平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




鹿ケ谷事件は、清盛が力を持ち過ぎることに朝廷内部には不満が渦巻き、
同じような思いを抱く後白河院の近臣たちが平家打倒を企てたものです。
当時は平家の全盛期、一門が朝廷内で幅を利かせ、
位階の授与や官職の任命は清盛の思うままでした。

安元の大火や比叡山との騒動で、洛中には僧兵がしきりに出入り、
社会不安が起こり世の中が
騒然としているのを巧みに利用し、
平家打倒の謀議が鹿ケ谷の俊寛の山荘で
「今様を楽しむ会」と銘打って度々もたれていました。
密議には後白河院も加わることもありましたが、
平家一門に対して悪態をつきながら宴会に流れるのが常でした。

この事件は、身分不相応にも左大将の地位をうかがっていた
新大納言藤原成親(なりちか)の出世欲から
始まりました。
清盛の嫡男重盛が左大将に、右大将には三男の
宗盛が任命され、結局、
左右大将のポストを平家に2つとも取られたことが直接のきっかけでした。
成親の父の藤原家成(いえなり)卿は、鳥羽上皇第1のお気に入りで、
若いころの清盛がその屋敷によく出入りし、
忠盛とも親しい関係にあった貴族です。

安元3年(1177)5月のある夜、後白河院が静憲(じょうけん)法印を
伴って俊寛の山荘に赴いた時、藤原成親、西光、平康頼、俊寛僧都、
いずれも院の側近ばかりが集まり
宴席で平家打倒の相談をしていました。傍で聞いていた
静憲は驚いてその無謀を指摘し、「用心なさるがよい。
人の耳があります。」と注意したといいます。

武士では、摂津国に地盤をもつ源氏の多田蔵人行綱が成親に
武力を見込まれ、軍資金として白布50反贈られ誘われましたが、
つらつら考えるに口先の勢いばかりで、このクーデターが
成功するとはとても思えず悩んだ末、ひそかに西八条邸に
参上して清盛に密告し、この計画は頓挫します。烈火のごとく怒った
清盛の命で、関係者はただちに捕えられ
厳しく処分されます。

成親はかつて平治の乱でも、謀反人藤原信頼に与して敗れ、
死罪になるところでしたが、妹が平重盛の妻、娘が重盛の子維盛に
嫁いでいたことなどから、重盛の取りなしで解官で済んでいたのです。
この度も重盛に助けられて死刑を免れ、いったん
備前国(岡山県東部)に流罪となりますが、
後に配流地で惨殺されます。藤原成親の墓(吉備の中山有木の別所)  

西光は斬られ、俊寛は
康頼、父成親の重罪に連座した
丹波少将成経(なりつね)とともに鬼界が島に流されて行きました。
その後、建礼門院徳子懐妊の大赦で、康頼と成経は京へ帰りましたが、
俊寛は一人島に残され流罪地で死んだという。

鹿ケ谷事件の舞台となった「
俊寛僧都山荘址」を示す石碑は、
如意ヶ嶽(大文字山)に続く山道の途中、標高312m余りの地点にあります。
始めて訪ねる人には、俊寛の山荘址への道はわかりにくいかも知れません。

順を追って画像にしました。

まず哲学の道(霊鑑寺への道しるべ)から疎水を渡って
少し行くと霊鑑寺(れいがんじ)があります。
この寺の横に建つ「此奧俊寛山荘地」の石標から
坂道を山の方(東)へ道なりに10分位上ると、

やがて右手に瑞光院(浪切不動明王)が見え、その先の草むらに
京都一周トレイル47・「俊寛僧都旧跡道八丁」の石碑が見えます。

哲学の道傍の道しるべ

疎水を渡って少し東へ行くと霊鑑寺があります。

霊鑑寺傍に昭和14年(1939)京都市教育会建立の
「此奧俊寛山荘址」の石標。ここから道幅が狭くなります。

坂道をどんどん上ります。

右手に浪切不動明王があります。

浪切不動の先にあるトレイル47の標識に従って道を左に折れ、
すぐ右手の雑草の生い茂る山道を上っていきます。

上り口に道標があります。



桜谷川の渓谷沿いに20分ほど上ると、楼門の滝がしぶきを上げています。
この滝の辺り一帯に昔、三井寺の別院如意寺があり、
その楼門のほとりにあったので、滝は楼門滝とも如意ノ滝ともいいます。

滝横の如意寺遺構の急な石段を上ると、滝の上に高さ3㍍、幅1・5㍍の自然石に
昭和十年(1935)建立された「俊寛僧都忠誠の碑」(公爵一条実孝書)と
彫られ
た碑
が建っています。

俊寛は後白河院の近臣で、法勝寺の執行(しゅぎょう)として、
寺の事務を管轄する立場にある僧でした。

「俊寛僧都忠誠の碑」の下段には、碑の由来が刻まれた
高さ1・8メートルほどの
「俊寛僧都鹿谷山荘遺址記」があります。
上段の顕彰碑(正碑)と同年の昭和十年(1935)建立です。(副碑)

碑文によると、石碑の建立者西垣精之助は、夢の中で俊寛の山荘を
訪れました。夢からさめて覚えている景色をたよりにこの場所を探し出し、
2千歩(2千坪)の土地を購入し俊寛を顕彰する石碑を建立したという。
碑文の作者は、雨山(うざん)という号で知られる
漢学者の長尾甲(1864~1942)です。晩年は京都で過ごしていますが、
夏目漱石とは、熊本の第5高等学校で同僚でした。
西垣精之助は京都市東山区祇園十二段家(和食)の当時の主人です。

碑文の大意(『京都石碑探偵より転写』)
昔から心ある人は権力者が暴虐のかぎりを尽くすことに憤りを持ち、
こいつらを一掃して人民を安心させようと計画したものであった。
その事が成功すれば「義挙」と讃えられた。しかし失敗すれば「乱賊」と
ののしられたのである。だから世に伝える歴史というものはあてにならない。

 平清盛は権力をほしいままにして、天皇さえ自分の好き勝手に即位させ、
気に入らない者は退位させた。俊寛は村上天皇の末裔で、
清盛のやることを憎んでいたので、成親等の計画を聞き、
いざという時には奈良興福寺の僧兵を率いて味方するという密約を結び、
自分の山荘で仲間と計画を練った。ところが、蹶起直前に
行綱が清盛に密告し、俊寛は同志とともに硫黄島(鬼界島)に流された。
ほかの者は罪をゆるされて都に帰ることができたのに、
俊寛はひとり島に残され非業の死を遂げた。
清盛がいかに俊寛の知略を憎んだかがわかるだろう。

 俊寛は僧侶である。僧侶の身でありながら謀議に加わったのは、
平氏の横暴を見るに見かねて立ち上がったのだが、つまらぬ裏切り者の
せいで謀反の罪を着せられたわけである。
俊寛の志は歴史の書物にも無視され続け、山荘の跡は草に覆われ
獣の跳梁する地になってしまった。悲しいことである。

 西垣精之助さんは気骨のある人で、世の中に正義を訴えることを
常に思っていた。ある夜、夢の中で俊寛の山荘を訪れた。
目がさめて夢の光景を求め、この地に来たところ、
まわりのようすは夢と寸分も相違がなかった。不思議に思い、
歴史書を読みあさり、はじめて俊寛が義憤から清盛に逆らったことを知った。
そこで俊寛を顕彰しその魂魄を慰めるために石碑を建立したいと思い、
二千歩あまりの土地を購入した。

「俊寛僧都忠誠之碑」の背後の道を東へ行くと如意ヶ嶽(大文字山)、
さらに東へ辿れば三井寺へと続き、絶好の城郭でした。




『平家物語・巻一・鹿の谷の事』には、
「東山鹿の谷といふ所は、後は三井寺に続いて、ゆゝしき城郭にてぞありける。
それに俊寛僧都の山荘あり。かれに常は寄り合ひ寄り合ひ、
平家亡すべき謀をぞ運(めぐら)しける。」と書かれています。
トレイル47から「俊寛僧都忠誠之碑」迄はうす暗くて細い山道です。

『愚管抄』によると、鹿ヶ谷の山荘は俊寛のものではなく、
静憲法印の所有であり、さらに鬼界が島に赦免状が届いた時には、
すでに俊寛は亡くなっていたとされています。
俊寛だけが都に帰って来なかったという事実から、
物語は組み立てられていったようです。

静憲(信西の子)も後白河院の近臣で、平治の乱で安房国に配流されましたが、
ほどなく帰京し、俊寛の前に法勝寺の執行を務めていました。
思慮深い人物であったとされ、『平家物語』中での静憲法印は、
院と清盛の橋渡し的な役目を果たしています。物語には、
この事件に静憲を巻き込むことを避けたいという意図があったと思われます。

ちなみに法印は僧侶の最高位。執行とは、寺社にあって事務長として、
朝廷から授けられた封戸(ふこ)や所有する荘園の事などを掌る
僧職で、大きな権限を握る立場にありました。


俊寛僧都の邸跡に建つという満願寺、
大悲山峰定寺で俊寛妻子のその後をご覧ください。
俊寛屋敷跡(満願寺・俊寛僧都故居之碑)  
大悲山峰定寺 (俊寛僧都供養塔) 
有王と俊寛の娘(法華寺)    高野山蓮華谷高野聖(俊寛と有王) 

俊寛の墓(法勝寺)鬼界ヶ島はどこか  
   鹿ケ谷事件の背景  鹿ケ谷の陰謀は史実か     
『アクセス』
「霊鑑寺」京都市左京区鹿ヶ谷大黒谷町 
市バス「錦林車庫前」下車 霊鑑寺まで徒歩約7
霊鑑寺から「俊寛僧都忠誠之碑」まで約30分
『参考資料』
石田孝喜「京都史跡事典」(コンパクト版)新人物往来社 
伊東宗裕「京都石碑探偵」光村推古院 竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社 
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
 
 



 

 

 

 

 
 






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