平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




満願寺は示現(じげん)山といい、もとは京の西ノ京にあった
日蓮宗に属する寺で、「洛陽妙見札所」の一つに数えられています。

この寺は六勝寺の一つ法勝寺の北限に建つと見られ、
辺りには俊寛僧都の邸があったといわれています。
俊寛の父は法印権大僧都・法勝寺上座寛雅で、
俊寛は僧都という位を貰い、法勝寺の執行(寺務長官)
を務めていました。

京都市の岡崎、美術館や動物園のある辺りは、
当時、六勝寺と呼ばれる
法勝寺・最勝寺・延勝寺・成勝寺・円勝寺・尊勝寺という大寺が六つあり、
法勝寺はその中で一番大きな寺院でした。


法勝寺復元模型

藤原成親、西光、平康頼ら後白河法皇の近臣が俊寛の山荘に集まり
平家打倒の密議をした鹿ケ谷事件は、密告により西光は斬罪、
成親は備前に流されて暗殺、成親の子の成経や康頼、俊寛は鬼界が島へ流されました。
やがて成経や康頼は許されますが、俊寛だけが許されませんでした。
それは、清盛は自分が目をかけた俊寛が密議の場所を提供したことが、
どうしても許せなかったからであると『平家物語』は語っています。しかし、
『愚管抄』によれば、鹿ケ谷の山荘の持ち主は俊寛ではなく、静賢法印の山荘とあり、
俊寛がそのために許されなかったというのは疑わしく
赦免の使いが来る前に亡くなったのではないかと考えられています。
鬼界ヶ島の俊寛の話は能や浄瑠璃・歌舞伎に脚色され、
今も盛んに上演され多くの人々の涙を誘っています。


満願寺境内には法勝寺執行俊寛僧都居住跡の石碑がたち、
南にある閼伽井(あかい)は法勝寺の井戸と伝えられています。









石碑には、「俊寛僧都故居之碑」と刻まれています。

井戸は俊寛荒行井戸とも伝えられています。

高野聖(俊寛と有王)  鹿ケ谷俊寛僧都山荘址  
『アクセス』
「満願寺」 京都市左京区岡崎法勝寺町130
市バス動物園前下車 徒歩約5分
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 林屋辰三郎「中世の開幕」講談社現代新書
竹村俊則「昭和京都名所図会」洛東(下)駿々堂 佐伯真一「平家物語」山川出版社



コメント ( 0 ) | Trackback (  )


« 鹿ケ谷俊寛僧... 鹿ケ谷事件の背景 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。