常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

時枝山

2019年01月12日 | 登山

盃山に登ったのは何年ぶりだろうか。

今年の山の会は、ここを起点に愛宕

山、時枝山、そして八方山へ至る尾

根歩きが、初歩きとなった。このコー

スには多くの思い出が詰まっている。

麓にあるお寺の境内に亀井勝一郎

の文学碑があった。「天に青空 地に

は微笑」と、簡潔な文字が刻まれてい

る。尾根を歩き終えて、この山の頂上

に立つと、折からの晴天とあいまって

山形市を眺望する絶好のポイントであ

ることを、今更のように確認した。思え

ばこの山に初めて登ったのは昭和34

年の春である。当時まだ国道のバイパ

スはなく、住んでいた寮からの散歩に

来て、川原の石を踏んで、すそ野から

登った。そこから見える山形は、二つ

のデパートがあるのみで、今見るよう

高層ビルは全くといってよいほどな

かった。寮の押し入れの壁には古い落

書きが残っており、そのなかに亀井勝

一郎の名があったことを記憶している。

亀井が山形高等学校に入学するのは、

大正12年の春である。亀井16歳の時

であった。同級に阪本越郎、一年下に

神保光太郎がいて文学への興味を示し

始めた。それから1世紀の時間を経て

る。まだ親しい友人もいなかった私は

時間ができると、一人この山に登り、見

慣れぬ光景を時間を経つのを忘れて眺

めていた。

愛宕山のすぐ下に、道標のような碑があ

る。青空の下の雪は純白である。年末の

雪で、もっと積雪は多いものと思っていた

が、意外に少なく、準備したカンジキは使

用せずに歩き登した。尾根筋のピークで

一番高いのは、愛宕山の380m。そこから

4つピークを経たが、最後の時枝山360m

で、雪も少なく歩きやすいコースであった。

本日の参加者8名、うち男性2名。往復5㌔

の初歩きであった。

尾根からは市内の北側の集落も見える。

はるか向こうに、甑岳、葉山など真っ白

な雪を被った山々が見られた。どの山も

今年の山行計画に入り、過去の思い出

もまた秘めている。歩きながら、今年の

山行に思いを馳せ、思い出を語り合うの

は何にもました楽しいことである。歩きな

がら、足の筋肉も衰えず、楽しい歩きが

できることをまず確認。朝方の凍てつい

た雪でも足を取られる人は誰もいない。

途中6ヶ月になる子を背負い、3歳くらい

の子を、神社の初詣に連れて行く親子

と連れ立って歩いた。新年早々で、昼

近い時刻ではあったが、近隣の人たち

がたくさん山歩きを楽しんでいた。帰路

大野目温泉で汗を流す。熱めの岩風呂

だったが、初めてにしては気持ちのよい

温泉であった。

 

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啓翁桜

2019年01月11日 | 

昨年の暮、東根の山間や休耕田で、株か

ら多くの枝を出す木を見た。畑一面の栽

培であったので、壮観であすらあった。こ

れが啓翁桜であった。12月に枝を切って

温室に入れて芽出しをする。これを7,8本

に束ねて市場に出している。ネットで見る

と1束3800円と結構な値がついていた。

月、この花を水を入れた鉢に挿して開

を待つ。薄いピンクの端正な花びらは

春花として好んで用いられる。啓翁桜

の促成栽培は、気候条件も適しているの

か、山形県が全国一の栽培量を誇ってい

る。この花は久留米市の良永敬太郎さん

という人が、ミネザクラを台木にしてヒカン

サクラを接いだところ、その穂木の枝変わ

りとしてできたものだという。お名前の敬を

変え翁をあしらったネーミングもすばらし

い。いつかスマップの草なぎ剛の出たドラ

マで、冬の山形舞台になっていて、啓翁

桜が出てきたことがあった。 

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初市

2019年01月10日 | 日記

松の内も明けて今日は十日市、初市の

日である。冬の気圧配置が後退して、

東の方から高気圧が張り出し、青空も見

えてきた。我が家の北西の方角には、葉

山がどっしりとした姿を見せる。同じ方角

にあるまどやかな白い月山とは対照的な

姿を見せる。冬晴れの日にならないと、

なかなかお目にかかれない姿だ。城下町

であった山形市は、街ごとに市が開かれ、

十日に市を開くのは、十日町と呼ばれた。

いまもこの日に市が開かれ、正月十日は

初市が開かれる。初飴や、近在の村から

杵や臼、包丁、まな板など生活用品が売

り出され、縁起物を買い求める人であふ

れる。

谷崎潤一郎の『細雪』に出てくる十日戎

には、大きな福笹に、張り子の小判、米

俵、大福帳、はぜ袋などが下げられ、縁

起物として戎さんの買い物の目的であっ

た。はぜ袋というのは、白米をドンという機

械で爆ぜさせたものに砂糖を加え、食べ

る菓子を入れた袋である。京都の街のこ

んな風習が根付いたものが初市である。

思えば山形市の商店街には、かつて日本

海航路で交易のあった近江商人が、出し

た老舗がいまも店を張っている。この街は

京文化との深い水脈でつながっている。  

 

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故郷の山

2019年01月09日 | 日記

我が家から見える一番高い山は、蔵王山

の外輪山の瀧山である。標高1362m、母

なる山というよりは、威厳を示す親父のよ

うな武ばった姿を見せる。朝この山の姿を

見ると、弱い自分を鼓舞するような父親の

姿がそこにある。

斉藤茂吉は、幼少から見てきた三吉山を、

毎日眺めて、見れども飽かずと、歌に詠ん

だが、石川啄木は、

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたきかな 

と故郷の山への心情を吐露している。啄

木の故郷は生まれ育った渋民村である。

啄木は長じて故郷を捨て、北海道、東京

へと生活の拠点を変え、文筆の道を志し

た。ペンを握りながら苦悩している時に思

い浮かぶのは、幼い自己を育んでくれた

故郷の山であり、美しい自然であった。

このブログを読んでくれた、同郷の友が、

山の姿はいいね、とコメントをくれた。私

にとって、故郷の山は、丸くなだらか音江

の山である。昭和7年8月24日、斎藤茂吉

は兄富太郎を訪ねて、深川の鬼川病院

に立ち寄り、音江山を歌に詠んだ。

降りつぎし雨の晴れまに人居りて

 音江山べに麦刈りにけり  茂吉

私は北海道を離れてもう60年近くになる

が、いまだに脳裏から離れないのは故郷

の山である。音江山から季節の移り変わ

りを知り、人々の営みを知らされてきた。 

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障子

2019年01月07日 | 芭蕉

障子はもともと、さえぎるものの意味で

屏風や衝立と同じように視線、風、光 

、寒さなどをさえぎる建具の意味であ

る。桟に和紙を張って、明り取りをさす

ようになったのは、薄くて白い丈夫な

紙が普及した鎌倉時代以降である。

茶室の障子は、採光だけを目的とした

ものでなく、光を抑えることで調度品や

室内の生け花などに質感に趣を加える

演出効果を期待している。

水仙や白き障子のとも移り 芭蕉

南向きの日当たりのよい部屋にある水

仙では、句の趣は半減する。紙という

絶妙な材質を通して、ほどよく抑えら

れた光りが、水仙の花と障子の二つの

白さが調和する。

我が家の南側の掃き出しのサッシは

大きなガラスだが、内側に同じ大きさ

の障子が取り付けてある。この障子に

よって、ガラスを通してくる強い光や寒

気をやわらげ、観葉植物を生き生きと

見せてくれる。

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