☆最初に言っておくと、私は、『ポニョ』を愛してます^^
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宮崎駿監督は、もう往年のパワーは持ち得ないと思っていた。
私が考えるところの問題点は二つで、
1・あまりにもビッグバジェットとなってしまった宮崎作品は、
多くのテーマ(客の嗜好)を内包することを義務づけられ、
「もののけ姫」「ナウシカ」に代表できるような、宮崎的な怨念を込められる…、
あるいは、「ラピュタ」や「トトロ」「カリオストロ」のような純粋エンターテイメントの如き、
シンプルな一本道の物語作りができない環境になってしまった。
2・宮崎監督に、自分の情念を作品化するにあたっての集中力が、
年齢とともに欠落してしまった。
つまり、ボケた。
と思っていた。
それは、両方ともあたっていると思う。
「超映画批評」の人が、『ポニョ』の批評で、「パラノイア(偏執病・妄想症)」的と言っていたが、私は、「スキゾフレニー」的だと思っている。
とにかく、「ハウル」「千尋」は、内容が支離滅裂で、部分部分が面白かったけど、完全に、宮崎監督の「統合失調症(昔の言い方だと「精神分裂病」)」が見え隠れていた。
だけども、『ポニョ』においては、その気配はなかった。
純粋に、孫を見るおじいちゃんの視点で、作品自体が統合されていた。
千尋やシータ、ラナに見られていたロリコン的な視点もなく、「孫を愛する大泉逸郎」的な作品に対する純粋な視点で、一本道がついたのだ。
『ハウル』や『千尋』に見られた、ギミック発揮の横道も、『ポニョ』においては、宗助やポニョと言うキャラクターに向けられていたので、作品テーマ自体が、かろうじて保持されていた。
この作品、宮崎監督が瀬戸内に滞在していた折、構想を得たと言う。
そのニュースが飛び交った昨年の3月ごろ、私は出張で岡山に一ヶ月滞在していたのである。
ゆっくりとした時間の流れる瀬戸内の町の雰囲気が実によく理解出来た^^
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海辺が舞台なので、最初から、海を行き交う船が多数出てくる。
ポニョと出合った宗助が、老人ホームのおばあちゃんたちにポニョを紹介するシーンなど、海辺を眺める老女たちの前に宗助は立つわけで、背後にポンポン船が横切っていく。
『カリオストロの城』でのオープニングクレジットを思い出すようなポンポン船の使い方に、私はほろ苦くなった^^
とにかく、瀬戸内を小高い丘から俯瞰した時、行き交う大きい船・小さい船の数々は、多くのインスピレーションを湧かしてくれるのである。
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この作品は、とにかく、孫を慈しむ老人視点なので、アニメで描かれた幼児の挙動がこれでもかと丹念に描かれる。
例えば、ポニョのハム好きの可愛らしさを描くために、サンドイッチやインスタントラーメンと言う背景を構築する。
後半の町水没と言う背景も、ポニョと宗助の「はじめてのおつかい」を描くために設えられたものである。
宮崎監督は、ポニョが人間になりたい→魔法の魚が陸に上がる→次元にゆがみが出る→その混乱の中での幼児の冒険→全てを解決する幼き愛の完成、と言う具合に流れが定まった時、さぞかし快哉を叫んだことだろう・・・。
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私は、宮崎アニメは、箱庭的な舞台と、空間の3D的な使い方が肝だと思っている。
その中で、崖の上の家、海岸線の町、海の深度(海の幾つかの場は分断されていた)がよく描かれていたと思う。
特に、町の水没後、上記の三つの舞台が、立体的に融合していた。
それが、ただ、二人の幼児のためだけに集約されている。
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よく分からない点も多い。
主に、ポニョの父親であるフジモトについてだ。
どうやら、ハウルのなれの果てであることは分かる(分かるんかいっ!?)。
フジモトは、なんでフジモトなのだろう。
この人は、どうやら、世界を海の時代に戻したいと日夜研究を繰り返しているらしい。
服は、青のストライプと赤のストライプがあり、なんかルパンの青ジャケと赤ジャケを思い出す。
なんか、この人についての疑問を書いていったらキリがないので書かない。
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宗助のお母さんのリサは、すこぶるつきのいい女だが、
私は、あまり、宮崎アニメの女をそういう目で見たくはないので多くは書かない。
少女ならばいいんだけどね。
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ポニョのお母さんの、海の女神みたいな女性だが、この人が現われた時、耳についたイヤリングの三つの石が「カリリ」と音を立てる細やかな描写に、私は驚かされた。
そのほかにも、フジモトの研究室の扉が立て付けが悪いという描写もあったが、これは後のポニョの大暴れのシーンのためではなく、宮崎監督が、フジモトに生活感を与えたかったのだと思うのだ。
宗助の保育園と老人ホームの間の抜け穴・・・、そこをカッパ姿で通り過ぎようとした時に、カッパの裾が抜け穴の軒に引っかかる描写・・・、実に細かいのである。
台風で電気が不通となり、自家発電機を動かそうとする描写・・・、ポニョの魔法を発露させる場面ではあるが、宮崎監督が無性に発電機を描きたかったからであろう。
私が言いたいのは、つまり、「ハウル」や「千尋」では、自分がやりたいシーンを、気持ちのおもむくままに描いていた宮崎監督が、ちゃんとその衝動を物語の必然として描く方法を覚えたと言いたいのだ。
バケツや、冒頭から出てくる船の模型の使い方もうまい。
・・・造船所に入る大きな船の遮断通りの、物語冒頭の紹介シーンと、台風の中でのサスペンス演出もいいね。
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映画の各所で、洗練されたスピード感の描写もあった。
ポニョが海の中で、ゴミをさらう網から逃げるところや、
リサの運転するミニは、ルパン3世の運転するスバル360みたいだし、
ポニョの脱走シーン、
フジモトの操る水の魚とのチェイス、
そこここで、安心して、そのスピード感に酔えた^^
ただ、女の子になったポニョが海の上を走り回るシーンのBGMがワーグナーみたいだなと思っていたら、
パンフレットに、宮崎監督は、ワルキューレを聴きながら物語の構想を練ったとも書かれていて、
私は、変なオヤジだなあと思ったのだ。
まあ、ワルキューレは、『地獄の黙示録』に使われたから戦争のイメージだが、先入観なく聞いたら、流れるような水のイメージかも知れない。
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うん、ポニョは可愛い。
バケツの中で、スヤスヤ寝て、回転しつつお腹を見せたりするのがメチャ可愛い^^
気難しげな目つきで、口から水を飛ばすのも可愛い^^
私は、ポニョの妹たちを見ていると、宮崎監督が嫌悪しつつも、結局は手塚治虫の影響を大きく受けていることを思うのだ。
ポニョは、金魚→半魚人→少女の3段変化を見せるが、
昔のパワフルな宮崎監督ならば、ポニョを可愛い少女に変化などさせず、
せいぜい半魚人でとめて、あの半魚人ヴィジュアルを可愛く見せる方法論で押し切ったと思う。
そこが残念かな。
少女ポニョも可愛いけどね^^
(2008/07/20)