『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭

ジュリアナから墓場まで・・・。森羅万象を語るブログです。
ここでは、気軽に読めるエントリーを記していきます^^

[カンボジアで撃たれた話 in ベンメリア寺院 (1998年)]

2007-09-21 18:45:45 | 海の向こうでの冒険
☆元々、この文章は、初代「天才バカ板!」のエントリーでした。

 そのHPは、とあるカルト組織に目をつけられ、削除の憂き目に遭いました^^;

   ◇

・・・以下の文章は、私がかつて、「西尾幹二のインターネット日録・若手掲示板」に投稿したものです。

 どうしても、この『天才バカ板!』において、「政治ネタ」やら「ジャンプネタ」に追われ、「カンボジアネタ」を投稿する余裕がないので、こうして転載させていただいときます。

 「転載バカ板!」です^^;

 この頃、私は年齢を誤魔化していたので、多少、おみぐるしい点も御座いますが、それは愛嬌としてみてくだされ!

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 [カンボジアの話・プロローグ] From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/14 02:23

▼私は、もうすぐ三十路なんですよ。

 でも、とりあえず、自由に書けるのが、こことおちょくり塾だけなので、ここで、カンボジアについて書かせて頂きます。

 でも、果たして、カンボジアの事を記していく事が、ここのサイトの発展につながるのかは分からない。

 でも、私は、十数回、カンボジアを旅してきて、あの国において、(まあ、大げさに言えばだけど)私達の最終の敵と考えていたのが、つい最近まで生きていたポル・ポトであり、ひいては、中共へとつながる事を考えれば、この「保守サイト」との関わりも少なくないかも知れません。

 最初は、十年程前に交際していた女性の父親に連れられて行き、彼の地を訪れました。

 一郎さんとも、三度ほど、行きましたか・・・。

 一郎さんは、自己主張控えめな文武両道の男なので、とても頼りになった。

 来年は、近所の共産党のおばちゃん連中を連れていかなくてはならない(おばちゃん連中に「共産党による虐殺の現実」を見せて、反共にオルグるつもりです^^)。

 てな訳で、次回から、ちょっとづつ、カンボジアの事を書いていきます。

 でも、私が書くのだから、「物語」形式になりますからね。

 また、旅行者には、「カンボジアおたく」が非常に多いのです。

 もしかしたら、そういった人々を呼び寄せちゃうのが恐いなあ。

 私も詳しいつもりだが、上には上が無数にいるからなあ。

 ちょうど、一昨日の産経に、カンボジアで亡くなった従軍カメラマン・一ノ瀬泰造の記事が載っていました。

 で、本日、先ほど、日本テレビの「ドキュメント03」で、同様の内容の番組をやっていました。

 昨日は、TBSの「ウルルン滞在記」の舞台がカンボジアでした。

 先週の教育テレビのアニメ番組「モンタナ」では、「アンコールワットは危険な香り」の副題で物語が展開していました。

 先々週辺りは、テレビ朝日で「鶴太郎のアンコール巡礼」みたいのを放送していた。

 私が、ここでカンボジアの事を記すのは、満更、みんなの興味を惹けなくないかも知れません。

 一つ、言っておきたいのは、私は多くの国を旅しましたが、長期滞在した国は、ほとんどありません。

 それは何故かと申しませば、あくまでも私が根付いているのは「日本」以外の何ものでもないからです。

 「日本」以外の国では住めないし、「日本」以外の国には住みたくないし、「日本」以外の国は、私にとって「旅」する対象にしかならないのです。

 これからのカンボジアについての話で、私はカンボジアの子どもに対し、格別の優しさを示します。

 それは、私が、所詮は「旅人」だからです。

 仮に、カンボジアに骨を埋める事になったら、私は、「優しさ」だけをあらわにするような無責任な事は出来ないでしょう。

 私が、「日本」に対し、「優しさ」だけを向けるような無責任を犯していないのは、荒間サイトに集う皆さんと同様です。

 それから、ここは、若手の方が活発に議論する掲示板です。

 議論の出来ない私の事は適度に無視して、他の方は、他の方同士でガンガン語ってください。

 私の存在(文章)は、ここをクリックしてくれる方に対しての、更新されてない時の寂しさの穴埋め係だと思ってください。

 せっかく、閲覧者が、この板に来訪してくれたのに、この板が、前回見てくれた時と変わっていなかったら寂しいじゃないすか・・・。

 てな訳で、後日より、書かせて頂きます(毎日は期待しないでね)。

 次回は、カンボジアの奥地で、撃たれた時のお話です(いきなり、盛り上がる)。

 なお、これからは、どんなに長くても、一話600字で収めますね。

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 [カンボジアの話・ベンメリア寺院(前篇)] From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/15 07:26

▼1998年4月、ポル・ポト(本名サロト・サル)は死んだ。

 それから半年後の10月、今なお、ポル・ポト派の残党は、カンボジア各地に潜んでいるとされていて、その奥地への、旅人の侵入を拒んでいた。
もちろん、地雷もわんさか!

 私・ミッドナイト蘭は、当時は、危険地域とされていたベンメリア寺院を目指していた。

 今でこそ、奇矯な旅人ならば、幾らかの金を出せば、半日かけて観光できるトコとなったが、その時点で訪れる人物は、ましてや、研究者でもない一般の人物が来訪する事なぞ、数える程しかなかったと思う。

 カンボジアに来るのも五回ほどを経て、もう一人で旅するのに何ら抵抗はなかった。

 そして、冒険心は、新たなる刺激を求めていた。

 フランス人研究家ブリュノ・ダジャンスの著書に、一行だけ記述のあったベンメリア寺院を目指す事にした。

 アンコール遺跡群から東に40km(直線距離)にある「巨大な寺院」だそうで、期待は高まった。

 三人の男を雇い、二台のバイク(スーパーカブ)に分かれ、アンコール遺跡の城下町・シェムリアップから、わりに整備された国道六号線を東に進んだ。

 両側に低い緑を擁した国道は二時間ほど続き、左折し、北に向かった。

 国道から離れると、いよいよジャングルが深くなり、そして、道行く子供たちの服装もセミヌードに近くなっていった。

 つまり、貧しくなっているのだ。

 森に見え隠れする家屋も、コンクリ造りなどなく、木造はおろか、藁葺きの風情のものばかりであった。

 たまに、良い建築物を発見したと思うと、人民党の事務所だった。

 子供たちも大人達も、私を見ると、珍しい旅人に視線を離せなくなる。

 私は、必ず頭を下げ、微笑んで手を振る事にしていた。

 この年(1998年7月)、総選挙が行われたのだが、裸に一枚布を巻いただけの服装の女性達も投票をしたのだろうか?

 緑深き中を、赤土の道を進む。

 空は、雲が多重で、合間に青空が垣間見える。

 雨季だったが、天気は良かった。

 しかし、道は時折、両脇から溢れる水で遮られた。

 カンボジアの大地は起伏が少ない、真っ平らなのだ。

 雨季は水が溢れる。

 ・・・歴代のカンボジア王は、治水管理に知恵を絞ってきた。

 ポル・ポト時代は、無意味な公共事業でメチャクチャな灌漑工事を行い、各地で洪水被害を出した・・・。

 私は、何度となく、バイクから降りて、膝まで水に浸かりながら、歩いて進んだ。

 三人の男はぶつくさ言いながら、バイクを押して後からついて来た。

 私は、先にスタスタ歩きながら、その辺をチョロチョロしている子供たちにちょっかいを出したりする。

 私が子供たちと遊んでいるのが長引くと、三人の男は、タバコを吸いながら、道端で待っている。

「ヘイ!」と呼ぶと、男の一人が、私の巨大なスキーバッグを持ってきてくれる。

 その中には、多量の対子供用グッズが入っている。

 各々、その子供に似合った物をあげる。

 そんなこんなで、ベンメリアに進んでいく。

 二時間以上経ち、かなり近づいた気配の中で、とてつもない水溜りが出現した。

 と言うか、もはや川だった。

 私は、腰まで水に浸かりながら、慎重に歩を進めた。

 三人の男たちも、バイクや、スキーバッグを持ち上げながらついて来る。

 しかし、水量は多く、私達は迂回を余儀なくされた。(後編に続く)

▼すいません。600字は無理でした。しかも前後編。

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 [カンボジアの話・ベンメリア寺院(中篇)] From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/16 14:55

▼「ベンメリア」は、「花束の池」と言うロマンチックな意味を持つそうだ。

 で、私は、そこを目指し、腰まで水に浸かりながら進んでいた。

 最初に出くわした水溜りでは、靴を脱ぎ、ジーパンを巻き上げたものだが、水深が腰ぐらいまで及ぶにつれ、どうにでもなれ気分になった。

 方向は、三人の男が示してくれていたので、私が先頭になり突き進んだ。

 最近知った情報だと、ここの観光が許されるようになったのは1999年の事のようだ。

 が、この時点では、1998年だった。

 また、よくよく考えると、この国にはワニもいて、時期的な治安の危険度以上に、常時危険な存在でもあった。

 コブラもいるし、地雷もある。

 進んでいると、斜め前方5m程で、水面が不自然に跳ねた。

 イメージとしては、ムササビのような小動物が、水に飛び込んだような感じだ。

 私は、見るともなしに、その方向を一瞥し、視線を前方に戻すと、再び進んだ。
が、すぐに見直す。

(う、わーっ!)と思った。

 下半身の力がスコーンと抜けた。

 30m程彼方で、男が、木の幹に背を預けながら、座りながら、ライフル状の長銃を構えていた。

 ・・・つまり、一発撃ってきやがった。

 私が、走行する車の前を横切ろうとして車に気づき、恐怖で動きを止めてしまった猫のように怯んでいると、後ろの三人が状況を察し、銃を構える男に現地語で声をかけてくれた。

 でも、全く、緊張感がなかった。

「おい、通らせてや」って気楽な物言いなのだ。

 ・・・俺は撃たれたんだぞー。

 恐怖は、私の五感を鋭敏にし、それまで当たり前だった気温や、セミの鳴き声が、鬱陶しいほど気になった。

 二言三言会話を交わし、我々一行は、銃の男に近づいて行った。

 それまで勇ましく先頭を歩いていた私は、いつの間にやら、三人の陰をこそりとついて行く。

 足取りが重い。

 ・・・と、一人だと思っていた銃の男の回りには、二人三人と、どんどん人が集まってきた。

 カンボジアでは、誰もいないと思って立ちションとかしていると、草むらの中から、ふいに人が現われたりする。

 深いジャングルの一本道を進んでおり、ふと、森に目を凝らすと、森の中に、騙し絵のように村が存在している事も多い。

 銃の男の仲間が出現しても、恐怖ではあるが、意外な事ではなかった。

▼(すいません、早朝書いていたら、いつの間にやら寝てました。後編に続く)

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 [ちょっと中休み^^] From:ミッドナイト・蘭 /H15/07/18 05:56

▼ここにきて、やっと、のんびりと書く気持ちになったかな。

 カンボジア話は幾らでも書けますので、若手版のにぎやか状態は任せてください。

 今回は「後編」を書かなくてはならない筈なのですが、長くなりそうなので休日の土曜日にします。

 前篇と中篇は、思い出しながら書いていたのですが、後編においては、それでは済まないと思い、撮影したビデオを見直しています。

 いや、はっきり言って、凄いです。

 マジで私は、腰まで水に浸かり進んでいます。

 地雷が除去されてないので、石の上を飛び跳び進んでおります。

 銃を突きつけられています。

 恐怖が蘇ってきます。

 「ベンメリア寺院」篇が終わったら、続いて「壁の向うの狂気in民主カンプチア」篇を書きます。

 かなり洒落にならない、トゥオル・スレンの虐殺博物館報告になります。

 ここには、イチローさんも行ってます。

 二度、行ってます。

 だから、イチローさん、私の文章に合いの手を入れてください。

 とにかく、カンボジアは、私の専門ジャンルの一つなので、最後まで書き遂げるので、皆さん、楽しんでください。

 もちろん、アンコール遺跡についても書きまっせ!

                                     (2007/09/21)
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[標語を疑え! 敵は特定亜細亜だけ!]

2007-09-18 08:35:27 | 保守の一考
   [標語を疑え! 敵は中朝韓だけ!(2005/5/28) ]

▼よく、靖国神社に祀られる、いわゆる「A級戦犯」を糾弾してくる中国や半島二国に対し、「日本人にはいかなる死者も死んだら<仏=神様>と見做し敬う民族性がある」と言う方がいる。

 ・・・そんな考え方は日本に存在しないだろう。

 宗教哲学上においては存在するが、日本人の生活習慣においてそんなものはない。

 靖国神社は、御国のために戦い亡くなった方々を祀るために存在している。

 納得できぬ欠陥国際法廷「東京裁判」で、敗戦国日本の首脳陣は、いわゆる「A級戦犯」とされてしまったが、それでも、当然、日本にとっては英雄だし恩人だからこそ「神様」として祀っているのだ。

 靖国神社に限らず、官軍でない戦死者(いや、戦争で活躍した人にかかわらず)が祀られている神社もあるが、それは、国単位に限らずに、各共同体に対し、何らかの恩恵があったからこそ祀るのだ。

 国から小さな共同体、すべからく、その各単位においての「大いなる正義」を執行してくれたからこそ、祀られている。

 それが、人が死んで神様として祀られるようになった神社の本義である。

(現世で大悪行を為した人物を神様として畏れ敬うタイプの神社は、次義的なものとしてここでは語らない)

▼大阪は池田小学校の児童殺傷事件、その被害者の親御さんが、こんなことを言っていたのを私は忘れない。

 【『時の経過とともに、悔しさ、無念さ、理不尽さが純化され、増大していきます』】

 私には、この親御さんの気持ちが(それでも遠く及ばないでしょうが)、よく分かる気がしている。私個人にも、絶対に許せない人物がいるので・・・。

 児童殺傷事件の犯人・宅間守は死刑にされた。

 それでも、親御さんの気持ちは晴れることはないだろう。

 百遍殺しても飽き足らないだろう。

 理不尽な事象に対しての、人間の恨みは、万国共通である。

「日本人には、いかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」、「日本人は、恨みを持続させない民族性を持つ」などという標語がどれほど無責任なことであるか・・・。

 その言葉は間違っているのです。

 その標語を、いわゆる「A級戦犯」を想定し語ることは勘違いはなはだしいし、凶悪犯罪者の死に向けて語ることは言語道断のことである。

 横田早紀江さんの四半世紀に渡る苦悩も、「恨み」と言うには多元的ですが、「一途な思い」での戦いです。

 横田夫妻のケースでの、横田夫妻に対し深い深い苦悩を与えた(与え続けている)者が、たとえ死んだとして、先ほどの標語で済ませられるものなのか? と言う問題もある。

 そう言った標語に寄りかかる者は、宅間守や金正日に対し言っている訳ではない、と言うかも知れない。

 宅間守や金正日は例外だ、と言うかもしれない。

 でも、おかしいのです。

「日本人にはいかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」などと言う標語は、かような異常犯罪者に対して使う以外に使用法がないからです。

 いいですか、日本人にとって、いわゆる「A級戦犯」は犯罪者じゃないのですよ。

 恩人なのですよ。

 死んだら神として崇められて当然の人たちでもあるのですよ。

「日本人には、いかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」と言う標語を冠する対象ではないのです。

 なら、その標語は、誰にあてはめるべきものなのか?

 宅間守か? 金正日か? スーパーで赤ちゃんを刺した氏家克直か?

 上記のような異常者に、「日本人にはいかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」などと言う標語をあてはめられっこないじゃないですかッ!

 つまり、その標語は、全く意味を為さない虚言に過ぎないのだ。

 いや、金正日は別にしても、宅間や氏家の両親や家族ならば、例え、そんな異常犯罪者に対しても愛を向けるかもしれない。

 家族や隣人に優しさを向け、その死を悲しみ、霊を慰めるのは当然のことだ。

 また、死刑執行された宅間や、当然ながら死刑になるであろう、ならなくちゃいけない氏家を弔う坊さんならば、宗教的崇高さでもって、異常犯罪者に対し慈愛を向けもしよう。

 が、なんで、市井の人間が、「日本人にはいかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」、「日本人は、恨みを持続させない民族性を持つ」などと言う、<根も葉もない標語>にたぶらかされて、間接的に、宅間や氏家に殺された子どもの親御さんの無念を押さえ込もうとするのか?

▼「日本人にはいかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」、「日本人は、恨みを持続させない民族性を持つ」と言う標語は、全くのデタラメである。

 ただ、万国共通の考え方として、どこの国の人も、死者を恭しく弔う風習はある。

 そして、「理不尽な目」に遭って、恨み・怒り・悔しさを持ち続けるのも万国共通である。

 日本人が、他国人に比べ、死に対しサッパリしていると思われているのは、以下の一点に尽きる。

   【日本人は「戦争」にさほど理不尽を感じない】

 これに尽きる。

 これは、民主主義諸国に共通の観点である。

 戦争と言う「国家の大枠の定め」に対しては、その最悪の結果・死さえも「務め」と考えているからだ。

 つまり、国と個人の相互補完を、常に意識している結果である。

 中国共産党による、権力側からだけの既得権益厳守のための人民圧迫、あるいは、日本共産党による、個人の権利だけを振りかざした、国民の義務放棄の果ての体制への突き上げ、それらとは違うのである。

 戦争による「死」は、民主主義においては、けして「理不尽」ではないのである。

 それは、「戦争」が、相手国との幾つもの条件付けをされて行われるものだからである。

 ある意味、「殺し合いの運動会」だ・・・。

▼だが、特に、中国では、この概念が崩れる・・・。

 本来あったであろう祖先を敬う純粋な気持ちなどは、共産主義の唯物論で押しつぶされ、されど国民意識なき国家意識によって、精神の伴わない戦争を行なわされる。

 戦争における理不尽な気持ちは次第に増加し、でも、そのはけ口である自己(自国)は、厳重な思想統制下にある。

 やり場のない気持ちを、【本来の対象であるはずの自分の国なのに、でも、その自国から偽りの事実を与えられることによって、他国(まあ、日本だね)への怨念を育む】のである。

 民主主義においての、国民の戦争参加は、おおむね納得出来る形態をとる。

 しかし、共産主義においては、理不尽さを伴い、その理不尽さは、自国から与えられたものなのに、それを歪めさせられて、他国(まあ、日本だね)に向けさせられる。「自発的に」の意識とともに。

 特に、嘘を事実として教えて、だ。例えば、南京大虐殺・・・。

 嘘によって、人間の純粋な気持ちの一つ「怒り」や「恨み」を、中国人は生じせしめられてきたのである。

▼日本と言うか、民主主義国家の特性として、戦争を「国民の務め」として考える、がある。

 そして、何を「理不尽」と感じるか、と言う問題も派生としてある。

 ・・・「理不尽」な気持ちは、「テロ」や「虐殺」によって起こされる。

 民主主義国家は、「戦争」に、最終的には道理を見ようとする。

 しかし、「テロ」と言う無法には、理不尽さばかりつのるのである。

 そこには、「戦争」にはある、最低限のルールさえ存在しないからだ。

 私は、「テロ」行為に一理さえ感じる。だが、テロ行為が、民主主義国家において、絶対に認められないことも知っている。

 そして、無差別テロを受けた者が、「テロ」を恨み続け、「テロ」に怒り続けるのも道理である。

 日本人とても、個人異常犯罪を含む「テロ」的行為には、怒りや恨みと言う本来は誉められない負の感情を向け続けるだろう。

「拉致はテロ」である。

 横田夫妻をはじめ、拉致被害者の家族の苦悩は続きます。

 それに対し、「日本人は、恨みを持続させない民族性を持つ」などと言う標語は口が避けても言えない。

 日本人とて、理不尽な出来事には、怒りや恨みを延々と持続させ続けるのである。

▼「戦争における理不尽」として、広島・長崎の原爆や、東京大空襲の問題がある。

 この問題については、私は、全然言及できないが、「大虐殺」とも思っている。

 ただ、日本人の中には、ここのところを、「戦争」の一環として甘んじて受けている人々もいるようだ。

 もちろん、アメリカは、けして、その非を認めやしない。

 だが、アメリカは、同時に、例えば、国は違えど、母国のために死力を尽くした軍人を褒め称える国民性も併せ持つ。

 真珠湾近在の「飯田房太大尉顕彰の碑」などが有名だ。

 ここはポイントであり、アメリカが靖国神社に敬意を向けるのと同様の意味がある。

 そこは、重要な、日本との価値観共有のポイントなのである・・・。

 中国共産党には、そんな余地はない。

 旅順にある日本軍の遺跡の扱いは酷く、乃木大将の碑などは旅順監獄に放置されている・・・。

 国際外交において、自国の我を通すことしか、中国共産党には、ない。

   【そんな相手と分かり合おうとする愚、
       そんな相手と分かり合えると信じる愚】

「左の頬を打たれたら、右の頬を出す」と言うマゾ馬鹿・・・。

 そうして、反日暴動を受けるまま、ガス田を掠め取られるまま、国民を拉致されるまま、日本領土竹島を占拠されるまま、領海を侵犯されるまま、自国の英雄を靖国で敬うと言う日本国民の精神世界さえ踏みにじられるまま、日本国は衰退していくのか・・・。

 異常犯罪者、異常犯罪国家には、ハムラビ法典の教えを遵守するしかない。

 目には目を、歯には歯を!

 埴輪を蔑ろにする野郎には、埴輪を!^^;

   【日本人! そろそろ理不尽に対して、ブチキレようぜ!】

▼日本が、「日本人には、いかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」、「日本人は、恨みを持続させない民族性を持つ」と言う標語を、言葉として形づくる必要性さえなかった時代は、とっくのとおに終わっている。

 それは、明治維新によってだ。

 日本には、古来から、純粋な民主主義が存在していた。

 これは、中華世界とは全く異なる価値観だ。

 重要なポイントとしての、【日本とアジアとの差異】だ。

 アジアの中での、民族の系統以上に大きい、日本と近代欧米との精神的近似ポイントだ。

 故に、欧米の荒っぽい民主主義を受け入れられたのだ。

 そして、開国を始めた時から、現実的問題として、あらゆる国から、美徳と同時に悪徳が流れ込んできた。

 人間と言うのは、美徳は当然に甘受する。

 だが、悪徳による混乱には戸惑いは隠せない。

 悪徳による不利益には、「理不尽」を禁じえない。

 それまで、鎖国していた日本国においては、持って生まれた世界の常識があり、理不尽を理不尽と考えないでいられた。

 何よりも、日本には、世界に教わるでもない民主主義が存在していた。

 だが、世界から、日本人の常識とはあまりにも違う価値観が流れ込んできた。

 理不尽を感じずにはいられない社会に変貌していった・・・。

 そこで、「いかなる死者も仏様」、「恨みを持続して持たない民族性」を捨て去らねばならない国に変わっていくのである。

 それは、しょうがない。

 世界は日本だけではないのだから・・・。

 おそかれはやかれ、悪徳は流入してくる。

 でも、そこにおいて、絶対に、日本人として譲れないものがあろう。

 そこだけは死守せねばならない。

 例えば、国(共同体)の恩人の霊への敬意をけして忘れない、だ。

 その価値観を理解してくれている、中国と半島二国「以外」の国々とは、それだけで有効な外交を結べると信じられる。

▼欧米の民主主義の「荒っぽさ」とは、文字通りの「(十字軍的)暴力」と、そして、あまりにも大きな左翼的体質である・・・。

 日本が、中朝韓に対し、国家一丸となって戦えないのは、左翼内包の欧米的民主主義を受け入れたからである^^;

 台湾も、同じような苦しみを抱いている・・・。

▼なんか、書き残したことがあるような気がするなあ・・・。

 まあ、これからも書けばいい・・・^^

                                      (2005/5/28の再掲)
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[半年前に語られていた総理辞任]

2007-09-18 08:22:54 | 保守の一考
▼私は、半年前の更新で、安倍首相辞任について、こんな事を書いていた。

《☆昨夜、帰宅して、ニュースを見て、安倍首相が岡山に視察に来ていたことを知った。
 ニュース映像を見ていたら、首相がおみやげのお菓子をほお張る姿や、壁の落書きを塗り消す姿が映し出されていた。
 ・・・頑張って欲しい。
 私は、安倍首相が失脚するようなことがあったら、最早、終わりだと思っている。
 日本の政治リーダーとして、希望を託せる人がいなくなる。
 麻生外務大臣がなっても、今、安倍首相が受けている批判の類の轍を踏むだろう。
 そしたら、私は、しばらく、政治について語ることもなくなる。
      ([瀬戸内の都市より・18「雨の中、広島へ(前篇)」] 2007/03/25 10:13)》

▼この思いは全く変わっていない。

 ましてや、福田が総理になったとしたら・・・。

 安倍総理を後先考えずに批判していた保守派の方々・・・、責任、とってくださいよ。

                                  (2007/09/18)
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[『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観に行った]

2007-09-02 00:56:13 | 物語の感想
▼予告したとおりに、観に行ってきました^^

 月一の映画の日でもあり、MOVIX昭島は満員だった。

 ちょっとしたお祭り気分で、姪っ子も大喜びだ。

 しかし、「エヴァンゲリオン」の監督はつくづく幸せ者だと思う。

 自分の過去の作品を商業主義に則って作り直せるのだから・・・。

▼考えると、本来のテレビ版ストーリーの「エヴァンゲリオン」が劇場にかかった事はなかった。

 そのダイジェスト版(と言うと怒られるか)が、『DEATH』篇として公開されたのみだった。

 だから、比較的テレビ版のストーリーに則して語られた今回の『序』には、前半、ややもたつきが感じられた。

 そして、それとは別に、

 舞台となる第三新東京市の風景に、主人公の心象風景を投じたかのようなイメージショットが続いたので、

「ああ、この方向に進んでしまったのか!?」と危惧した。

 しかし、それは、主人公・碇シンジのキャラ立てだったのかも知れない。

 後半、綾波レイが物語に絡んできてからは加速度的に盛り上がる。

 前半はだから、葛城ミサトの魅力に注目してみていた。

 ミサトさんは可愛い。

 十年前と変わらず、「ちょっち」なんて言葉を使っていて、

 もうちょっち歳を経れば「おばさん」化する一歩手前で、輝きを放っている

 さて、「ヤシマ作戦」である。

 今回は、テレビ版に「国家的プロジェクト」の肉付けを加味して、非常に盛り上がる。

 作戦指揮のミサトさんの面目躍如で、会議室でのミサトさんの顔がブスに描かれ、それがまた可愛いのだ

 使徒ラミエル(だっけ?)も、シンプルな形状から派手な変化を遂げている(私は、この使徒、『ガンダム』のエルメスを思い出すのだ)。

 ・・・そして、シンジ君にも勝らず心を閉ざす(と言うか、開き方を知らない)レイは、この作戦を通し、ややシンジとお互いの理解をし始めるのだ。

 シンジに助け起こされて、「こういうときにどんな風にしたらいいかわからない」と言うレイ。

「笑ったらいいと思うよ」と言うシンジに、レイは微笑んでみる。

 この場面の作画は、三度は描きなおされている。

 テレビ版、映画版、今回の映画版である。

 最初の映画版のときは、これでもかと美しく、テレビ版から描きなおされていた。

 髪の毛なんて、とても繊細に描きこまれていた。

 しかし、今回の映画では、シンプルな線で描かれ、気負いが感じられず、

 でも、そのシーンが、物語のクライマックスであるが故に、そこまでの段階を経たストーリーに「描き込み」が為されていたので、私は大いに感動した。

▼さて、私には、いまだ、新劇場版「エヴァ」がどこに進もうとしているかがわからない。

 使徒が、かなり生物的に解釈しなおされているとは思った。

 死ぬと、血飛沫が上がるし、肉片が飛ぶ。

 私は、テレビを見ていたとき、「使徒ってなんなんだ?」と言うのが疑問の第一だった。

 十年前の映画では、それに一つの答えが提示されていたが、「だったら、なおさら、なんなんだ?」の思いが募った。

 それが、「エヴァ」の謎の深みに繋がってもいた。

 だが、今回の作品では、生物に近づいていた。

 それでは、キューブリック言うところの「マジック」が消え失せてしまうような気がした・・・。

▼今回の作品では、前作品群の名シーンがあえて削られているような気もした。

 サキエルが、ミサイルを手のひらで受けとめるシーンや、

 活動限界に達したエヴァ初号機と、絶命したシャムシェルが相討ちにでもなったかのように夕日の中でシルエットとなって浮かぶシーンなど。

 また、シャムシェルの、ビルさえも切り裂くムチの効果を表すシーンも少なかった。

 あえて、こちらが見ていて心地良いと感じた名シーンみたいなものは外していると感じた。

 サキエルVSエヴァの格闘戦だが、アップが多すぎて、両者のガップリ四つの構図も見えにくかった。

 つまり、これまでの「エヴァ」は、それはそれで完成。

 今回の「エヴァ」は、それもそれで、新しい完成。

 と、考えているのであろう。

▼・・・そして、新劇場版『破』の予告編である。

 全く新しい世界が展開されそうだ。

 エヴァ6号機まで出てくる大盤振る舞いのようだ。

 明らかに新キャラクターも二人出てくる。

 一人は「メガネっ娘」だ(もしかして、セガサターンのゲーム版の山岸マユミか?)

 上の写真:普段はメガネを掛けている山岸マユミ^^

 あまりのオリジナルからの逸脱に、

     「おいおい、平気なのかよ^^;」

 と、私は危惧するのだ。

 ・・・でも、故に、の「破」なのだろう・・・。

 ただ、オリジナルからの「破」ではあるけれど、私には、「エヴァンゲリオン」と言う作品の<カルト>から<スタンダード>への移行と言う目論見が感じられる。

 それでいいのだと思う・・・。

 姪っ子は、早くも、来年の公開を待ちわびている

                             (2007/09/02)
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