桃山時代は、我が国の、陶磁器の歴史に於いて、特別の意味を持ちます。
即ち、日本各地に、窯が開かれ、陶磁器の産地が、拡がり、大量生産が始まります。
その「きっかけ」に成ったのが、豊臣秀吉の、二度に渡る、朝鮮出兵です。
元禄元年(1592年)、日本統一を成し遂げた、豊臣秀吉は、15万人の大兵を、朝鮮に送り込みます。
この戦いは、当然、朝鮮の領土を手に入れる事と、李氏朝鮮の高い文化、特に焼き物の技術と、
人(陶工)を、手に入れる事でした。
敵の強い抵抗に合い、和議が成立し、陶工、李勺光が、この和議の印に秀吉に献上されます。
(尚、李勺光は、毛利藩に預けられ、李敬と共に、萩焼の源流を造る事になります。)
その他、多数の陶工が、従軍の諸大名によって、拉致(誘拐、人さらい)され、日本に連行されます。
それ故、二度の戦いを、「焼き物戦争」とも言えわれます。
慶長の役(1597年)は、秀吉の死によって、戦いは、終わりに成ります。
① 当時、国内は茶道が大いに流行し、茶器への関心も強く、又朝鮮では、李朝が高い文化を持ち、
特に、陶器において、優れた文化を誇っていました。
李朝の「井戸茶碗」などは、一つの城と交換されるほど、価値の有るものと、見なされて、
いたほどです。
② 茶道の本流は、千利休、古田織部、小堀遠州と続きます。
利休好み、織部好み、遠州好みと、各茶人には、独特の美意識があり、その美意識を
実現させる為、各地に窯が開かれます。
例えば、小堀遠州は、山城国朝日焼、近江国膳所(ぜぜ)焼、大和国赤膚焼、遠江国志土呂焼、
摂津国古曾部焼、豊前国上野(あがの)焼、肥前国高取焼の、七っの窯を育てます。
③ 朝鮮より、連れ戻した(拉致した)、九州各藩および、長州の大名は、それぞれの領内で
競って、窯を築かせます。
) 唐津焼き(佐賀県、唐津市)
佐賀県内では、唐津をはじめ有田、伊万里、武雄などに、窯を築き、朝鮮人陶工たちから
伝えられた「登り窯」や、「蹴ろくろ」などの新技術は、日本の窯業界に革新をもたらします。
新技術により、生産量が増大した唐津焼は、全国に流通して、一気に脚光を浴びる事になります。
(一説には、唐津の技法は、中国から直接伝わった、とも言われています。)
)萩焼
以下次回に続きます。
焼き物戦争
即ち、日本各地に、窯が開かれ、陶磁器の産地が、拡がり、大量生産が始まります。
その「きっかけ」に成ったのが、豊臣秀吉の、二度に渡る、朝鮮出兵です。
元禄元年(1592年)、日本統一を成し遂げた、豊臣秀吉は、15万人の大兵を、朝鮮に送り込みます。
この戦いは、当然、朝鮮の領土を手に入れる事と、李氏朝鮮の高い文化、特に焼き物の技術と、
人(陶工)を、手に入れる事でした。
敵の強い抵抗に合い、和議が成立し、陶工、李勺光が、この和議の印に秀吉に献上されます。
(尚、李勺光は、毛利藩に預けられ、李敬と共に、萩焼の源流を造る事になります。)
その他、多数の陶工が、従軍の諸大名によって、拉致(誘拐、人さらい)され、日本に連行されます。
それ故、二度の戦いを、「焼き物戦争」とも言えわれます。
慶長の役(1597年)は、秀吉の死によって、戦いは、終わりに成ります。
① 当時、国内は茶道が大いに流行し、茶器への関心も強く、又朝鮮では、李朝が高い文化を持ち、
特に、陶器において、優れた文化を誇っていました。
李朝の「井戸茶碗」などは、一つの城と交換されるほど、価値の有るものと、見なされて、
いたほどです。
② 茶道の本流は、千利休、古田織部、小堀遠州と続きます。
利休好み、織部好み、遠州好みと、各茶人には、独特の美意識があり、その美意識を
実現させる為、各地に窯が開かれます。
例えば、小堀遠州は、山城国朝日焼、近江国膳所(ぜぜ)焼、大和国赤膚焼、遠江国志土呂焼、
摂津国古曾部焼、豊前国上野(あがの)焼、肥前国高取焼の、七っの窯を育てます。
③ 朝鮮より、連れ戻した(拉致した)、九州各藩および、長州の大名は、それぞれの領内で
競って、窯を築かせます。
) 唐津焼き(佐賀県、唐津市)
佐賀県内では、唐津をはじめ有田、伊万里、武雄などに、窯を築き、朝鮮人陶工たちから
伝えられた「登り窯」や、「蹴ろくろ」などの新技術は、日本の窯業界に革新をもたらします。
新技術により、生産量が増大した唐津焼は、全国に流通して、一気に脚光を浴びる事になります。
(一説には、唐津の技法は、中国から直接伝わった、とも言われています。)
)萩焼
以下次回に続きます。
焼き物戦争
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