平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




京都市東山区の平家ゆかりの三嶋神社には、牛若丸の揺向石があります。
寺伝によると、この社に牛若丸が参籠し源氏再興を祈願中、
奥州に下るべしとの神託を受け、この石の前から奥州へ旅立ったと伝えます。





揺向石(ようこうせき)は高さ2m余、赤みをおびた岩石で、祭神の一人
コノハヤサクヤ姫が影向(ようごう)した石とつたえ、
古くは安産石とも誕生石ともよばれ、安産を祈る信仰がありました。


江戸後期に編纂された『花洛名所図会』にも、三嶋神社の「遥向石」が描かれていて、
当時から信仰の対象として祀られていたことが伺えます。
赤線部分が遥向石です。当時は「相生の松」とよばれる樹木の間に祀られていました。

義経(牛若丸)は平泉の藤原秀衡のもとに旅立つ16歳まで鞍馬寺で過ごしました。
源氏再興の宿願のため、夜な夜な山中で剣術の稽古に励み、
森を駆け巡って早業を身につけました。
天狗が相手になったともいい、鬼一法眼から兵法を学んだとも伝えられます。

しかし剣術や早業だけでは真の武将にはなれません。弓と馬、馬の上から弓を射る
騎射の技術が必要ですが、鞍馬ではその訓練はできそうにありません。


鞍馬山毘沙門天の信者で参詣に訪れる金売り吉次から広大な牧野を駆けめぐる
駿馬の話を聞いた牛若丸は馬も弓も思い切り稽古できると迷わず平泉をめざしました。

奥州は名馬の産地です。特に岩手県北から青森県にかけての
糠部産の駿馬の名声は鳴り響いていました。

『アクセス』
「三嶋神社」 京都市東山区渋谷通東大路東入上馬町
市バス 東山線「馬町」下車、東へ200m 京都女子大の近くです。
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年
05年4月号「くらま」 (平泉郷土館館長大矢邦宣・平泉なぜ) 鞍馬寺発行






コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
名馬の産地だったとは…!成る程! (yukariko)
2007-06-11 20:26:01
<marquee direction="right"id="sc01"scrollamount="1"width="500"onmouseover=this.stop() onmouseout=this.start()>
の部分と<</marquee>というタグを抜けば、動かないで全部がそのまま表示されますよ。

でもsakuraさんの今回の文章は長いから
tableサイズを大きくする必要があるし、こんな風に動く方が読み易いからいいですね。
流鏑馬の写真もぴったりですね。

マーキーにしないの時は一番下の「画面のオンマウスで一時ストップします。」という言葉を他の文章に替えてて下さいね(笑)
 
 
 
分からないままコピーさせていただきました。 (sakura)
2007-06-12 01:19:53
背景の色はとてもすてきな色ですし、
私の画像によく合うし、
<</marquee>も
何も分からないまま
コピーさせていただきました。

ご指導ありがとうございました。
 
 
 
難しいお話は分かりませんが・・・。 (kazu)
2007-06-15 09:42:51
牛若のお話にこの背景グラデ-ションの色、縦書きの説明がぴったりと合いますね!
ちょっと頼りなさそうな牛若ですが、写真効果もステキです!
入っていける興味あるタグから順番に行かれると、ブログが賑やかになりもっと可愛くなりますよ!
もう!ペット感覚になりました!
 
 
 
いよいよ、奥州平泉へ!ですね (風民)
2007-06-20 10:34:37
物語のように、続いていくsakuraさんのブログは
とても興味深く楽しいです

流鏑馬のお写真、うまく撮れていますね
一応、親父ギャグ
テレビのニュースで見たりはするのですが、こんなにはっきりと、騎乗の方のお顔を見たのは、初めてです。義経は華奢なからだつきをしていた?と何かで読んだ記憶がありますが、
若き義経の風貌にまで思いをはせることが出来て、
お み ご とです。

続きを・・・・乞うご期待ですね。
 
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