梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

改憲

2013-07-12 11:11:34 | 雑記
憲法改正論が盛んになっている、今回の参院選でも焦点の1つだ、本来「改正」と言うのは改憲派の言い方で改憲反対派からすれば「改悪」と言う事になるのでマスコミ各社は「改正」と言う表現は避けるべきだと思う。
改憲はそもそも最終的には国民投票になるはずでこれを国会だけで行うと言う事はそれこそ「憲法違反」だがどうも論調の多くは「改憲は与党の有利になり国民を管理する恐ろしい時代になる」と言っている様に思える、
だが実際は「改憲を国会で俎上に載せる」事を決定する割合を緩めろ、と言う事が取敢えずの話だ。
此処で議題に上がり、「改憲派が半数を超えたら憲法を変えるべきかどうかを国民に問う」と言う事だが問題は国民投票の方法と議決条件だ、しかしそれ以上に問題なのは国民自体がどの程度憲法を理解しているかに成るのではないだろうか、
条文を読んだだけでどの程度理解できているか頗る疑問だ、例えば有る条文を書き換える事で(自民党案にあって有識者から反対意見が多い)自由の範囲が制限される可能性が有ると言う、この事は恐らく条文をざっと読んだだけでは理解できない、
憲法はいわば理念の法律だ、それに実権を行使出来る様な条文を書き加えて為政者が国民を監視・管理できる方向にしておくと言うのは確かにおかしいとは思う、
自由は責任が伴う、思想は自由だが万民が自由で有ると言う事は制限付き自由であるが其れは飽くまで「理念」の問題で国家運営を理由にするのは実権的法となる、
此れは飽くまで私の考え方だが果たしてこの条文変更が此れからこう言う拡大解釈を可能にするかと言うとそう言い切れる訳では有るまい、
池上さんが言っていたが「先ず、我々国民一人一人が憲法をよく理解した上で判断すべき」だと言う事が重要だ、戦後憲法は戦勝国アメリカが策定した物だと良く言われるがこれを変えてはいけないと言う法ではない、冷静に憲法の内容を熟考し必要であれば修正する事は必要だろう、しかしその前に国民が憲法の理念を理解し、何故直さなければいけないのか、どう直すのが正しいのかを考える必要がある、だとすれば先ずしなければならないのは「改憲できる法律を作る」前に教育の場でも社会の中でも憲法を「法律の前文」みたいな理解から「自分達の為に」一番重要な理念である事を広く更に深く理解させる方法が重要なのではないだろうか。

女言葉と男言葉は文化の証

2013-07-09 15:54:24 | 雑記
最近街中で女性の男言葉を聞く事が良くある、それもかなり乱暴な言葉を幼い子供に対して話している、というより怒鳴りつけている事が多い、年齢は大体20代後半から30代後半の母親である事が殆どだ、
高校生か中学生の女の子が男言葉で話しているのも良く耳にするが此れはまあ若気の至りと言う事だが気になるのは幼い子供を育てている母親が子供に対して「おい!何やってんだ、てめえ、ぶっとばすぞ!」と言う様な言葉を街中で平然と使う、男でも其れこそ肉体労働者でも中々使わない言葉である。
日本語には昔から女言葉と男言葉がある、英語では女と男で言葉が違うと言う事は無いと聞いたがネットで調べるとやはり男女で言葉の違いは有ると言う、
女性は直接的な表現をしない、男性は命令口調で直接的な表現をするらしい、フランス語は品詞その物に男女の区別があるという位である、
日本の文字は中国から伝わってそれが平仮名、カタカナと言う分化を遂げ「女性文字」と言うスタイルになり、今では日本語の特徴である「表意文字と表音文字の使い分け」が成り立っている、
しかし、言葉の文化は完全に日本のオリジナルである、大陸の様に多様な人種が隣り合って生活している訳ではないので独立して発達したという条件があったとしても此れは完全に日本の文化でありその中で男女の言葉が分かれてきたと言う事は非常に大事な財産だろうと思う、
反対に男が女言葉を使う事が芸能界(とても芸とはいえないが)で持て囃されているが此れは逆に「その事自体が普通でない」から面白いのであって普通の主婦が日常的に使うと言うのはどうも私には不快な思いが強い、
「女性は女性らしく」などと言うと「男尊女卑だ、アナクロだ」と言われるだろうが女性人が男性に対して「男らしくないわね」とは実に頻々と使われている、
世の中男と女が居て成り立っているのだから互いの違いを魅力として認め合って過ごすのが一番だろう、体の役割も違うし構造も違う、運動系で言えば女子と男子が同じ条件で競技をする事はない、此れは元々パフォーマンスが違うから当たり前である、
無論言葉の問題と男女差の問題は同じに扱う事は出来ないが永い歴史文化の中で男女の言葉は一緒になるどころか文化程度が上がるほど確実に分化して来た、女言葉はいわば成熟した文化の証だとも言えるだろう、
少し昔、貧農の山村では確かに女性も略完全な男言葉を使っていることもあったがそれでも若い女性は其処までではなく孫が出来る位の年配の女性に限られていた、まあ怒られるかも知れないがすでに「女である事」を放棄している存在になってからである。
平安朝の貴族は兎も角江戸時代の長屋であっても夫婦喧嘩ですら女言葉でやりあう事は滑稽本や川柳でも間違いないようだ、
何で最近はあれ程下品な女性が其れも人前でああいう言葉を使うのか、子供にとって母親は永遠に優しい存在である、そして大人になってもそう言う存在であって欲しいと思うのは私だけだろうか、

収賄要請とは中国の腐敗官僚より酷いな

2013-07-04 19:17:40 | 雑記
自民党から建築団体に金額を指定して献金の要請文書が届いたという、曰く「強い日本を作る為に公共事業を増やして行く」と言う文言に続いて「此れからの日本の為に協力をして欲しい」と言う事らしいがどう読んでも「此れからどんどん公共事業に投下するから先に5億円近くの金を自民党にだしてくれ」と言う事で、「そうすれば公共事業を大幅に増やすから土木建築業界には巨額な金が流れる、いや流しいれるからその中から先に我が党に寄越せ」と言う事を言っている、どう見ても此れは収賄だろう、
「賄賂(わいろ)は、主権者の代理として公権力を執行する為政者や官吏が、権力執行の裁量に情実をさしはさんでもらうことを期待する他者から、法や道徳に反する形で受ける財やサービスのこと」(Wiki)
自民党は与党であり衆院で過半数を持っている、参議院は未だ決まっていないが仮に参議院で否決されても衆議院の決議が採択される、要するに「公共事業を大きく増やす」事は自民党の裁量で出来る訳である、その裁量権を使い公共事業を増やすから献金を増やせというのは明らかに賄賂に当たるだろう、確かに献金は法に覇抵触しないが道徳に反する事は誰の目にも明らかだ、
今までも自民党政権では道路族だの郵政族だのと言う族議員が居て公金を流し込む事をちらつかせて献金と言う賄賂を貰っていたがこれ程あからさまにやったのはさすがに初めてだろう、自民党の体質は全く変っていない所か恥と言う物が安定自民政権自体より無くなっている。参院選直前に何故こんな事をやったのか有権者を舐めているとしか思えない、
公共事業で建築業界に金を流し込んでも日本経済は救われない、安定した産業を育て世界を相手に事業を拡大しない限り公共土木は一過性の経済効果しかない事は解っている、
投下した資金が新たな利益を生まなければ結局税金を上げるしかなく国債を使えば負担を後世に残すだけだ、事業でも投資した資金が利益に還元されなければ債務を支払う方法は無く、倒産するだけだ、安倍政権は将来のビジョンが全く見えない、黒田総裁のやっている事も円高誘導も大手の企業には利益をもたらしても其れはほんの一時的な物になる事は火を見るより明らかだ、すでにほころびは始まっている、其処に持ってきてこの話だ
此れを受け取った建築業界が唯々諾々と従うと思ったのかもしれないが建築業界は此れを公表する方に廻った、世の中は既に右肩上がりの戦後から急激に下降時代に入っている事を理解していないのは安倍政権だけだろう、世界経済が大きく違う方向に走り出している事を理解しない政党に国政を任せる事は非常に危険だろう、しかし残念だが代わりに任せられると言う政党も見られない事も確かだが参議院まで取られたら安定与党は独裁与党に変わる事は間違いないだろうな

立ち居振る舞いと大和撫子

2013-07-03 14:37:24 | 雑記
日本には「立ち居振る舞い」と言う言葉がある、いや今では「有った」と言うほうが合っている位に日本人の「立ち居振る舞い」は酷くなった、
特に上流社会と言う人達ではなく普通の人々にもその程度の教養はあった、教養と言うより一般的な躾で江戸時代の町民文化でもその素養はあったと言うのは文献や浮世絵でも残っている。
立ち居振る舞いと言う位だから只立つと言う事にも形があり、其れは親から子に大人から子供にごく自然に伝わって来た事だったが、今の子供いやその親達の振る舞いは本当に目に余る。
特に今30代の女性達、そしてその子供達の姿勢、歩き方、そして言葉遣いは本当に情けない、自然に立っていて絵になる人は少ないのは仕方ないがせめてもう少し美しく立ち、座り、歩いて貰えない物だろうか。
人間の体は動物では唯一の二足歩行である、しかし元来動物である事は変らないので骨盤と脊柱は足に対して折れ曲がって付いている、それを骨盤を起こし更に垂直歩行をする為に脊柱はS字に曲がっている、この状態で生活するのだから当然脊柱と背筋に負担が掛かる、日本人の立ち姿は横から見たときに綺麗にS状に脊柱が曲げ、重心は一番重い頭をその垂線に乗せる様になっている、
しかし現代の子供達の立ち姿は背中が曲がり首を前に突き出した形が殆どだ、その為膝を少し曲げ更に膝頭を放して腰を落とす形になっている、この型は原始人の想像図に近い、当然腰痛になり体系も狂ってくる。
日本女性の姿はいわゆる「柳腰」に代表されるようにたおやかに撓った姿勢を上として来た、隠れていてもその足は真っ直ぐで且つ有る程度肉付きの良い者を色気のある女性としており太股(ふともも)と言う様に色白で柔らかな肉付きが好まれた、いわゆる「ししおき(肉置き)の良い」と言う褒め言葉もある、
しかし現代の女性達は見事なO脚で更に腿には殆ど肉が付いていない、両足の踝をくっつけても膝同士は離れていて更にその上の太股は肉が無いので拳どころか頭でも入りそうなスタイルである、どうも今の娘達には此れがスタイルが良いと言う事のようだし雑誌なども其れを持ち上げているのだがどうも頂けない。
すっと立っているだけで美しいと言う女性は殆ど見ない上にどたどたと歩きばたばたと走り、高校生クラスは何処でも大またを広げて座る、下着が見えようが腿の置くが見えようがお構いなしで顰蹙の目で見ても「なんだよ!スケベ親父」と言った体である、
なでしこジャパンで名の売れた「大和撫子」は薄い色彩とたおやかな草幹で風に揺れる風情が日本女性の美しさだった、いや世界の男性が憧れたのはそのたおやかさだったのだがいまや其れは絶滅危惧種となってしまった、レッドブックの筆頭に乗せたいのは私だけでは有るまいと思うがどうだろう、ご同輩

考える人?悩む人?

2013-07-01 17:15:04 | 雑記
新聞のコラムでロダンの「考える人」の話が出ていた、「東洋では深く考えるというのは正座若しくは胡坐をかいて背筋を伸ばして呼吸を整える、肘に顎を乗せて考えるというのは余りしない、其れは座の文化と椅子の分化の差か」と言う様な内容だったが言われてみると確かにあれは「考えている」と言うより「悩んでいる」と言う様な風に見える。
東洋文化では考えるという事の究極には瞑想と言う物が置かれている、背筋を伸ばしてすわり余分な力を抜いて目を閉じて深く瞑想する、と言うのがその形なのだが此れはどちらかといえば内面的ないわば哲学的な瞑想に属している、しかしギリシャ哲学のソクラテスやプラトンのイメージはどちらかと言えば立って歩き廻り、ランプの下で書き物をすると言うイメージが強い。
又、学問的な「考える」はどうも座して目を閉じてと言う形では上手く行かないんじゃないかと言う気もする。やはりそこらを歩き廻り頭をかきむしって考えるというのがしっくりする、
「瞑想する」と「考える」どうも少し違った頭の使い方の様だ、昔から連綿と続いている中で徐々に育って来た多くの技術は先人が少しづつ工夫し、積み上げた結果だろう、
ダビンチの様な天才でもエジソンの様な天才でも恐らく瞑想ではあの発想は出来まい、
あの形は仏陀の沙羅双樹の下で大悟した時のスタイルが最初なんではないか?しかし何故仏陀はあのスタイルを取ったのだろうか?確かにあのスタイルが自分の中を覗き込むとか生きる事の悩みを追い続けるのには一番適していると感じるが西洋ではあのスタイルを取る事は無かった、本来椅子の生活だから床に尻を落としてと言う姿勢は考えも付かなかったのだろう、確かにロダンの考える人のスタイルを長時間続けるというのはかなり無理がある、しかしあの記事を読んでからどうしてもロダンの「考える人」は「悩む人」になってしまう
尤もあの「考える人」と言う塑像は単独であるのではなく「地獄の門」と言う大きな彫刻の中央にあるもっと小さな像で他の多くの像の一体でしかないのだがあの像だけが別科うに扱われているので本当の意味の「考える事」は宗教的な意味が有るのだろうとは思うのだが浅識な私には定かではない、若しかしたら案内に書いてあったのかも知れないが全く記憶には留まっていなく。今回のコラムでふと思い出した程度である