安元3年(1177)、延暦寺の末社である加賀の白山比咩(ひめ)神社の
末寺湧泉寺(ゆうせんじ)を加賀守藤原師高(もろたか)の弟で
目代の師経(もろつね)が焼き払うという事件が起こりました。
白山社は延暦寺の力を借りて、師高と目代の処分を求め日吉・白山両社の
神輿を担いで閑院内裏に押し寄せました。
後白河法皇が平重盛に内裏を固めさせたところ、重盛の郎党が
多くの衆徒を射殺し、神輿にも流れ矢が当たり、衆徒は担いできた
神輿を路上に捨てて、比叡山に一目散に逃げ帰りました。
(『平家物語(巻1)御輿振の事』)
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京都市役所に程近いマンションが点在する町家の一画に鎮座する
白山神社は、白山比咩神社祭神の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美(いざなみ)命・菊理比売(くくりひめ)命を祀る旧村社で、
社伝によれば衆徒が置いていった神輿を祀ったのが始まりという。
他の一基は下白山町の奥に、残りの一基もこの付近にありましたが、
のち祗園感神院(現・八坂神社)に移されました。
当社はもと日吉大社の末社とも、中世は祗園感神院に属していたともいわれ、
かって社地は北は押小路通り、南は御池通りに及んだとか。その後、
幾度も火災にあい社殿は焼失し、大切な古文書や神輿も焼けてしまい、
今は石の鳥居とささやかな社殿が往時を偲ばせるだけです。
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境内に末社として、猿田彦大神・白菊大神・天満宮を祀る白菊社があります。
なお、後桜町天皇が歯痛で苦しまれた時、
この社で神箸と神塩を受け、たちどころに直ったと伝えられ、
歯痛平癒の神様として多くの参詣者を集めています。
『アクセス』
京都市中京区麸屋町通御池上ル東側上白山町
地下鉄東西線「京都市役所前駅」から徒歩3分
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂
京都新聞社編「京都伝説散歩」河出書房
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残されていた古文書や謂れのあるお神輿まで焼けてもなお、付近の住民が神様として祀り伝えて小さいながらも今の世まで伝わるのは凄いですね。
謂れを聞けば古くて凄いお宮が住宅街の一角にひっそりとあちこちに幾つもある…というのも千年の古都ならでしょう。
でも御利益が「歯痛平癒」なら現代人だってそりゃ信仰しますよね。実際に効くのかな?
数多くある有形無形の文化財が今も生き続け、神輿も道ばたのお地蔵さまも仏様も神様も、伝説までもが京都の人々の生活に溶けこんでいますね。
歩いていると、故事やいわれに因んだ色々な御利益があるという寺社に出会いますが、実際に効くのだったらいいですね。