二宮尊徳が道徳教育とともに又復活すると聞いた、
一方で尊徳像は富国強兵教育の為に作られた像で地域的には恩恵は有ったが教科書に載っている様な無かったとも聞く、
あの頃村には報徳社と言う建物もあり学校の校庭には薪を積んだ背負子をせおい、片手に本を持った二宮金次郎像が必ずあった、
家の仕事をしながらも勉学に励む像は勤勉努力のシンボルで何処かで先生からそんな話もあったのかもしれないが当時の子供達も親も正直鼻先で笑う像であった、
当時の小学生は低学年から家の仕事を手伝うのは当たり前で山から薪や炭俵を村におろすのは殆どの子供の仕事の一部だった、
道は杣道で並んでは歩けない、雨が降ると真ん中を流れるか何方か片側に水路が出来ている、そこには雑草が生えていて頗る足場が悪い道でありずっと坂道である、
第一片手に本を持てるような荷物で親が許す訳も無い、あんな姿勢で歩く事なぞあり得ない、
肩に食い込む紐を掌で前に押し出して、荷重の何割かを腰に掛けるために大きく前に腰を折って居るので視線は数歩前の路面しか見えない、
足場の悪い杣道は足を次に置く場所を視認していないと転倒してしまうのだ、
像の様な平らな道は先ずない、大体歩きながら本を読んだら目が悪くなると教わらなかったのか!
我家は農地を持たない農村の家だったので親父の仕事は樵と炭焼きで、炭はお袋がリヤカーで町まで売りに行く、これが少ない現金収入だった、
何方かと言えば特に貧しい家だったのでこれが標準ではないが他にもこの程度の家は各地域に何軒かあった、
我家は炭造りから小売りまで一家で完結させる、
先ず炭になりそうな雑木林を一山ぶんを買う、次にリヤカーが入れそうな道路から近い窪地に杣道を作り、雑木を切り払うと勾配のきつくなった所を半円形か火口になりそうな部分を残してΩ状に掘り込む、
次に壁になる様に1m程度の垂直に土を左官よろしく縁に沿って壁を作り、3尺程度にそろえて切った炭材を立て並べその上にドーム状になる様に短い気を並べて更に枝木を使ってお椀を伏せた様な形に整えるとその上に粘土を置いて行く、
火口の対角線に溝を切って土管を立てて煙突にして天井になる土が自然乾燥するとヒビを埋めて更に乾いたら火口から火をつける、
火を入れたら見える範囲が全て炎になったら火口に用意しておいた板状の石を立て廻りを粘土で塞ぐ、
この煙は家から見えて最初は暗くなると火の色も見え、やがて白い煙に変わりそれが薄い青になってくれば焼き上がりである、
火口の石蓋を外し温度が下がった処で取り出して窯の前に並べる、
ここから子供の仕事である、未だ熱い窯に入って炭を火口まで出す、高さが1m~1.2m程度だから大人より効率が良いのだ、
真っ暗で熱く、汗をかいた顔には炭の粉がついて真っ黒になりながら運ぶ、
親父は形に分けて積んで行き種類毎に炭俵に詰めて行く、
硬くて形の良い炭は四角の俵、細い丸のままの炭は丸い俵につめる、
炭俵も全部手作りで藁をなって縄を作るのも本体の萱も採って来たり貰って来たりで小屋で親父が作る、
リヤカーに乗せて街まで売りに行くのはお袋と私だった、まあ手伝いと言うより家に置いておけないので連れて行ったのだが、
そのリヤカーも無いので燐家のものを借りて自転車はないので街まで15Kmを引いて行く。
中学の頃調べたら標高は800m位違っていたので結構大変だっただろうな
帰りが登りだが空荷だが能天気な私は後ろに乗っていた気がする、
何時も買ってもらった手の形のクリームパンと羊羹が塗られたアンパンが楽しみだった、
丸俵は角俵より安い、「炭は要らんかね」と売り歩くのだが大抵お得意さんが買ってくれて売り残りは無かった気がする、
11歳の2月終わり頃、このリヤカーにお袋の亡骸をのせて親父が曳き自分は斜め後ろから押して同じ道をとぼとぼと帰った、あれから60年近く経つな
一方で尊徳像は富国強兵教育の為に作られた像で地域的には恩恵は有ったが教科書に載っている様な無かったとも聞く、
あの頃村には報徳社と言う建物もあり学校の校庭には薪を積んだ背負子をせおい、片手に本を持った二宮金次郎像が必ずあった、
家の仕事をしながらも勉学に励む像は勤勉努力のシンボルで何処かで先生からそんな話もあったのかもしれないが当時の子供達も親も正直鼻先で笑う像であった、
当時の小学生は低学年から家の仕事を手伝うのは当たり前で山から薪や炭俵を村におろすのは殆どの子供の仕事の一部だった、
道は杣道で並んでは歩けない、雨が降ると真ん中を流れるか何方か片側に水路が出来ている、そこには雑草が生えていて頗る足場が悪い道でありずっと坂道である、
第一片手に本を持てるような荷物で親が許す訳も無い、あんな姿勢で歩く事なぞあり得ない、
肩に食い込む紐を掌で前に押し出して、荷重の何割かを腰に掛けるために大きく前に腰を折って居るので視線は数歩前の路面しか見えない、
足場の悪い杣道は足を次に置く場所を視認していないと転倒してしまうのだ、
像の様な平らな道は先ずない、大体歩きながら本を読んだら目が悪くなると教わらなかったのか!
我家は農地を持たない農村の家だったので親父の仕事は樵と炭焼きで、炭はお袋がリヤカーで町まで売りに行く、これが少ない現金収入だった、
何方かと言えば特に貧しい家だったのでこれが標準ではないが他にもこの程度の家は各地域に何軒かあった、
我家は炭造りから小売りまで一家で完結させる、
先ず炭になりそうな雑木林を一山ぶんを買う、次にリヤカーが入れそうな道路から近い窪地に杣道を作り、雑木を切り払うと勾配のきつくなった所を半円形か火口になりそうな部分を残してΩ状に掘り込む、
次に壁になる様に1m程度の垂直に土を左官よろしく縁に沿って壁を作り、3尺程度にそろえて切った炭材を立て並べその上にドーム状になる様に短い気を並べて更に枝木を使ってお椀を伏せた様な形に整えるとその上に粘土を置いて行く、
火口の対角線に溝を切って土管を立てて煙突にして天井になる土が自然乾燥するとヒビを埋めて更に乾いたら火口から火をつける、
火を入れたら見える範囲が全て炎になったら火口に用意しておいた板状の石を立て廻りを粘土で塞ぐ、
この煙は家から見えて最初は暗くなると火の色も見え、やがて白い煙に変わりそれが薄い青になってくれば焼き上がりである、
火口の石蓋を外し温度が下がった処で取り出して窯の前に並べる、
ここから子供の仕事である、未だ熱い窯に入って炭を火口まで出す、高さが1m~1.2m程度だから大人より効率が良いのだ、
真っ暗で熱く、汗をかいた顔には炭の粉がついて真っ黒になりながら運ぶ、
親父は形に分けて積んで行き種類毎に炭俵に詰めて行く、
硬くて形の良い炭は四角の俵、細い丸のままの炭は丸い俵につめる、
炭俵も全部手作りで藁をなって縄を作るのも本体の萱も採って来たり貰って来たりで小屋で親父が作る、
リヤカーに乗せて街まで売りに行くのはお袋と私だった、まあ手伝いと言うより家に置いておけないので連れて行ったのだが、
そのリヤカーも無いので燐家のものを借りて自転車はないので街まで15Kmを引いて行く。
中学の頃調べたら標高は800m位違っていたので結構大変だっただろうな
帰りが登りだが空荷だが能天気な私は後ろに乗っていた気がする、
何時も買ってもらった手の形のクリームパンと羊羹が塗られたアンパンが楽しみだった、
丸俵は角俵より安い、「炭は要らんかね」と売り歩くのだが大抵お得意さんが買ってくれて売り残りは無かった気がする、
11歳の2月終わり頃、このリヤカーにお袋の亡骸をのせて親父が曳き自分は斜め後ろから押して同じ道をとぼとぼと帰った、あれから60年近く経つな