俵萠子(たわら もえこ): 昭和5年(1930年)12月7日 ~ 平成20年(2008年)11月27日
大阪府大阪市出身の社会評論家、エッセイスト、作家。大阪外国語大学フランス語学科卒業。
産経新聞記者を経て女性、家庭、教育などを中心にした社会評論家として、テレビに多く登場して
います。更に、小説家としても活躍し、日本初の準公選で、東京都中野区教育委員を歴任しています
俵さんは、五十歳を過ぎた1986年頃より、陶芸に興味を抱き正式に師事して陶芸を学び、群馬県
勢多郡富士見村の赤城山(大鳥居から十数分の場所との事です)に、「萠子窯」を開設し、1995年、
夢工房と名付けた工房と、美術館を兼ねた「俵萠子美術館」設立します。尚、若い頃に絵画も
学ばれており、再度絵画の勉強も始め、陶芸の絵付けに応用しています。
1) 陶芸に興味を持った切っ掛け。
1983年(昭和58年)に執筆や畑仕事をしようと、父親の故郷の赤城南麓に土地を購入します。
① 最初に作ったのは、紫陽花の葉を押し当てた木の葉皿でした。
1985年頃、知り合いの元校長先生が、益子の粘土3Kgと陶芸セットを携え、中野の自宅を訪ねて
きます。余談ですが、粘土は東急ハンズの包み紙に包まれていたそうです。
その場でテーブルに新聞紙を敷き、元校長の指導の下、2kgの粘土を叩き延ばし、厚さ1cm
の粘土板(タタラ)を作ります。庭にある紫陽花の葉を採り、葉脈側を下にして粘土板に押し
当て、葉の形と葉脈を粘土に刻み付けます。更に周囲(縁)のギザギザを線の通りに切り取り、
5枚の木の葉皿を作ります。 落款(らっかん=印)を押すと様に成っていました。
後日、デパートの陶芸コーナーで焼成して貰い、木の葉皿を受けと取ってから、陶芸の虜(とりこ)
に成ったそうです。
② 弟子入り。
) 最初は独学で挑戦します。
当時職業を持ち、多忙を極める暮らしでは、決まった日時で開催される、陶芸教室やカルチア
センター、陶芸科のある大学などに通う事は、仕事の関係で困難でした。
それ故、独学で学ぶ事を決意し、陶芸の入門書やビデオ購入し陶芸に励みます。
小さな電気窯も購入し、数回焼いたそうです。
) 独学の限界を感じ、プロの陶芸家に弟子入りを望む。
独学で勉強しますが、判らない事だらけでした。粘土の処理、高台の削り方、釉の濃さ、
釉の掛け方など、書籍やビデオで表現された意味もチンプンカンプンの状態で理解できずに、
2年程経ちます。一向に上達しないのを感じ、プロの陶芸家に弟子入りする事を真剣に考え
始めます。
) 弟子にしてくれる陶芸家は、中々見付かりませんでした。
a) 基本的に陶芸家は、特別な場合(自分の子供など)を除いて弟子は採りません。
なぜなら、自分の持っている技術や知識を弟子に教える事で、師匠に利益が無いばかりか、
将来競争相手になるかも知れない存在になるからです。
一般には、その窯場の下働きとして採用され、他の同僚や親方から技術を見て盗む事で、
陶芸技術を手に入れる事になります。親方や同僚が手を取って教えてくれる訳ではありません。
それ故、弟子として認める訳では有りません。(本人が弟子と思うのみです。)
b) 師匠を求めている最中で、色々なタイプの陶芸家が居るのを発見します。
・ どんな些細な事でも丁寧に説明してくれる陶芸家。
・ 「それは企業秘密です」と肝心で大事な事は、明らかにしない陶芸家。
・ 教えてくれるのだが、大事な事はその陶芸家がやってしまい、中々やらせて貰えない陶芸家
・ 何でも教えてくれるのですが、決してその人と同じ程度まで技術が磨けないと感じさせる
陶芸家。
・ その他、自由に創作させる人、拘束する人、自分の考えを押し付ける人、特殊の技術の
持ち主、細かく指導する人、放任形の人、指導の仕方の上手な人、下手な人、個性が
強すぎる人、積極的に作品を発表する人、代々陶芸家の伝統的な窯元など、百人百様です。
当然、俵さんは自分に合う師匠を求める事になります。
c) 弟子入り志願を断れ続けます。
以下次回に続きます。
大阪府大阪市出身の社会評論家、エッセイスト、作家。大阪外国語大学フランス語学科卒業。
産経新聞記者を経て女性、家庭、教育などを中心にした社会評論家として、テレビに多く登場して
います。更に、小説家としても活躍し、日本初の準公選で、東京都中野区教育委員を歴任しています
俵さんは、五十歳を過ぎた1986年頃より、陶芸に興味を抱き正式に師事して陶芸を学び、群馬県
勢多郡富士見村の赤城山(大鳥居から十数分の場所との事です)に、「萠子窯」を開設し、1995年、
夢工房と名付けた工房と、美術館を兼ねた「俵萠子美術館」設立します。尚、若い頃に絵画も
学ばれており、再度絵画の勉強も始め、陶芸の絵付けに応用しています。
1) 陶芸に興味を持った切っ掛け。
1983年(昭和58年)に執筆や畑仕事をしようと、父親の故郷の赤城南麓に土地を購入します。
① 最初に作ったのは、紫陽花の葉を押し当てた木の葉皿でした。
1985年頃、知り合いの元校長先生が、益子の粘土3Kgと陶芸セットを携え、中野の自宅を訪ねて
きます。余談ですが、粘土は東急ハンズの包み紙に包まれていたそうです。
その場でテーブルに新聞紙を敷き、元校長の指導の下、2kgの粘土を叩き延ばし、厚さ1cm
の粘土板(タタラ)を作ります。庭にある紫陽花の葉を採り、葉脈側を下にして粘土板に押し
当て、葉の形と葉脈を粘土に刻み付けます。更に周囲(縁)のギザギザを線の通りに切り取り、
5枚の木の葉皿を作ります。 落款(らっかん=印)を押すと様に成っていました。
後日、デパートの陶芸コーナーで焼成して貰い、木の葉皿を受けと取ってから、陶芸の虜(とりこ)
に成ったそうです。
② 弟子入り。
) 最初は独学で挑戦します。
当時職業を持ち、多忙を極める暮らしでは、決まった日時で開催される、陶芸教室やカルチア
センター、陶芸科のある大学などに通う事は、仕事の関係で困難でした。
それ故、独学で学ぶ事を決意し、陶芸の入門書やビデオ購入し陶芸に励みます。
小さな電気窯も購入し、数回焼いたそうです。
) 独学の限界を感じ、プロの陶芸家に弟子入りを望む。
独学で勉強しますが、判らない事だらけでした。粘土の処理、高台の削り方、釉の濃さ、
釉の掛け方など、書籍やビデオで表現された意味もチンプンカンプンの状態で理解できずに、
2年程経ちます。一向に上達しないのを感じ、プロの陶芸家に弟子入りする事を真剣に考え
始めます。
) 弟子にしてくれる陶芸家は、中々見付かりませんでした。
a) 基本的に陶芸家は、特別な場合(自分の子供など)を除いて弟子は採りません。
なぜなら、自分の持っている技術や知識を弟子に教える事で、師匠に利益が無いばかりか、
将来競争相手になるかも知れない存在になるからです。
一般には、その窯場の下働きとして採用され、他の同僚や親方から技術を見て盗む事で、
陶芸技術を手に入れる事になります。親方や同僚が手を取って教えてくれる訳ではありません。
それ故、弟子として認める訳では有りません。(本人が弟子と思うのみです。)
b) 師匠を求めている最中で、色々なタイプの陶芸家が居るのを発見します。
・ どんな些細な事でも丁寧に説明してくれる陶芸家。
・ 「それは企業秘密です」と肝心で大事な事は、明らかにしない陶芸家。
・ 教えてくれるのだが、大事な事はその陶芸家がやってしまい、中々やらせて貰えない陶芸家
・ 何でも教えてくれるのですが、決してその人と同じ程度まで技術が磨けないと感じさせる
陶芸家。
・ その他、自由に創作させる人、拘束する人、自分の考えを押し付ける人、特殊の技術の
持ち主、細かく指導する人、放任形の人、指導の仕方の上手な人、下手な人、個性が
強すぎる人、積極的に作品を発表する人、代々陶芸家の伝統的な窯元など、百人百様です。
当然、俵さんは自分に合う師匠を求める事になります。
c) 弟子入り志願を断れ続けます。
以下次回に続きます。