかもしれません。」と述べておられます。(『保元・平治物語の世界』)

平治二年正月七日、恩賞にあずかろうと長田父子は
源義朝・鎌田正清の首を持って、
六波羅の清盛の許に参上すると、
義朝を討った功で、忠致は壱岐の守に、
子息の景致( かげむね)は左衛門尉(じょう)に任命されました。

忠致は「義朝・正清は昔の将門・純友にも劣らない朝敵です。
彼らを国の乱にもせずに何事もなく討ちとりました我らに義朝の所領全部か、
せめて尾張国だけでもいただいてこそ恩賞といえましょうに。
壱岐島などいただいても、これから先何の励みになりましょう。」と

不服をいうので清盛は「相伝の主と娘婿を討つとは汝らは罪深い奴らだぞ。
お前たちほど汚らわしい奴があるだろうか。義朝は朝敵であるから、
恩賞として壱岐国をとらせたのに。
それを不足に思って辞退するというなら勝手にしろ。」と一蹴しました。
しかし忠致が再度不服を申し立てたので
壱岐国も左衛門尉の官職も取り上げられてしまいました。

「今後のために奴らを六条河原へ引き出して20日に分けて両手の指を
1本ずつ切り落とし、頸は鋸で斬ってしまいましょう。」と清盛の子
重盛にまで威され長田父子は早々に尾張へと逃げ帰りました。

世の人々はこのことを聞いて「長田は平家にさえ冷たくあしらわれ、
この先源氏の世にでもなった時には、生きたまま地中に埋められて
頸を斬られるか磔にされるか。その最期を見たいものだ。」と噂しあいました。


長田忠致父子の最期には諸説あります。
①『保暦間記(ほうりゃくかんき)』によると、「建久元年十月頼朝既に上洛す。
爰に長田庄司平忠致 此間は鎌倉に置かれたりけるを、
美濃国青墓の宿にて斬られたり。云々」とあり、
建久元年十月頼朝上洛の際、鎌倉に捕えられていた
長田忠致が青墓宿で斬られたと記されています。

②『古活字本平治物語』によると、「治承四年(1180)頼朝が伊豆で挙兵すると、
長田父子は十騎ほどで鎌倉殿の許に参上し、自らの罪科を訴え降伏すると、
頼朝は軍功があれば罪を許し恩賞を与えようと約束します。
喜んだ父子は平家追討に活躍しますが、
平氏滅亡後、頼朝は約束通り論功行賞をとらせようと
義朝の墓前で磔にしてなぶり殺しにした。」と伝えています。

③『吾妻鏡』治承四年(1180)十月十四日条によると、
「富士川合戦の直前、頼朝とは別に、独自に反平氏の行動を起こしていた
武田信義、安田義定らが駿河に侵入したのに対し、
長田父子は駿河目代橘遠茂らとともにそれを防御していました。
しかし敗れ長田父子の首はとられ、遠茂は生け捕られた」とあります。

長田屋敷跡の南方、密蔵院の裏山には美濃・尾張(身の終り)を
さずけるとして長田父子を磔にしたという松があります。
当時の松は枯れていますが、松の若木が植えられ、
背後に周ると長田が辞世に詠んだという句を刻んだ石碑が建っています。


長田屋敷跡から密蔵院の裏山を望む





長田最後の辞世
ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞたまはり


磔の松から長田屋敷跡を見下ろす

『保元・平治の乱を読みなおす』には、
「平治物語によると、忠致は恩賞として壱岐守に補任されたというが、確実な史料に
任官の記録はみえない。そればかりか、彼のその後も確認することができない。
頼朝に降伏して平氏追討に活躍したものの、最期は磔の極刑に処せられたとするが、
これはいくら何でも荒唐無稽である。」と記されています。


長田(平)忠致(生没年不詳)は、桓武平氏良茂流、致頼の末孫にあたります。
尾張国野間内海庄及び駿河国長田庄を所領としていたので長田庄司ともいいます。
将門の乱、平忠常の乱で東国の地盤を失った平氏は、
伊勢に勢力を張り伊勢平氏と呼ばれ致頼もその一族でした。

のちに忠盛・清盛を出して伊勢平氏の主流になる
維衡(これひら)と致頼(むねより)・致経が10C末~11C始に
伊勢の所領をめぐって戦い、敗北した致頼は隠岐に流されました。
忠致の代か彼の父祖の代に伊勢の拠点を失った一族が、
知多半島の野間内海庄に、新たな地盤を求めて移り住んできたと思われます。

河内源氏との主従関係をいつ結んだのかはわかりませんが、

京と東国を往復する義朝に近づいた忠致が義朝の乳母子
鎌田正清とも姻戚関係を結んだと考えられます。
平治の乱で源氏が平氏に敗北すると、忠致は平家に寝返り
義朝を殺害しましたが、平家からは思うような恩賞はもらえず
功をあせってかえって身を落としていったようです。

源義朝最期の地野間(湯殿跡・法山寺)  
源義朝の墓(野間大坊大御堂寺)   
 『アクセス』
「長田はりつけの松」名鉄電車知多新線 終点一つ手前「野間」駅下車徒歩12、3分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 「平安時代史事典」角川書店
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会
「群書類従」『保暦間記』続群書類従完成会 「半田市誌 本文篇」(半田市1971
「系図文献資料総覧」緑蔭書房 「日本名所図会」(6)角川書店
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館

 

 

 

 
 
 
 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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長田父子哀れ! (yukariko)
2010-01-05 19:59:02
恩賞と一族の栄達を期待して主君と娘婿をだまし討ちにしたのに評価はされない、それどころか重盛に脅され(きっと重盛だけではなく貴族、平氏の武将、市中の庶民にまでも)主をだまし討ちした裏切り者と爪はじきされ京の都にいたたまれず逃げ帰った親子、娘まで犠牲にした挙句がこの結果とあって忠致はどんな気もちだったでしょうか?

その上思いもよらず世の中は逆転し、源氏の勢いが盛んになってくると頼朝の意向を想像しておびえて暮らす日々に早々と鎌倉に降伏…それしか生き残る道はないと思ったのでしょう。

頼朝は自ら降伏してきたから仕方なく、軍功があれば罪を許し恩賞を与えようと約束し父子は平家追討に活躍するが…

このあたりは確かでないと書かれているそうですが、この対応が本当なら政治家頼朝の面目躍如ですし、役に立つ間は生かして使う…この辺が頼朝らしいし、彼を嫌いになるところです。
なぶり殺しや磔にする悔しさがあっても利用価値がある間は頭をなでておく…そりゃ長田父子とその郎党は死に物狂いで戦ったでしょうが、周りの源氏勢の目はさぞ冷たかった事でしょう。

磔の松が枯れても二代目を植えるほどにこの話は広く言い伝えられたのでしょう。
辞世の句も本当に忠致が読んだのではなく、琵琶法師などが創作したような気がします。
物語を聞き伝えた人々はこれでこそ因果応報だと満足した事でしょう。
 
 
 
頼朝ならやりかねない! (sakura)
2010-01-06 13:32:59
古活字本平治物語に書かれている長田父子の顛末は
読者をハラハラさせますね。
大御堂寺には尾張藩主徳川義直が御用絵師狩野探幽に
描かせたという二幅の掛け軸があるそうです。
代々のご住職が語られる義朝の最期とその後の事を
二幅の掛け軸を見、絵解きを聞くだけでなく
大御堂周辺にある血の池・浴室・はりつけの松などを
見て周り聞き手は物語をよりリアルに
イメージしたのではないでしょうか。
もしかするとこれらの伝承地は絵解きが行われるように
なってから生まれたのかも知れません。
そうすると長田屋敷跡から浴室までが遠すぎると私が
思ったのも納得できるのですが。
(絵解きは希望者六人以上・一人五百円)

長田父子のその後は「保間暦記」や古活字本平治物語
九条家本平治物語からしかうかがうことができません。
これらの資料には頼朝が上洛の途次、野間、青墓に立ち寄り
長田父子を殺したことになっていますが、
頼朝の上洛を伝える「吾妻鏡」建久元年10月25日条
10月29日条に野間で義朝の供養を盛大に行ったことや
青墓で延寿に褒賞をとらせたことがみえますが、
長田父子については触れられていません。

「吾妻鏡」は他の史料によって事件があったことが
知られる部分がしばしば欠けています。
とくに頼朝の死の前三年間が欠けていて
頼朝の死に謎があるといわれる原因になっています。
「保間暦記」がどの程度歴史史料として
信憑性がある史料なのか私には分かりませんが、
頼朝が長田父子を見逃すとは考えにくいので
青墓で斬られたというのが史実なのかなとも思っています。


 
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