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長田父子哀れ! (yukariko)
2010-01-05 19:59:02
恩賞と一族の栄達を期待して主君と娘婿をだまし討ちにしたのに評価はされない、それどころか重盛に脅され(きっと重盛だけではなく貴族、平氏の武将、市中の庶民にまでも)主をだまし討ちした裏切り者と爪はじきされ京の都にいたたまれず逃げ帰った親子、娘まで犠牲にした挙句がこの結果とあって忠致はどんな気もちだったでしょうか?

その上思いもよらず世の中は逆転し、源氏の勢いが盛んになってくると頼朝の意向を想像しておびえて暮らす日々に早々と鎌倉に降伏…それしか生き残る道はないと思ったのでしょう。

頼朝は自ら降伏してきたから仕方なく、軍功があれば罪を許し恩賞を与えようと約束し父子は平家追討に活躍するが…

このあたりは確かでないと書かれているそうですが、この対応が本当なら政治家頼朝の面目躍如ですし、役に立つ間は生かして使う…この辺が頼朝らしいし、彼を嫌いになるところです。
なぶり殺しや磔にする悔しさがあっても利用価値がある間は頭をなでておく…そりゃ長田父子とその郎党は死に物狂いで戦ったでしょうが、周りの源氏勢の目はさぞ冷たかった事でしょう。

磔の松が枯れても二代目を植えるほどにこの話は広く言い伝えられたのでしょう。
辞世の句も本当に忠致が読んだのではなく、琵琶法師などが創作したような気がします。
物語を聞き伝えた人々はこれでこそ因果応報だと満足した事でしょう。
 
 
 
頼朝ならやりかねない! (sakura)
2010-01-06 13:32:59
古活字本平治物語に書かれている長田父子の顛末は
読者をハラハラさせますね。
大御堂寺には尾張藩主徳川義直が御用絵師狩野探幽に
描かせたという二幅の掛け軸があるそうです。
代々のご住職が語られる義朝の最期とその後の事を
二幅の掛け軸を見、絵解きを聞くだけでなく
大御堂周辺にある血の池・浴室・はりつけの松などを
見て周り聞き手は物語をよりリアルに
イメージしたのではないでしょうか。
もしかするとこれらの伝承地は絵解きが行われるように
なってから生まれたのかも知れません。
そうすると長田屋敷跡から浴室までが遠すぎると私が
思ったのも納得できるのですが。
(絵解きは希望者六人以上・一人五百円)

長田父子のその後は「保間暦記」や古活字本平治物語
九条家本平治物語からしかうかがうことができません。
これらの資料には頼朝が上洛の途次、野間、青墓に立ち寄り
長田父子を殺したことになっていますが、
頼朝の上洛を伝える「吾妻鏡」建久元年10月25日条
10月29日条に野間で義朝の供養を盛大に行ったことや
青墓で延寿に褒賞をとらせたことがみえますが、
長田父子については触れられていません。

「吾妻鏡」は他の史料によって事件があったことが
知られる部分がしばしば欠けています。
とくに頼朝の死の前三年間が欠けていて
頼朝の死に謎があるといわれる原因になっています。
「保間暦記」がどの程度歴史史料として
信憑性がある史料なのか私には分かりませんが、
頼朝が長田父子を見逃すとは考えにくいので
青墓で斬られたというのが史実なのかなとも思っています。


 
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