『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭

ジュリアナから墓場まで・・・。森羅万象を語るブログです。
ここでは、気軽に読めるエントリーを記していきます^^

[映画『7つの贈り物』を観た]

2009-02-27 15:33:31 | 物語の感想
☆・・・『チェンジリング』(クリック!)を観てからというもの、あまり他の映画への興味がなくなってしまったのだが、誘われたし、リハビリ(^^;)もかねて、観に行った。

 予告編を見ると、どうやら感動作らしいし、数人しかいなかった館内の、斜め後ろに座っていた女の子が終盤、大泣きしていたということもあるのだが、言っちゃあなんだが、感動作としては微妙な手触りの作品だった。

   ◇

 問題点は二つ・・・、

 先ず、物語の前半、主人公ベン(ウィル・スミス)は、何やら、過去に大きな人生の転機となるエピソードがあり、そして物語上の現在においても、何かを計画して動いている。

 それが、目の不自由な、電話注文の肉屋で働いている男を苦情で翻弄する話で幕開けするので、見ているこちらには、主人公がなんか悪いことを企んでいるようにも見えるのだ。

 物語の終盤まで、主人公の目的は伏せられ、また、主人公が、良くも悪くも取れる表情をするので、理由を伏せられている我々は、この主人公は悪なのか善なのかと、妙なサスペンス気分に置かれる。

 ウィル・スミスは、なんか妙に命のやり取りをするような場所(病院など)に、古畑任三郎っぽい奇妙な笑顔で飄々と現われる。

 作り手は、そういったサスペンス効果を狙って作っているようだ。

 でも、それっておかしいのである。

 何で、我々は、物語の前半、「感動作」の主人公に疑心暗鬼の思いを抱かされなくてはならないのか?

 何で、「感動作」に、違和感ありありのミステリー要素を絡めなくてはならないのか?

 ウィル・スミスは、『アイ・アム・レジェンド』(クリック!)でも『ハンコック』(クリック!)でも、物語の中盤で、それまでの物語の方向性とは180度違うことを始めていた。

 それに凝っているのだろうか?^^;

 なんか、シャマラン監督のような、どんでん返しの強迫観念に駆られているのか?

 ・・・おそらく、そうでもしないと、この物語が40分ほどしか持たなかったんだろう。

 そもそもが、オスカー・ワイルドの『幸福の王子』みたいな短編ネタに過ぎないからなあ。

   ◇

 もう一つの問題としては、

 この主人公のやっていることは、どのように物語をデコレーションしたとしても、「自殺」以上でも以下でもないのである。

 ゆめゆめ、これを、例えば、『アルマゲドン』や『インディペンデンス・デイ』などでパクられた日本の特攻隊のような<自己犠牲>の亜流とは思わないで欲しい。

 ただの、命の粗末な扱い方である。

 一生目に不自由な方がおられようが、心臓病で余命いくばくもない方がおられようが、それが天命だから我慢しろなどとは言わないが、そのために命を自ら奪うような人間がいて、その人間が人生での「使命」を貫徹するチャレンジもしないうちに自殺し、それを認めるような物語は、これ、破綻していると言わざるを得ない。

 この主人公がすべき第一義は、亡くなった恋人亡き後を幸せに生きることであった。

 あるいは、自分なりの前向きな方法で、不治の病の者を助ける努力だ。

 この主人公への違和感は、『私は貝になりたい』(クリック!)の主人公の死に赴く態度を見たときと近い。

 アメリカの映画にこのような道義を内包した作品が生まれてしまったことに、

 大多数の人間(アメリカ社会)が、このような内容を認めてしまっていることに、私は驚きを禁じえない。

 現在アメリカの精神性はここまで落ち込んでいるのかと・・・。

   ◇
 
 ・・・救いは、ヒロインのロザリオ・ドーソンの美しさか・・・。

 エンディングでホロリとさせられたのは、ひとえに彼女の演技でである。

                        (2009/02/27)
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[『おくりびと』が米アカデミー外国語賞を獲った明快な理由と、その問題点]

2009-02-25 21:55:10 | 保守の一考
☆・・・やあ^^; 実は今、我が家は、屋根をリフォームしてもらっているのだが、修理屋さんが、我が家の壁面をつたうキウイの蔓を伐採している時に、電話線を切ってしまったのだ。

 故に、我が家は二日間、ネット環境になかった・・・。

 だから、今となっては旧聞の、『おくりびと』米アカデミー外国語賞受賞についてもの申したい。

 ・・・遅れているエントリー[社員昇格試験]の続きを書いてもいるのだが、それはニ,三日後にです^^;([社員昇格試験(前篇)]はクリック!)

 では、先ず、私の映画『おくりびと』についてのエントリーを読んで欲しい。

     [映画『おくりびと』を観た](クリック!)

 ・・・はい、私の、この作品へのスタンスはこの時と全く変わっていない。

 では、映画『おくりびと』が米アカデミー外国語賞を獲った明快な理由について記す。

   ◇

 以下の作品の1エピソードについて語りたい。

 それは、松本零士の『銀河鉄道999』の<霧の葬送惑星>の巻だ。

 『銀河鉄道999』についての説明は省く(もし知りたければ、上部のタイトルを『Wikipedia』とリンクさせたのでクリックして!)、

 ・・・<999>号が、その時に着いたのは、<葬送惑星>であった。

 鉄郎は、メーテルに、「ここではこの布をまとうのよ」と黒い布を渡される。

 「これじゃあ、お葬式みたいだよ^^」と鉄郎。

 駅の上空に降りていくと、線香の匂いが漂ってくる。

 ムードたっぷりの霧の町には、教会の鐘の音が響き渡っている。

 地上には、黒い服(喪服)の人々・・・。

 その黒い服の者たちは、空から駅に降りていく銀河鉄道に毒づく。

   「なんという不謹慎な!!」

   「死者の霊魂を何と思っているのかしら!!」

   「地獄へ落ちるがいい」

 そして、到着後、鉄郎とメーテルは、この星に下りる。

 メーテル:「この星では笑っちゃ駄目よ。人とすれ違ったら、とにかく、頭を下げて・・・」

 鉄郎:「こんな星、わざわざ降りなくても良かったのに・・・」

 そして、二人は、葬列とすれ違う・・・、と、その時、葬列者たちが一斉に振り返り、二人に銃口を向け、撃ち始めるのだった。

 逃げる二人。

 鉄郎:「なんだ?」

 メーテル:「私たちを殺す気よ」

 鉄郎:「なんで?」

 ・・・かくして、二人は倒れた壁の土砂に埋まり気を失う。

 葬列の者たちは、そんな二人に涙を流し、埋葬をするのだった・・・。

   「見れば年若い少年と、美しい女の人・・・・・・」

   「こんな悲しいお葬式ってのは、めったにないわ。もう悲しくって涙が出てきちゃった」

 ・・・まあ、二人とも死んではいないので、最終的にはどうにか逃げおおせる。

 メーテルが、語るには、「そう・・・・・・、ここの人たちの一番好きなものはお葬式の悲しいムード。悲しいムードを楽しみたいために、人を殺す・・・・・・」。

 マンガ版では、その惑星の住民の特性の原初は語られていなかったのだが、アニメ版では、その星を訪れた異星からの移住者の「弔い方法」に新鮮なショックを受けた住人たちが、それ以来、その異星の葬式のムードに夢中になった等とメーテルが説明していたと思う・・・。

   
         (『銀河鉄道999』5巻・少年画報社)

 ・・・つまり、私の言いたいのは、アカデミー映画賞に『おくりびと』を選んだ会員たちは、メーテルの言った「・・・その星を訪れた異星からの移住者の「弔い方法」に新鮮なショックを受けた住人たちが、それ以来、その異星の葬式のムードに夢中になった・・・」と同じ現象を起こしたということなのである。

 「・・・そのアメリカを訪れた日本からの映画作品で表現される「弔い方法」に新鮮なショックを受けたアメリカ人たちが、それ以来、その日本の葬式のムードに夢中になった・・・」

   ◇

 それから、長くは書かないが、もう一つ、この『おくりびと』がはらんでいる重大な問題を記しておく。

 おそらく、この事については、雑誌『正論』辺りで、佐藤健志のボケが語ると思うが、

 この『おくりびと』には、神性が全くない。

 神を信じようが信じまいが、まあ、勝手だ。

 しかし、人間が神を信じ、宗教をつくり、その一番重要な「死の局面」に宗教の祭祀を導入したのには、訳がある。

 (・・・この意見に怒り出す保守派がいるのだろうが^^;)

 人が神を信じるのは、「死の恐怖から逃れるため」だからである。

 故に、この『おくりびと』においては、とてつもなく、物理的精神的に、死者への敬いを貫徹しているが、

 その儀式において、神仏概念が全く描かれていないのが、とてつもなく「片手落ち」と言わざるを得ない。

 完成度の高い映画であるが故に、その喪失感は、非常に大きい。

 その喪失感・・・、アカデミー賞の会員であるキリスト教国の住人にとっては、なんともいえない魅力に思えただろう。

 八百万の神々を擁する日本人にとっては、それは、冒涜にさえ感じる。

 ・・・「無宗教の慰霊追悼施設」みたいな矛盾を感じる作品なのである。

                         (2009/02/25)
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[二観目、映画『チェンジリング』]

2009-02-22 23:07:27 | 物語の感想
☆連れが観たいと言うし、私も、も一度観たかったので、一昨日に続いて『チェンジリング』を再観した。

     一回目の鑑賞のエントリーはこちら・・・[映画『チェンジリング』を観た](クリック!)

 ・・・やはり、引きつけられた。

 二度目にもかかわらず、二度目だからこその見どころもあり、二時間半、全く全く飽きる箇所がなかった。

 この作品は完成度が高く、私には語ることが少ない。

 それは親切な作りであるってコトだ。

 懇切丁寧な描写の積み重ねがあり、展開によどみがない。

 そして、引っ掛かりには、必ず「答え」が用意されている。

 親の「責任」と言う言葉が、序盤から提示されるが、途中で、クリスティンの「責任」と、警部の誤謬における「責任」が衝突する。

 実にエキサイティングだ。

 警部の言うところの「親の責任」も文法上は間違っていないが、そもそもの前提となる「事実」に誤認識があった。

 よく、文学上は「真実」がもてはやされるが、私は社会においては「事実」こそが最重要と考えている。

 「真実」には、多分に、歪曲の要素がつけ入る隙がある。

   ◇

 また、二つのキーとなるセリフがある。

 先ずは、自然な伏線として語られている。

   「ケンカはこちらから仕掛けるな。でも、ケリはつけろ!」

   「くたばりやがれ。このクソ野郎」

 この二つのセリフは、どちらも、後に、強固なクリスティンの「事実」に基づく闘争心を裏打ちする箇所で再び発せられる。

   ◇

 精神病院で出会う元売春婦の女が、自分が二度堕胎したことを語り、クリスティンに比して、自分が子供のために戦えない境遇に自らを進めたことを悔やむ場面がある。

 ここも物語を引き締める見事なシーンだと二観目で気づいた。

   ◇

 イーストウッドは、物語に鑑賞者が読み解くような謎をしつらえるタイプの作家ではない。

 故に、私たちは、イーストウッドの意図の見事さを今一度別の言葉で語ってみるしかないのだが、

 ネットサーフィンしていたら、この作品には、希望を意味する「7(ラッキーセブン)」の暗示が各所に隠されているとのテキストを読んだ。

 取調室が7号室だとか、作中で言及されるアカデミー賞が第7回だとか・・・、

 ちょっと面白いと思った。

   ◇

 私が、二度目で思ったのが、この作品に出てくる少年たちが全て「美形」であると言うことだ。

 それらが作り手の趣味だったら、やだなあ^^;

   ◇

 作り手の完全主義によって、物語にツッコミどころ(いい意味でのを含めて)がないと分かった以上は、私たちは、なにを語ればいいか?

 ・・・役者の演技である。

 そして、ここでも、子役を含め、各役者が万全の演技を見せてくれている。

 アンジェリーナ・ジョリーは、「うざい」ほどに、失った息子を求め続ける。

 これは、まさに、自分たちの捜査を信じていたジョーンズ警部にとっては、これほどに疎ましい存在はなかったろう。

 ジョーンズ警部は、観ている者にとっては「憎らしい」存在だが、果たして、私は、この人、かなり最後まで自分の捜査の正しさを疑っていなかったのだと思うのだ。

 そんな描写が多数ある。

 イーストウッドは、作中に謎を残していないと書いたが、そんなジョーンズ警部の心中や、

 後の、殺人者ゴードンが、「殺したのか?」「殺していないのか?」など、観る者によって幾つもの解釈が出来る箇所を残している。

 善意の牧師を演じるジョン・マルコヴィッチだが、見直して再認識するが、その語り口の落ち着き・説得力は見事で、それでいて畳み掛けるような口調に、やはり名優を感じさせられた。

 ヤバラ刑事や、各子役の演技もいい。

   ◇

 悲惨な話であるが、私は、誤解を恐れずに言えば、この作品を横田めぐみちゃんの御両親に見てもらいたい。

 この作品の最後で示されるものは、作品全てを引っくり返すような「生きる希望」だと思うのだ。

                      (2009/02/22)
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[映画『少年メリケンサック』を観た]

2009-02-21 00:03:36 | 物語の感想
☆音楽プロダクションの新人発掘の契約社員が、ネット動画で発掘したパンクバンド<少年メリケンサック>を、彼らが活躍したのが四半世紀前だということを知らずにスカウトし、後に引けなくなって全国ツアーに廻る寿司な話である。

 契約社員の女を宮崎あおいが演じている。

 大河ドラマ『篤姫』で主役を演じた女優だが、私は詳しくない。

 ただ、5年ほど前に、テレビ朝日のドラマ『R-16』(だったかな?)で、レズの同級生に自宅に監禁され、ベッドに括りつけられて、物を食べさせられるのもその同級生が与えてくれるスプーンから、という受難の役柄の女子高生をやっていた記憶があるのだが、それは私の妄想記憶であろうか?

 私は、その緊縛の仕方がぬるかったので、「てぬるいッ!」という印象を持ったものである。

 もっとキチキチに縛らなくては駄目なのである!

 シネマジックの『インモラル女子高生』シリーズや、最近では、プレステージの『高貴美少女学園』シリーズが大好きな私が言うのだから間違いない^^;

   ◇

 ・・・と、冗談はさておき、似たタイプとしては、私は榮倉奈々のほうが好きだと思っていたのだが、この宮崎あおいも可愛かった。

 そのちんまくまとまった容姿や、ヒモ彼氏とのイチャつきぶりなど、可愛くって可愛くって、可愛さあまって憎さ百倍なので、

 <少年メリケンサック>再結成のために、メンバーを巡り、メンバーにゲロ吐かれたり、馬糞を顔にぶつけられたりするのをはじめとして、ツアーの最中にコレでもかと苦難の状況に陥らされるのが、・・・うん、良かったです^^;

 この作品は、『精神的なSM作品』としても楽しめましょう。

 『魔人探偵脳噛ネウロ』のヤコみたいである。

   ◇

 ・・・と、冗談はさておき^^;

 佐藤浩市は、これはもう、完全に映画男優ですな。

 木村佳乃なみに、私の見る多くの映画に出ている。

 しかも、佐藤浩市に至っては、シリアスからコメディへと変幻自在である。

 とみに、私は、こわもてのイメージだった佐藤の、最近のコメディへの露出が実に好きだ。

 今回は、昔はパンクバンドでならしたが、今は、高円寺のピンサロの看板持ちのバイトで生計を立てている、端から見ると浮浪者然とした、けれど、根拠のない自信だけは人一倍あるという癖のある役を演じていた。

 ・・・余談だが、私は、高円寺のピンサロには造詣が深く、『ピンサロ「蟹工船」』というネット小説を書いているので、近日、このサイトに転載するので期待してください^^v

 今回も、佐藤浩市は、ライブで張り切りすぎて、楽屋でゼーハーゼーハーなりながら、アンコールを促され、それに対し、「ハーハー、アンコールやるくらいなら、もっとましな本演奏をしたよ、ハーハー・・・」というところなど、正直なのか生意気なのか、少年のわがままな言い分みたいで、実にいいのである^^

   ◇

 監督・脚本の宮藤官九郎だが、ここ数年の人気作家だが、私は良く知らない。

 二年ほど前の正月のドラマ『タイガー&ドラゴン』は楽しく見た記憶がある。

 ただ、この人のフィルモグラフィーを見ると、若者向けの作品のほかに、上記の『タイガー&・・・』の落語と言い、弥次さん喜多さんとか、舞妓さんとか、伝統ネタへの気配りを忘れていないのが、ちょっと「保身」を感じさせられ、みみっちいなあとは思う。

 しかし、ふんだんに詰め込まれたギャグの数々には、私は一人で観に行ったのだが、ゲラゲラ笑わせられた。

 序盤から、ユースケ・サンタマリアの妙なテンションのプロダクション社長や、ジャンル名不明(ムード演歌ロック?^^;)の変な歌を歌うテルヤなど、面白いキャラクターが続出するが、最初に声を出して笑ったのが、不覚にも嫌いなキャラクターのヒモ彼氏の「桜の歌」だった。

 「さくら」「さくら」を連呼した後に、「♪桜新町~」ときて、ブフッと笑った。

 これから後、私の笑いの沸点は上昇し、笑いっぱなしだった。

 これは下らないようでいて、宮藤官九郎が音楽にのせて狙ったギャグと思われ、作中でもう一回、メリケンのメンバーたちに「♪桜上水~」と歌わせている^^;

 また、佐藤浩市演じるアキオが、宮崎あおい演じるかんなに、「彼氏はチンコ大きいか?」と繰り返し聞くのだが、それこそが「男女関係の真理」の如くにいい、私は、繰り返し聞かされているうちに、それが正しいような気になってしまった^^;

   ◇

 この物語と、『デトロイト・メタル・シティ』(クリック!)は併せて見ると面白いかもしれない。

 重なる面が多々ある。

 笑える点が、相互補完されてもいる。

 ただ、『デトロイト・・・』が、一本筋が通った脚本であるのに対し、こちらは、いまいち取りとめがない。

 バンドメンバー内の兄弟の過去を、現在と並列に描いたり、日本の音楽史を紐解くような語り口であったり、インタビュー風景をインサートさせたりと確信的に、幕の内弁当みたいな作りにして、見ているこちらに作品のレッテル付けをさせまいとする目論見が感じられるが、その方式の収支を考えるとマイナスが勝っちゃっているような気がする。

 特に、私、前日、DVDで傑作『ガチ☆ボーイ』(クリック!)を見直してしまい、その完成度に感心していたので、微妙に方向性が異なるとは言え、比べてしまう自分がいました・・・。

   ◇

 作中で、アキオの弟ハルオ(木村祐一)がバンドの盛衰について語る。

 要旨は、うまく行っているときはいいが、少しでも躓くと、それぞれの方向性(金・人気・音楽界での現在の位置への安住・もっと前進)の違いが噴出し、空中分解をする、という話だった。

 私は、バンド経験はないのだが、その話を異性との交際に移し変えて考え、なるほどなあと思うのだった。

                       (2009/02/21)
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[映画『チェンジリング』を観た]

2009-02-20 15:59:10 | 物語の感想
☆昨夜、『少年メリケンサック』を観たのだが、『チェンジリング』が本日公開で、速報性を重視し、先に報告させて頂く。

 ・・・イーストウッド監督作品である。

 今、最も安心して、その新作を観ることができる監督だと思う。

 観てみると、驚くほど、その作家性は見られないのだが、映画本来の「ちゃんと物語を語る」・・・、それを徹頭徹尾、完璧に行っている。

 それが昨今では貴重な<芸術性>なのである。

 さて、その待望の新作『チェンジリング』である。

   ◇

 極上の「映画」であった。

 いつも言うことだが、私は完成度の高い作品には語るべき言葉が少ない。

 どこから、手をつければいいか分からないのだ^^;

 着実な「描写」の積み重ねが、至高へと極まっていた。

 例えば、途中で判明する大事件の舞台となった牧場だが、警察が別件で訪れたとき、斧やら鉈やらナイフがカットバックされる。

 この後の展開を考えると、あまりにも分かりやすい律儀な描写である。

 しかし、それが、最近の映画に欠落しているモンタージュでもある。

   ◇

 主演はアンジェリーナ・ジョリー・・・。

 この人、作品によって硬軟の使い分けが達者である。

 私は、この方が出演していた『グッド・シェパード』(クリック!)で、この方と知らず、「なんて綺麗な女優なんだ」と思ったら、『トゥーム・レイダー』のララだったので驚いた。

 『トゥーム・・・』のワイルドさと、『グッド・・・』の貞淑な雰囲気が、全く、私の心で折り合わなかったのだった。

 演技だけでなく、顔かたちも全く変わるんだもんなあ。

 今回の作品では、世界恐慌前年の頃のファッション・メイクに身を包み、電話局で働きつつ一人息子を養うシングルマザーを見事に演じている。

 先に書いた2作品のハイブリッドのような役柄で、一人息子の失踪を通して、腐敗した警察機構や、それを超越した「運命」と戦う<強い女>である。

 私は、リアクションにも時代性があると思う。

 主人公クリスティンが、多くの悪い情報を受け、細い手を顔に寄せて、口元をワナワナと震わせて悲しみをあらわにするさまなど、いかにも、その時代の「悲しみのリアクション」に見える。

 ・・・事実と異なる現実を与えられ、ひたすらに真実を求めようとするクリスティンは、警察の手によって、精神病院に入れられる。

 その展開は、私の去年のナンバー1作品『ブラインドネス』を彷彿とさせた。

 私は、どうも、極限状況下で、なおかつ、自分を信じ続けられる人間に共感を感じる。

 両作品とも、女性が主人公であるのは、時代の流れなのだろう。

   ◇

 クリスティンを助ける牧師をジョン・マルコヴィッチが抑え目の演技で好演していた。

 この人はガタイがいいので、更に際立った演技をかますとキャラが立ちすぎるからなあ^^;

   ◇

 ささやかなサイドストーリーとして、過酷な状況に陥ってしまったクリスティンの勤める電話局の上司がいて、控えめにクリスティンへの気遣いを示し続ける。

 この作品では、失踪した息子の生存の可能性と、その極限状況下での息子の、人間性を失わない生き方が示され、大きな<希望>を抱けるエンディングとなっている。

 しかし、くだんの電話局の上司の、クリスティンへの控えめな愛情が、クリスティン自身のこの先の幸せを案じさせてくれるのが素晴らしいのだ。

   ◇

 イーストウッドは、近日、主演もしているもう一本の作品『グラン・トリノ』の公開が控えているんだよね。

 楽しみだ^^v

                        (2009/02/20)
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[二つの歌詞]

2009-02-17 21:55:38 | 保守の一考
☆こうして、ネットで言論を発していると(ここでは映評が多いのだけど)、今まで、色んなバトルに巻き込まれてきた。

 私は、わりと、客観的事実に基づく自分の感情に忠実なので、討論では負けることはないし、間違ったときは素直に謝るし、状況的に負けても、事実が異なれば敗北感は抱かない。

 しかし、世の中には、言葉をこねくって、悦に浸る奴がいるものだ。

   ◇

 最近、こんな歌の詩を聞いて、ムカっときた。

 榎本くるみという人が歌っている『冒険彗星』の歌詞だ。

    《・・・ 痛みの数だけ強くなると言えた弱さを・・・》

 よく「痛みの数だけ強くなる」と言われる。

 それはそれでいいと思う。

 いい評語だ。

 それを、「・・・と言えた弱さを・・・」と打ち消すのもいい。

 だけども、その理由を絶対に書かなくては、ただの<言葉遊び>にしか過ぎないゾ。

 それが許されるなら、こんな言い回しだって成り立つ。

   「人には優しくしなくてならないという非情を・・・」^^;

   「人をなぶり殺しにするという優しさを・・・」^^;

   「レイプしまくる聖者の如き慈愛を・・・」^^;

 幾らでも考えつくわ。

 確かに、聞く者の耳には新鮮に聞こえるときもある。

 ネットに限らず、議論していると、このような逆説を語り、勝った気になる馬鹿が多いんだよなあ。

   ◇

 ひいらぎの『みず』という歌がある。

    《・・・泣きたい時は上を向かないで・・・》

 これも逆説である。

 泣きたい時は、上を向いて、涙をこらえるってのが、決まり文句としてあるよね。

 この歌も、定説否定の言葉遊びの捨て台詞なのか?

 ・・・だが、その後に、ちゃんと理由が記される。

    《・・・道端に咲く花に泪のみずをやればいい

        綺麗に咲いたその花だけは 君を裏切ることはない・・・》

 おお、いいね!^^

 ちゃんと納得できるゾ!

   ◇

 ・・・どちらの歌もいい楽曲ですけどね^^

                       (2009/02/17)
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[映画『チェ 39歳 別れの手紙』を観た]

2009-02-16 00:01:36 | 物語の感想
☆ケレンはないし、けしてドラマチックに描いた作品でないことは、『チェ 28歳の革命』(クリック!)を既に観ていたので分かっていた。

 故に、どうにも先ず観るロードショー作品は娯楽作優先になり、『チェ 39歳 別れの手紙』は公開から観るのが遅れていたのだが、昨日、観てきた。

 今回は、チェ・ゲバラの、キューバ革命成功後のボリビアに飛んだ後の「革命継続・滅びの道」の姿を描いている。

 この後編、評判が悪いようだが、私は前編に劣らず楽しんだ。

 いや、私の好きな「滅びの美学」を突き進むゲバラ一行の旅は、前編以上に物語的な魅力を兼ね備えていた。

 序盤は、前作とほとんど同じなのである。

 相変わらず、坦々としているのである^^;

 だから、私は今、感想を書くのに腐心している^^;

 ゲバラは、先ず小さな集団から、名前をお互いに言い合い、握手をし、肩を叩き、信頼を気づいていき、森の中を進んでいく。

 そして、焚き火を囲んで、革命について語り合う。

 しかし、その輪は一向に広がらない。

 そこには、キューバとボリビアの国民性の違いがあるのだろうか?

 私の持論なのだが、地政学(と言えるのか^^;)上、ボリビアやラオスや栃木県など、海岸線を持たない国の国民には、何らかの精神的な特徴があると思うのだ。

 ゲバラが「革命の輸出」を画策したボリビアで、それが成就しなかった背景には、海岸線を持たない国民の性格的な特質があったと、私は考えるのだ。

 ただ、私は、ゲバラの敗走の道行きには、「新撰組の散華」に近い魅力を感じた。

 そして、ゲバラ一行が移動する、ボリビアの高原の村々は魅力的であった。

   ◇

 ゲバラの目指した「革命の輸出」だが、私の考えでは、その失敗は見えていた。

 なぜかと言えば、そこにはゲバラ自身の行動哲学の必然があるわけではないからだ。

 私は、こうして、ネットで精力的に書いてきて、二つの大きな戦いを経てきた。

 片方は、政治思想グループとの言論及び道徳犯罪糾弾戦、

 もう一つは、とある派遣会社との労働条件及び犯罪糾弾戦であった。

 どちらも、私は、勝利側にいた。

 そして、いつか、第三の戦いが起こるだろう。

 しかし、ゲバラのように、「戦い」そのものを目指して戦ってきたわけではない。

 どちらも、そして、これからも、やむにやまれない思いの帰結であるからだ。

 私は、ゲバラの行動が、思想から、戦いそのものに変貌してしまい、それゆえに、ボリビアの失敗を生んだと考えている。

     
     (『幽☆遊☆白書』の敵役が、主人公に言い放った名セリフ)

                     (2009/02/16)
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[映画『フェイク シティ/ある男のルール』を観た^^]

2009-02-15 15:28:21 | 物語の感想
☆予告編の印象では、もうちょいネチっこい復讐系の作品だと思って、相応の気構えで映画館に入ったのだが、現代の刑事物と言う舞台設定もあり、ハードボイルド臭も、クライムサスペンス臭も控えめで、小気味いい作品として楽しめた。

 印象として、『ダーティー・ハリー』や『マンハッタン無宿』、『ネヴァダ・スミス』のような往年の切れ味のいい作品のようだった。

 主演のキアヌ・リーブスは、キワ物とも思われそうなSF大作ばかりに出ないで、このような作品に、さりげなく出ずっぱりになって欲しいものだ。

   ◇

 物語の途中で分かることなので、書いちゃってもいいのだが、でも、書いちゃうのがためらわれるのだが書いてしまえば、この物語は、犯罪を取り締まる刑事の話のようでいて、実際は、警察内部の腐敗を描いている。

 そういった作品はえてして、組織内の犯罪が何ゆえにこれほどまでに大仕掛けになるまで露見しなかったのかという、なんか話に矛盾と言うか、解せなさがつきまとうものだが(今、パッと思いつくのが『バックドラフト』)、この作品は、犯罪事件は外部外部へと向かい、最終的に内部へと戻る構成になっており、それが順を追った捜査の結果なので、閉鎖的なイメージはなく、リアリティが感じられた。

 けして大作めいた仕掛けを施さなかったのも、完成度を高めている要因だろう。

   ◇

 キアヌは、『地球が静止する日』(クリック!)に続いて、表情に乏しい役柄だったが、その行動は激しく、また、結構、口もきく性格なので、ハードボイルド作品の主人公のような性格の固定化が避けられていて良かったと思う。

 また、彼のワンマン行動が結局は事件を全ての解決に導くのだが、それに至る流れには必然が感じられた。

 わずかな、見ている側の疑問も(ここは助けを呼ぶべきだったんじゃないか? とか)、最後に出てきた内部調査の警部との会話で胡散霧消する。

 若き刑事のアクションを身軽に描くも、なぜか深みが感じられるうまい脚本だったなあと思いつつ、エンドクレジットを眺めていると、この作品がジェームズ・エルロイの原作・脚本だと知った。

 シンプルな輪郭のキアヌが、やや疲れてたるんでいる顔に変貌していたのだが、なかなか格好良かった。

 私も、主人公のようにいつも飲んだくれているが、今夜は是非、ウォッカのポケット瓶のぐい飲みにチャレンジしたいものだ(さすがに、飲酒運転は出来ないが^^;)。

 スミノフに、ウォッカ小瓶があったよなあ。


 
        (で、でかっ・・・^^;)

   ◇

 上司役のフォレスト・ウィテカーは、安心して見られる演技で存在感あった。

 この作品の原題は、「Street King」だそうだが、ある意味、ウィテカーの当たり作『ラストキング・オブ・スコットランド』の<キング・第二章>という趣きでもありましたな^^;

                        (2009/02/15)
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[ヴァレンタイン・デーに思ふ (境界線の復活を!)]

2009-02-14 23:58:33 | 保守の一考
☆・・・戦争が科学の進歩を生んだという、やや暴論だが真実がある。

 そういった真実や事実を「暴論だから」と消し去ってしまうような、語ることも許さない風潮を、現在の左翼マスコミは作りあげている。

 スタンリー・キューブリックの『2001年 宇宙の旅』の冒頭では、水飲み場の取り合いをする類人猿たちが、獣の骨という「兵器」を用い、ライバルを殴打・駆逐し、その「道具」の使用を原初とし、科学の進歩が21世紀の宇宙ステーションへと飛躍する様が描かれていた。

 まあ、そのことは、いいや・・・。

   ◇

 で、昨日はヴァレンタイン・デーで、私は2個のチョコを頂いた^^;

 それはそれで嬉しいのだが、昨日の通勤時に、ラジオで聞き捨てならないことを知った。

 最近は、男が女に送る「逆チョコ」や、女の子たちが友人同士で送りあう「友チョコ」なるものが流行っているのだという。

 確かに、欧米の本来のヴァレンタイン・デーは、男が好きな女にプレゼントを送る日なのだそうだが、日本においては、女が好きな男にチョコをプレゼントする日として、数十年の「歴史」を経ている。

 日本においてのルールは、それで良かった。

 また、その、ちょい変格の「義理チョコ」なるものも、許せる範囲だと思う。

 だが、「逆チョコ」や「友チョコ」の出現は、その日本におけるヴァレンタイン・デーの存在の根幹を揺るがすものだと思う。

 いや、私は、同性愛者の人が、好きな同性にチョコを送ることさえも、変格の範疇であると考え、許す。

 しかし、「逆チョコ」や「友チョコ」は、駄目だろう。

   ◇

 欧米の若者向けの映画などを観ると、男が、学園祭のパーティーなどに「女をダンスに誘えるか、また、連れて来れるか」などが、大きなイベントとして存在している。

 『ハリー・ポッター』や、最近観た『ハイスクール・ミュージカル』(クリック!)などでも描かれていた。

 パートナーを誘えない男は、一人寂しく酒を飲み、誘われなかった女は「壁の花」になるしかないのだ。

 そこには、冷徹な結果があり、それは、大人社会の厳しさの一縮図でもある。

 そこに「救済措置」は施されない。

 あぶれた者は、ネクスト・チャンスに雪辱を期すのだ。

 それが、成長を生む。

    ◇

 日本においては、ヴァレンタイン・デーは、一年に一度の、女が男に好意を伝えられる日であった。

 その「勝負の日」に、女に勝負をさせない、もしくは、女の決断をぼやかすような、「逆チョコ」や「友チョコ」の存在を、私は認めることは出来ない。

 そんな細かいことを、認める認めないなどとほざくのはおかしいと思う方もいるかもしれないが、個々人で行うならば良いが、それを、マスコミや菓子会社というシステムが煽ったとき、人間の通過儀礼としての「避けざるを得ない勝負」から、人を遠ざけることに他ならなくなる。

 日本のヴァレンタイン・デーには、女から男へという、ルールがあった。

 それは越えてはならない「境界線」であった。

 近年、ジェンダーフリーや外国人参政権など、性や国家間民族の境界線を取っ払って、それを「進歩だ」「平等だ」「自由だ」と、「進歩」や「平等」「自由」という素晴らしい言葉を地に貶める左翼的人物が跳梁跋扈している。

 私は、先ほど、同性愛者が同性にチョコをあげるのは認められると書いたが、これは、本当の「性同一性障害者」みたいな特殊事例に対してのみである。

 けして、ジェンダー・フリーなどを認めているわけではない。

 病気の方までも、反フェミ原理主義者(形を変えた左翼)のように糾弾するつもりはない。

 言いたいのは、日本で育まれた、ヴァレンタイン・デーという、お菓子会社に乗せられて誕生したルールであろうとも数十年の歴史を経た・・・、そのことこそが「進歩」であり、

 いかなる女性もおおっぴらに好意を告白できることこそが「平等」であり、

 告白された男が、どのような返答でもできることこそが「自由」なんだよ、ってことだ。

 ヴァレンタイン・デーと言う、ある意味、女の恋の「戦争」が、女性個々の「成長(進歩)」を促すのである。

                         (2009/02/14)
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[映画『ハイスクール・ミュージカル ザ・ムービー』を観た]

2009-02-13 21:00:26 | 物語の感想
☆簡単に感想を記しておく。

 高校を卒業する若者たちが、進路や、その恋との両立、才能への挑戦に悩むという定番物語をミュージカルに乗せた作品だ。

 アメリカのテレビ番組で、この映画に至る物語は展開されていたそうで、最近、平日の昼間にテレビ放送されていたが、私は見ていない。

 見ていたほうが、この映画完結版への感動も増すのだろうけど、見ていなくてもまあ理解できるようなシンプルなスタイルの作品だろうと思う。

 実際、私は、「色々あったんだろうなあ」と、いちおクライマックスでは涙を浮かべておいた。

 そんな私を変な男に思う方もいるだろうが、『フランキー&ジョニー』という映画では、アル・パチーノが知りもしない人間の葬式で泣くのである。

 私は、かつてのアル・パチーノが大好きなのでいいのである。

 ・・・そして、だ。

 私は、こうも思っている。

 泣ける映画がいい映画ではない、と。

 つまり、この『ハイスクール・ミュージカル』だが、それなりにホロリときたが、けして、私の心にジャストフィットした作品ではないのだ。

 その理由を二つ、書いておきたい。

   ◇

 一つに、私が「オヤジ」になってしまったということである。

 言葉や物語の流れでは分かるのだが、どうしても、このアメリカのティーンエイジャーの気持ちに「当事者」としての感情移入ができなかった。

 あるいは、それは、日本人と米国人の考え方の違いからくるものなのかも知れないが、う~ん、それは、ないな^^;

 私は充分、洋画で示される海外の各国の価値観でも心を動かされている。

 ならば、私の「青春」に、『ハイスクール・ミュージカル』で描かれたような「陽性の輝き」がなかったからだろうか・・・?

 ・・・それは、考えられる。

   ◇

 もう一つは、つい先ごろ観たミュージカル作品『マンマ・ミーア』(クリック!)と比べたときの、『ハイスクール・ミュージカル』のチープ感である。

 いや、『ハイスクール・ミュージカル』では、なかなか豪勢なセットの数々を組んで、出演者のギャラにおいての差異はあろうけど、物理的なチープ感はない。

 そして、おそらく、表現されているダンスなども、『ハイスクール・ミュージカル』のほうが斬新なものだろう。

 では、その「チープ感」はどこからきたかと、私は考えるのだ。

   ◇

 ・・・私は、カンボジアに10回行った事があるのだが、アンコール・ワットに代表されるアンコール遺跡には無数の大伽藍がある。

 二つに大別すると、ピラミッド型と平面展開型がある。

 私は、そのピラミッドタイプのアンコール遺跡のほうが好きだった。

 『マンマ・ミーア』と『ハイスクール・ミュージカル』の違いは、そこにあると思う。

 『マンマ・ミーア』の、ミュージカルの舞台となる場所は、ギリシャの島という、作り物のセットではない風光明媚な自然のロケーションの中にある。

 切り立った島の岸壁に、舞台となるホテルが建っていた・・・。

 その立体的(ピラミッド型)な舞台の中で、主人公たちは上下左右前後に歌い踊っていた。

 対して、『ハイスクール・ミュージカル』では、そのほとんどが、閉鎖空間の舞台セット(平面展開型)の中でのミュージカルなのである。

 自然のロケーションとセットでは、見る者の好みもあるのだろうが、何がしかの差もつくだろう。

 私は、大ロケーションの中でのミュージカルに映画的な爽快感を得、優越点としたのだ。

 ・・・だって、みんな、『ハイスクール・ミュージカル』の、校舎屋上のシーンで、背景に青空に雲がもくもく湧いているけど、他のシーンに比べ、爽快感を感じなかったかな?

 あるいは、最後の、屋外での卒業式シーンの開放感・・・。

   ◇

 高校生が主人公なので、出演者のほとんどが若く、ハリウッドスターのような貫禄に欠けているけど、

 私は、日本のオシャレ女子高生風のシャーペイ役のアシュレイ・ティスデール(口角を吊り上げているのが魅力)と、

          

 小さくて可愛いケルシー役のオレーシャ・ルーリンが気に入りました(アンジェラ・アキを少女にした感じのメガネっ娘)。

          
          (メガネしてない・・・)
                      (2009/02/13)
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[映画『13日の金曜日』を観た]

2009-02-13 16:28:11 | 物語の感想
☆私は、『ゾンビ』系以外のホラーにはあまり思い入れがなく、「13日の金曜日」シリーズも、小学校時代にテレビで放送されたときに、子供としての興味で楽しんでみたくらいしかない。

 今回、膨大に量産されたシリーズの一作目をリメイクするということで、現代に、その一作目をよみがえらせるということには、それなりの意味があるのだろうかと、本日が「13日の金曜日」であることも含め、興味深々で劇場に向かった。

 先だって、これもホラーの古典である『ハロウィン』(クリック!)がリメイクされ、全体の出来はともかく、その前半の物語に、現代的な恐怖のアレンジをされていたので、それと似たものを期待していた。

   ◇

 観終えた結果としては、あまり、現代性や、殺人鬼の異常な感情の解析などというものは頓着されず、現代の撮影技術できっちり作りましたレベルの、「佳作」相当の作品としてしか評価できないのが、ちょいと不満だった。

 ただ、冒頭、古式ゆかしいオリジナルに則ったキャンプパーティーが、クリスタル湖で、殺人鬼ジェイソンに惨殺されるエピソードが語られるのだが、

 私は、それが本編と思っていたのだが、その後にタイトルが表示され、ああ、この昔ながらの展開は、プロローグに過ぎなかったのかぁぁぁ! と、驚かされた。

 そもそも、オリジナル版の記憶があやふやなのだが、かなりアレンジされているようだ。

 その後、おそらく、新しくジェイソンの個性付けとしてだろうが、母親への思慕としてプロローグの中で唯一生き残り、ジェイソンの囚われの身となった妹を、その兄貴が探しにくる。

 その兄貴に、これまた「被・惨殺要員」として、別荘地にやってきた若者のパーティーが絡んでくる。

 「被・惨殺要員」などと馬鹿にしているようだが、そんなことはない。

 彼らは、ジェイソンによって、個性的な死に様を与えられ、観ている者を飽きさせない。

 その恐怖や、死の瞬間のリアクションもリアルだ。

 特に、湖での殺戮が斬新だった。

 水上スキーを楽しむカップルの男がボーガンで頭蓋骨を貫通させられ、水中の女は、ドライバー不在のボートに頭を「ゴン!」と強打させられる。

 水中でふらふらしつつ、湖岸を眺めた女は、そこに立つジェイソンの姿を見る。

 私は、白昼に佇む殺人鬼というものに恐怖を感じる。

 太陽光と殺人鬼という、相容れないもの同士の同居は、ミスマッチに怖いものだ。

 他のシーンでは、どこかしら以前に見たようなシーンの連続で、でもきっちりと作られていたので不満はないのだが、私は、この湖上の惨殺シーンで、ちょいと作品の出来へのポイントを付け加えた。

   ◇

 さて、私が、この作品で特筆すべきことは、「おっぱい」だと思うのだ。

 かような古典的なホラーには、若者のエロシーンがつきものである。

 例えば、アダルトビデオなどで見る「おっぱい」とはちょいと違った趣が、ストーリー作品の中で見る「おっぱい」には、魔力としてある。

 この作品には、3セット計6個のたわわなるかな乳房があらわになる。

 『王妃の紋章』(クリック!)での<おっぱい祭り>に次ぐ、<第2次おっぱい祭り>と言えよう。

 では、おっぱいの解析と、その死に様を描こう。

 ①プロローグでのパーティーの女・・・キャンプファイヤーを前にして、間に男を挟んで座るカップル。
 間の男には分からないように、シャツをはだけさせて「おっぱい」を彼氏に露出。
 白人の女だが、夜間であり、褐色に見え、カフェオレのように美味しそう。
 また、オイルを塗っているので、テラテラと光っている。
 私は、新鮮なショックを感じた。
 ・・・この女、ジェイソンによって寝袋に押し込まれ、ロープでグルングルンに巻かれ、キャンプファイヤーの上に掛かる枝から、ぶら下げられる。

       <燻・蒸・惨・殺>

 ②湖で水上スキーをやる女・・・トップレスで、健康的に湖上を滑る。
 手ごろな大きさの白い肌のおっぱいは、青空の下、映える。
 別にトップレスになる必要性はないのだが、その作り手のサービス精神に感服。
 しかし、前記した理由で、湖岸のジェイソンを避けるように、木製の桟橋の下で息を潜める。
 だが、桟橋の板を貫通させたボーガンの矢で、脳天から刺され、そのまま、桟橋下の天井板部分まで引き下げられる。
 それまで水面下であったおっぱいがあらわになり、「板がキスしても、おっぱいは死せず(板垣死すとも、自由は死せず)」てな感じでした^^;

       <串・刺・し・惨・殺>

 ③金持ちのボンボンとまぐわう女・・・うわっ、この人のおっぱい、大きいし綺麗だな、と思っていたら、その女とやっている金持ちの息子が、いちいち「大きい」「形もいい」「最高だ」「とにかく、おっぱいだ」と私の気持ちを代弁してくれるので、私は、私が「サトラレ」になってしまったのかと思った^^;
 ・・・この女は、ジェイソンに力任せで、部屋の壁に出ていたフックに貫通させられて殺された。

       <「脱いだら衣紋掛け」・惨・殺>

   ◇

 まあ、見て損はないオッパ・・・、いや、作品だと思う。

                        (2009/02/13)
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[雇用危機の一要因]

2009-02-10 23:12:02 | 保守の一考
☆通勤途中に、埼玉のFMラジオ「NACK5」をいつも聞いている。

 朝は、大野誠太郎(思想的には微妙)の「ウォーミング・アップ・ミュージック」だ。

 いつも、聞くともなしに聞いている。

 「派遣切り」の問題も、リスナーの意見を交えて、よく話題にしている。

 昨日、以下のような内容のメールが読まれた(うろ覚え・要約)。

   ◇

 《・・・私は、10年以上、ハローワークに厄介になっている「ふなむし」と言います。

  昨今、雇用不安・雇用危機が叫ばれておりまして、多くの原因が語られていますが、

  私が、「これが原因だ!」と思っているのが、

  1999年に施行された<男女雇用機会均等法>です。

  あれにより、自然に成り立っていた男女の適材適所の就労が崩れ、

  性差が選んでいた職業に、無限の選択肢ができてしまい。

  それによって、はてしない「無駄」が生まれてしまい、

  それが積もり積もって10年・・・、今の雇用崩壊が始まったと思うのです。・・・》

   ◇

 「ハローワークに十年も厄介になっている」という最初の言葉が気になるが(^^;)、正直、この意見は、「派遣」をはじめとする「雇用」問題をここ二年ほど考え続けてきた私にとって、妙な説得力をもって響いてくるのだ。

 ・・・例えば、男が行うべき職場に、女性がやってくる。

 法律によって、企業は、その女性と面接し、ある一定の「時間」、人事担当は会社説明を行ってみる。

 そこで費やされるお互いの時間・・・、経費(予算)・・・。

 その現場での就労を断念する女性がほとんどだろう。

 数パーセントの女性が、その現場で働いてみる。

 その女性に教育を施す手間・・・。

 教育係・女性双方の時間・・・、経費(予算)・・・。

 そして、何割かの女性は、辞めていくだろう。

 その状況における「膨大なる無駄」・・・。

 企業側が新しく卸したユニフォーム代、そのクリーニング代・・・。

 このような、就業における固定化は、男女に限らない、男であっても起こり得るし、根気のない野郎はすぐに辞める。

 そんな過酷な状況でも、一部の女性は立派にやり遂げるというメリットもある、が、それはほんの一部の素晴らしき良きかな、でしかない。

 だが、上で記したような「無駄」が、社会を良くするべき新しい法律で生み出されたデメリットだと考えると看過できない。

 少し想像を働かせただけで、「男の職場に女性が入る」という1パターンをシミュレートしただけで、かように、企業進行上の多くの「浪費」が垣間見られる。

 いや、こんなシンプルな「連鎖」だけではない。

 それこそ、そこに介在するかもしれない派遣会社の営業の徒労や、ハローワークでプリントアウトされるコピー用紙の枚数まで、「連鎖」は止め処もない。

   ◇

 おそらく、この<男女雇用機会均等法>の施行時、保守派論客の多くが、異を唱えていたのだと思う。

 10年ほど前の話題なので、私はよく思い出せない。

 しかし、その時、ピンとこなかったのだが、今、社会風潮として体験している「雇用危機」を目の当たりにして、上記の<ふなむし>さんの意見が、妙に核心をついているような気がしてならないのだ。

                      (2009/02/10)
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[映画『ベンジャミン・バトン』を観た^^;]

2009-02-08 09:12:21 | 物語の感想

☆非常に面白かった^^v

 観ている3時間、思ったより劇的な展開は抑えられていたのだが、味わい深い展開が、私の目を逸らさせなかった。

 この作品は、ブラッド・ピット演じるベンジャミンが、末期の老人の身体で生まれ、そこから年を経るに従って、(これは当然だが)彼を取り巻く世界は通常に流れていく中で、ベンジャミン自身だけが身体の成長の逆行現象を起こし、若返っていく、というところが物語の特別な前提となっている。

 故に、「数奇な人生」という副題がついている。

 しかし、観終えてわかるのが、ベンジャミンは、特殊ではあるが、全く、「数奇な運命」を送っていないのが面白い。

 ベンジャミンは、ちゃんと、普通の人生を送り、・・・そう、普通の人以上に青春を謳歌できているのだ。

 例えば、ベンジャミンが老体の頃に出会い、運命の恋に落ちる少女・デイジーがいる(写真の美少女)。

 そこでの、デイジーとの逢瀬は、「幼馴染」との交歓の如くである。

 真夜中のキッチン(?)のテーブルの下での、ベンジャミンのデイジーとの心の触れ合いなど素晴らしいシーンだ。

 ちょっと話がそれるが、幾らでもドラマチックにできるそんなシーンを、作り手は、非常に短く描く、そんな展開を3時間の上映時間に詰め込んでいる作り手の姿勢が豪勢である。

 ・・・で、若返ったベンジャミンと、妙齢に達したデイジーは再会し、お互いの、正反対の成長の交差した一瞬、猛烈に愛し合う。

 この「刹那の恋」は、特別な悲恋か?

 ・・・否である。

 「恋」の期間は、どんな人間にも等しく、短い期間でしかない。

 故に、このベンジャミンの物語は、その身体の特殊性によるものが面白いのではない。

 ベンジャミンという「普通の人間」の人生が面白いのである。

 いや、交差して、ベンジャミン以上に描かれるデイジーの人生も、非常に面白い。

 可愛らしいデイジーが成長し、美しくなり(ケイト・ブランシェット)、その過程で、あまりにも性に対し奔放な時期が描かれる。

 そのリアルな描写に、観ている私たちは、ベンジャミンもろとも、「そうなっちゃっているのだから、しょうがない」と、切ない気分を感じさせられる。

 デイジーが美しすぎるのも問題だ^^;

   ◇

 ベンジャミンとデイジーだけではない。

 この物語は、淡々と、坦々と、ベンジャミンと多くの人物の係わり合いが描かれる。

 外見は老人だが、中身は子供のベンジャミンが、素直に、そして、老人の顔で、でも幼いので、面白い周囲の人間たちにうまいリアクションを取れず、無表情であることなどで、なんともユーモラスな「すっとぼけた」味わいが物語全般のイメージとして起こり、実に面白い。

  拾ったベンジャミンを愛情込めて育てた黒人夫婦・・・。

  ベンジャミンが育った老人ホームの老人たち・・・(落雷男・ピアノロンリーウーマン)。

  ベンジャミンが歩けるように奇跡を起こし、直後に死んだ黒人神父・・・。

  ピグミー族の若者・・・。

  ベンジャミンを捨てたが、後に改心する実の父親・・・。

  老人のベンジャミンを船乗りとして雇ってくれた全身入れ墨の船長・・・。

  チェルシー号の面々・・・。

  北欧(ロシア?)で知り合う英国のスパイの妻・・・(この方のエピソードは素晴らしい)。

 作り手のデビッド・フィンチャーは、対象にやや距離を置いた語り口の監督だが、それが物語をウェッティにさせず、だが、それ故に、観ている者の心に合致したとき、大きな感動を生む。

 ベンジャミンの人生に、近代史(大戦~宇宙開発~ビートルズなど)をうまく配させているのも心憎い^^

   ◇

 それぞれの人々との出会いは、何がしかの教えをベンジャミンに授けただろう。

 しかし、それらの教えに、整合性はつけられない。

 私はそこに、作り手の抑制を感じた。

 もし、人々との出会いで示されるものが、一つの事象に誘導集約されていたら、この作品は凡百のものに堕していただろう。

 なぜなら、ベンジャミンに限らず、そんなテーマに沿って展開されるのが「人生」ではないからだ。

 ・・・だが、それでも、整合性のない出会いを通し、形作られる「一個の人間」が、整合性の帰結としてあろう。

   ◇

 若返りを続け、無垢な存在になるベンジャミンと、老い続け、無償の愛で見守るデイジー。

 幼児となったベンジャミンと小道を歩くデイジーの後姿に、私は無性に切なさを感じた。

 「無垢の存在」であり、「無償の愛」である。

 人は、つくづく、時を経て、「無」に近づいていくのだなあ。

   ◇

 PS:ところで、落雷おじさんは、7回カミナリに打たれと言い、その都度、サイレント映画風の再現映像が出て、館内に笑いが起こったのだけど、あの再現は7回行われていたのでしょうか?

 私は漠然と数えていたのですが、6回しかなかったような・・・?

   ◇

 PS:この作品を好きになった方は以下の作品にもあたってみて下さい。

     手塚治虫著        『火の鳥;宇宙編』
     ダン・シモンズ著     『ハイペリオン』
     ピーター・セラーズ主演  『チャンス』
     フランシス・コッポラ監督 『ジャック』

 ベタだが、ダニエル・キイス著   『アルジャーノンに花束を』

 あるいは、ペニー・マーシャル監督の、「一瞬の輝き」を描いた諸作品。
     『ビッグ』『レナードの朝』『プリティ・リーグ』

                       (2009/02/08)

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[悪い方向への<実現可能性>]

2009-02-06 21:10:43 | 保守の一考
☆前回、[田母神論文がワヤにしたもの]を書いたときに、失敗したかなと思ったのが、私が要約した、その自衛隊幹部の方の主張に、閲覧者が、「アメリカ寄り過ぎる」という感想を抱かなかったか、という点だ。

 もし、そう思われてしまったならば、私の文章表現ミスである。

 保守派の中では、日本の自立を語るとき、原理主義的とも思える「日本の純粋自立」を語らないと怒り出す方がいる。

 現実的にはアメリカを抜きには語れない、などと言おうものならば、語りだしの最初から「アメリカ込み」では駄目だ! 独立独歩の気概がないようでは、最初の時点から駄目だ! などと、おでこに青筋立てて口角泡を飛ばす方たちがいる。

 しかし、その自衛隊幹部の方は、もっと慎重な語り口であった。

 その方は、自分の思想を開陳したわけではない。

 状況を客観的に冷静に俯瞰すると、あのような結論に至ったと思われる兵頭二十八氏と、結論をシンクロさせるしかないのだろう。

 この方は慎重な人物なので、くだんの私のエントリーにはノーコメントであるが、最近送ってきたメールの中で、

     「実行可能性」

 と言うことについて言及していた。

 言葉通りの意味である。

 日本男児としての常識となる気概(精神性)は持ち合わせてはいるが、現在の日本の自立は、アメリカとの同盟関係を考えなくては、「実行可能性」が0%に近いから語らない、ということなのだろう・・・。

   ◇   ◇

 『正論(3月号)』では、私も所属している日本教育再生機構(クリック!)の理事長・八木秀次先生が、<民主党政権で何が起きるか>という文章を書いている。

 こうある。

 《・・・民主党が政権を取れば、結果としてその有力支持団体である日教組や自治労、部落開放同盟、民団・朝鮮総連、その他の左翼市民団体の影響力が大きくなる・・・》

 それぞれに詳しい注釈をしないが、名前を聞いただけで、みんな、「えっ! そんなこと知らなかったよ~!」と言いたくなるような組織ばかりだろう。

 日教組の問題については、近日、その対決者・松浦光修先生を紹介する中で語ろうと思う。

 また、こうある。

 《・・・(共産党)候補者のいない選挙区では共産党票は民主党に流れるだろう。票をもらった民主党は共産党を無視できなくなる。連立はしなくても事実上の閣外協力となろう。かつて言われた民主連合政権、すなわち容共政権ができるということである。・・・》

 自民党から悪いことして追い出された奴らは、政治信条に頓着なく共産党とも組むのである。

 かように異常なキメラ政権ができたら、もはや、日本は空中分解する。

 わかるかい?

 日本の国政に、民団・朝鮮総連が介入してくるのだぞ。

 それが、「マニフェスト」などという「実行可能性」が0%の、綺麗に着飾った公約とともにやってくる。

 ・・・日教組、自治労、部落開放同盟、民団・朝鮮総連、その他の左翼市民団体、そして、共産党が、キメラ民主党のこさえた「マニフェスト」などをビタ一文許すことはない。

 次の選挙で、自民党が下野するようなことがあれば、

 日本崩壊の「実現可能性」は、80%になる。

                       (2009/02/06)
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[映画『シャッフル』を観た]

2009-02-06 14:36:11 | 物語の感想
☆この作品、ネット上でとても評判が悪かった。

 でも、よくできた作品じゃあないですか!

 つくづく、ネット上での批評の無責任を嘆かされた。

   ◇

 物語は、『レボリューショナリー・ロード』の如く、愛を誓い合った夫婦がマイホームを得て、そこで二人の娘にも恵まれ、幸せに暮らしはじめて数年後の物語だ。

 ある昼下がり、妻(サンドラ・ブロック)は、夫が交通事故で亡くなった訃報を聞く。

 しかし、悲しみにくれて、翌日、目覚めると、死んだはずの夫がキッチンにいるのだった・・・。

 展開を明かすと、妻は、一日ごとに順番の異なった一週間をすごす事になってしまうのだった。

 翌日は夫の葬式、でも、その翌日は、夫の出張前の日・・・。

   ◇

 その、歪んだ時間軸で生きていく妻に、見ている私たちは、幾つもの矛盾を感じるのだが、たとえば、「この妻には、そもそも、毎日の曜日の概念がないのか?」とか、

 でも、カラスの死骸やワイン、睡眠薬、愛人、長女の傷など、後から考えると、矛盾はない(いや、矛盾はあるが、そこに隠された意味がある、か・・・^^;)。

 そして、妻に曜日の概念がないのも、夫の死を聞いた日だけで、その後は、夫の死のショックの前にあっては曜日の概念喪失も致し方ないと納得できる。

 そのように、矛盾への疑問は解消され得るような表現をちゃんと付している。

 警察に、夫の死を知らされた瞬間、妻は気が動転し上の空になり、警官の声を遠くに聞く。

 ・・・遠くに聞こえる。

   ◇

 余談だが、私は、『20世紀少年:第2章』を酷評した。

 その原因の一つに、「音が遠くに聞こえる」があったと思う。

 サウンドは、「総合芸術w」と言われる<映画>の重要な要素である。

 しかし、本日、MOVIX昭島に行き、告知を見て「デジタル音響設備の不調」があったことが判明した。

 もし、正常な音響で聞けば、セリフの聞き取りづらさもなく、私の評価ももっと高かったはずだ。

 私の評を読んで、『20世紀少年:第2章』に悪いイメージを持った人がいたら、関係者に申し訳なく、

 私は、つくづく、おおやけで映画(に限らないが)を語ることの責任感の重要性を考えさせられた。

 ・・・だから、作品本来の出来とは別の事情で、この『シャッフル』を酷評する人に、どうにも疑問を持たせられる。

 他のブロガーの評価など無視して、自分の素直な気持ちで観たら、この作品は及第点以上の評価は与えられよう。

   ◇

 この作品に似た時間テーマの作品として、時間ループネタの諸作品が挙げられよう。

 『恋はデジャブ』『うる星やつら・2』『ジョジョ・第四部』などなど、これらは、時間のループに囚われた者たちが、その「運命」から脱出することがテーマのエンターテイメントであった。

 この時間ループに対し、時間シャッフルは斬新である。

 だから、その斬新なアイディアに頼り切りの作品かと思っていた。

 もしくは、「夫の事故死」という<運命>から逃げ切る物語かと思っていた。

 だからと言って、そんな自分の先入観で、物語をこき下ろすのも失礼だし、私は、新たに提示されたテーマにも納得した。

 ・・・この、ドイツから招聘された監督(メナン・ヤポ)の目指したテーマは、「悲劇的な運命を避ける」にはなかった。

 運命の中で、どう生きるか・・・、なのであった。

 だから、時間シャッフルの中で、妻は必死でもがくが、客観時間での矛盾はなく、結果は運命どおり、妻の回避行動も「込み込み」のクライマックスとなる。

 だが、もがいてもがいたおかげで、「希望」を宿したエンディングとなる。

 それこそ、『レボリューショナリー・ロード』なみに、「夫婦」について考えさせられる。

 また、『レボリューショナリー・ロード』の感想で、誰かが「この作品には信仰がない」と語っていたが、『シャッフル』のテーマ欲張り監督は、超越的な運命の神というテーマさえも語っている。

   ◇

 しかし、サンドラ・ブロック、『スピード』からこの方、息の長い活躍をしているね。

 演技もうまい。

 馬づらで、私の好みとは言えないが、『ブロークン・イングリッシュ』の主人公に似て、とても魅力的でしたよ^^

 みんな、ブロガーの情熱的な肯定の評価に乗ってみるのは一興だが、

 否定的な意見は、自分で実際に観てから下したほうがいいぞ!

   ◇

 しかし、次女役の幼女、可愛いでちゅ

 どなたか、名前を教えてくだちゃい

                     (2009/02/06)
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