平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




有王は法勝寺の法師だった兄二人とともに俊寛に仕えた童です。
鹿ケ谷の陰謀で鬼界が島へ流罪となった3人のうち、
藤原成経と平康頼は赦され帰京しましたが、俊寛だけ戻らないので
心配した有王は
両親にも告げず、ひとり鬼界が島に渡る決心をします。

奈良の叔母のもとに暮らす俊寛の娘を訪ねて手紙を預かり、
途中追いはぎにあったりしながらも、手紙だけは髪を束ねた中に
隠すなど苦労を重ねて
やっと島にたどり着きました。

島の人に俊寛の行方を聞いても誰も知らないと言う。ある朝、
磯のほうからふらふらと歩いてくる痩せ衰えた俊寛にめぐりあうと、

藤原成経、平康頼が去り一人残された俊寛は漁師に魚をもらい、
貝や海草を拾って生き長らえてきた
辛い日々を語り始めます。
その住まいはといえば、雨露も凌げそうにないあばら家でした。


有王は娘からの手紙を見せ、「北の方さまとお子様は鞍馬の奥に逃れ、
そこで人目を忍んでお暮らしになっておられたので
有王がときどき行ってお世話をしてきましたが、ご子息
に続いて
北の方さまもついに旅立たれてしまいました。」と語ると、

「妻子に会いたいがために恥を忍んで生き延びてきたのに…」と
娘のことを気遣いながらも、
生きる気力をすっかり失くしてしまい、
可愛がっていた有王に看取られながら死のうと決意しました。 


もともと満足なものとはいえない食事をその日から止めてしまい、
ただひたすら阿弥陀の名号を唱えながら三十七歳の生涯を終えます。
それは有王が島に渡ってきて二十三日目、配流後三年のことでした。

有王は泣き明かし、それから俊寛を荼毘に付し、急いで都に戻り
俊寛の娘のところに行って鬼界ヶ島での一部始終を語りました。
娘は嘆き悲しみ十二歳で出家し、
奈良の尼寺法華寺に入り父母の後生を弔いました。 


有王はその後、俊寛の遺骨を首にかけて高野山へ上り奥院に納め、
蓮華谷の法師となり、諸国行脚して主の後世を弔いました。
「かくのごとく、人の嘆きをどんどん積み重ねて行く
平家の世の行く末が恐ろしく思われる。」と物語は語っています。

俊寛の娘が出家した法華寺
法華寺南門(国重文)

本堂(国重文)



袴腰付きの鐘楼(国重文)

 高野山奥の院入り口辺に高野聖の拠点、蓮華谷があり
高野聖は高野信仰を広める役割を担っていました。
高野山への納骨が盛んであったのは空海の入定信仰によりますが、
万寿三年(1026)正月、上東門院(一条天皇の中宮)が落飾と同時に、
髪を奥の院の御廟前に納めたのが最初だとされています。
鞍馬の奥にある大悲山峰定寺
 大悲山峰定寺 (俊寛僧都供養塔) 
 高野山蓮華谷高野聖(俊寛と有王)  
『アクセス』
「法華寺」 奈良市法華寺町882
 近鉄電車 新大宮駅徒歩20分 
近鉄電車 奈良駅よりバス 自衛隊前、西大寺北口行「法華寺前」下車3分
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 「奈良県の歴史散歩」(上)山川出版社
 「源平合戦事典」吉川弘文館 日下力「平家物語を知る事典」東京堂出版

 


 
 




コメント ( 5 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
この時代の人は信仰一筋ですね! (yukariko)
2008-01-03 01:21:44
 おめでとうございます。
コメントありがとうございました。
こつこつと辿ってこられた素晴らしい記事と写真を今年も楽しませて頂きます。

 TOPの厳島神社の回廊は構図が素晴らしくて圧倒的な存在感ですね。
姑と二人、思い出しながら感心して見入りました。

 大きな世のうねりに捉えられてあれよあれよと流された人々にとっては縋れるのは仏様だけだったでしょう。
ひたすら尽くし、ひたすら祈り、後世良かれと祈る有王、俊寛娘…。

末法思想の平安末期、知識階級にありながら源平の色分けでもみくちゃになった人には信じられるものは来世のみ、現世には絶望感ばかりではなかったかと思います。
それに引き換え現代の私達は一杯物を持ちながらまだ足りない気がして探している物欲の塊のようですね。
ひたすらで純粋な信仰心など誰が持っているでしょうか?
俊寛にあまり同情しないのも現代人と同種の人間のように思うからでしょうか?
 
 
 
本年もご指導よろしくお願いいたします。 (sakura)
2008-01-04 10:28:56
毎回つたない記事にコメントを書き込んで頂けるので楽しみに読ませていただいています。
書き足らなかった所を返事として書かせて頂いたり、
yukarikoさんからの違った観点からのコメントは、
なる程と思うことが多く、とてもありがたく思っています。

法勝寺の執行として思うがままに振るまい、
多数の寺領の管理を任され
数百人の部下を配下にし、信者からの布施は
受け取るばかり、その上ピンハネ、全くの功徳を
積まない人物として平家物語に書かれている俊寛!
「現代人に共通するもの」そうかもしれませんね。

俊寛とは正反対の人物として平家物語に
描かれているのが「有王」です。

有王は主を案じ、大悲山まで通って
妻子の世話をしたり、
娘の手紙を何とかして届けようと鬼ヶ島まで
渡ります。
俊寛を荼びに付し京に戻り、骨を高野山に納め
法師となり回向して歩きます。

「遠野物語」でよく知られている
民族学者・柳田国男は「有王と名のる高野聖たちが
俊寛の物語を語り歩いた。」としています。
このようにしても俊寛の悲劇は人々に広まったようです。

厳島神社の廻廊はお天気に恵まれて、
偶然の一枚です。引き潮だったのが残念!
いつもyukarikoさん始め会員の方々の素晴しい写真を見せていただいて刺激を受けていますが、
写真撮影は難しいです。

お姑さんも厳島神社に行かれ、写真を見て
くださってそうでとても光栄です。
お姑さんはPCもご覧になるのですね。
「パソコンのことなら何でもОKのお嫁さん」を
きっとお姑さんは誇りに思ってられるのでしょう。

 
 
 
「高野聖」が一役買っているのですね! (yukariko)
2008-01-04 12:33:40
「平家物語」は琵琶法師によって語られ人々に広まったと習いましたが、今のような情報伝達の手段がなかった時代に日本各地、文化が届きそうもない所まで語り伝えられたのは高野聖という半ば宗教的な担い手がいたのですね。

高野聖…高野山を本拠とし、平安末期から増え、鎌倉時代以後は諸国を回国して橋や道路を作り、造仏造塔の勧進をしたり弘法大師信仰と高野山への納骨を勧め、また色々な霊験譚を広めた。

各地を旅し、寝泊りの分限者宅で色々な話を庶民に語って聞かせたのが根付いたのでしょうね。

前回の「宝物集」もそのような形で流布して長く愛読されたのでしょうね?

PCは食卓横に置いてあり、しょっちゅう長時間座り込むので、時々は姑にも旅行で撮影した写真や他の方の写真を見てもらったり、出かける先をインターネットで調べて見せます。

一体何故長時間(家事もせずに)PCで遊ぶのかと思われるから…これも姑懐柔作戦!…なのです(笑)


 
 
 
平家物語は「琵琶法師の語り物」とよく耳にする言葉です。 (sakura)
2008-01-04 16:59:15
琵琶法師は「平家物語」成立前の平安時代に活動を始め都だけでなく、広い地域で活動していたようです。

やがて「平家物語」に出合い、「平家物語」を中心に語りますが、和歌、連歌、雑芸、歴史等も「保元物語」「平治物語」「太平記」等も語っていたようです。
この他「平家物語」は「琵琶法師の語り物」としてだけでなく、書物としても広く流布していたようです。

また能や浄瑠璃などの古典芸能や絵巻、屏風などによっても広く一般に知られるようになりました。
祇園祭や屋島寺等「平家物語の屏風」は、今でも私達の身近な所で見られます。

「平家物語」の中にいつまでたっても弁慶が登場してこなかったり、出てきても、私達がイメージするような大活躍をしなかったりするのは、
多分古典芸能を通じて知っている弁慶なのです。

「宝物集」は版本が刊行され、一般向け仏教書として、後世まで多数の読者を持ち続けたようです。

清涼寺の三国伝来の釈迦像が爆発的な信仰を集め、唐招提寺、西大寺、西明寺、常楽院、極楽寺、称名寺等多数の寺院に清涼寺の三国伝来の釈迦像の
摸像があります。
ここにお参りする人々によっても「宝物集」は広まったかもしれませんね。
「宝物集」についてはちょっと分かりません。
ごめんなさい!

 
 
 
続きです。 (sakura)
2008-01-05 08:16:35
お姑さんはお若い時ほど自由に出歩けないでしょうが、こうしてyukarikoさんのあちこちの旅行記を、
ご覧になれていいですね!

江戸時代には「清涼寺の三国伝来の釈迦像」は、
輿に乗せられて全国を回ったそうです。
これを出開帳と云うそうですが、
このことからも、三国伝来の釈迦像の人気が分かりますね。


 
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