美しい生身の人間も稀にはいるが、医師の立場では人の身体は決して美しい存在ではない。亡骸も同じだが、もはや感情がないから、生身の体よりは美しい。
その点では美術品には美しいものが多い。初めから生身の人間でないから。
火葬によって得られた白骨は最高に美しい。人間が到達できる究極の美しい姿と思う。死=白骨=浄化=美、私はそう思う。
私は対人関係が苦手である。生身の人間は怖い。
私にとっては人は死を迎えただけで浄化され、それまでとは別人になる。しかし、亡骸を残していては、浄化は不完全である。白骨化は究極の浄化であり、見た目にも最高に美しい。
祖父、祖母、両親と実兄、義理の関係者たち、死亡したとの知らせを受けて、その度ごとに私は心から安堵した。家族として、人間としての善悪の評価、愛憎の感覚を含め、私との間で蓄積された、あらゆる感情が全て死の報告を受けた瞬間をもって別物に変わる。ある種の喜びの感覚さえ・・・、実は伴っているのだ。
親族の場合は葬送のセレモニーが続くが、私の考え方から言えば、もう自分との間での別れは完全に済んでいる。本当は参列したくない。死者は一人で静かに旅立っていけばいいのだ。でも、恩もある方々だから、社会的通念、習慣には従う。
他人であれば、死の報告だけで十分。白骨化されるであろう状況を予想して私との関係はそこで一旦消滅し、浄化される。故人に抱いていたあらゆる感情が白一色のモノトーンの感情に変化する。私との関係はここまで、という区切りの喜びを私は感じてしまう。
それ以外の感慨は抱かない。死には悲しみの感覚がともなう?
他の方がどう感じるのかは、私には知る由もないが、私には悲しみの感情は滅多に湧かない。
私は知人の死の報告に接するのが好きである。どのような付き合いがあったとしても死別はいい。故人と私は、感情を共有しない潔い関係となるから。
私は自身の白骨化も夢想する。私は火炎によって長い間蓄積してきた罪深い人生が浄化されるのだ、と心待ちにさえしている。
太宰治は「人間失格」の中で「恥の多い人生を送ってきました・・」と吐露した。私の好きな言葉である。私はこの言葉を借用し「罪深い人生を送ってきました・・」と自分の人生を総括している。
私の「罪深い人生」とは、社会的に糾弾されるようなことを示しているのではない。他人が眉をひそめるようなことは無かったわけではなかろうが、明らかに「罪」として問われるべき罪はない・・と思っている。
私の言う「罪深い人生」とは、「本音と建前」を過剰に使い分けてきたことにある。
誰だって同じだろうと思う。
しかし、私自身は自分で許しがたいほど著しかった。だから浄化される日を心待ちにもしている。
故に“嫌われ者”になる時も多々ありますが、こちらとしても「嫌われて結構!嫌ならとっとと去ってくれ!」的な捨て鉢とも言える覚悟がいつもあります。
これも本音を言えば寂しい部分もあるのですが、それでも鬱陶しい付き合いを嫌々ながらするよりよほどさっぱり出来ます。
(ここのところ福田先生のコメント欄にお邪魔し過ぎておりますことを、反省申し上げます… 放っておいて下さって結構ですので、福田先生はどうかお身体にご留意されますように。)