今回紹介する「辻 晉堂」氏は、「陶芸家」ではなく「彫刻家」を自認している人です。
最初に彫像(ブロンズ等)を作り、次に木彫を更に、土(テラコッタ)を使っての、陶彫という焼き物の
新分野を確立した作家です。
1) 辻 晉堂(つじ しんどう)本名 為吉: 1910年(明治43) ~ 1981年(昭和56)
① 経歴
) 鳥取県日野郡二部に生まれます。1931年 上京します。
1932年 東京淀橋にある独立美術研究所で、素描や洋画を学びます。
更に、彫刻を始め院展に出品する様になります。 当時は、モデルを使い、粘土で原型を作る
彫塑(彫像)を手掛けていました。原型はブロンズやセメントなどに置き換えられます。
) 1933年 第二十回日本美術院展に「千家元麿像」を出品します。翌年には同展に「田中の頭像」を
出品します。 1935年 日本美術院研究所に入所し、研鑽を重ねます。
第二十二回日本美術院展で「少女裸形」が奨励賞を受賞し、院友に成ります。
以後、四十二回展まで連続出品を繰り返します。
) 1938年 得度し晉堂と改名します。1939年 「婦人像」を発表した頃から、木彫に専念し
院展で立て続け大きな賞を受賞し、一躍有望な新人として注目を集める様になります。
その作風は、木を直接彫り刻む直彫の技法で、滑らかな仕上げではなく、荒削りのゴツゴツした
作りで、木の質感を十分活かした作りに成っています。
) 1955年 京都丸善での個展で、初めて陶彫の作品を発表します。
木彫が不要な部分を削りとる行為に対し、陶彫は土を積み上げ(足す)て創作する方法です。
辻氏が可塑性をもつ土を素材に選んだ理由は、土の持つ温か味と素朴さで、表現出来る事も
大きな魅力であったが、辻氏が清水焼の窯の多い所に住み、常日頃土に親しんでいたのも
大きな理由と考えられます。
② 辻氏の陶芸
大型の抽象的な彫刻作品を多く作っています。陶彫は窯で焼く必要があります。
その為、焼成で作品が壊れない為の工夫をする必要がありました。
) 凹みや穴のある作品
作品の表面に四角い穴や、不定形の穴がある作品は、辻氏の特徴で、表現としても重要ですが、
土の肉厚を薄くし、火の回りを良くする働きもあります。
作品例:「寒山」(1983 高112 X 横84 x 奥行28cm)、「拾得」(1983 高120 X 横83 X 奥行32cm)
「牡牛(おうし)」(1983 高65 X 横169 X 奥行58cm)、「猫の頭」(1981 高49 X 横44 X 奥行43.5cm)
「馬と人」(1983 京都市美術館 高101.5 X 横96 X 奥行41cm)等の作品があります。
) 「紐造り」で「焼締」
a) 作品の造り方は、粘土(テラコッタ)を紐状にして積上げる方法をとっています。
大まかな形に積上げた後、指やへらを使い、繋ぎ目を消し、更に土の表面を叩き締めます。
辻氏の作品の特徴である穴は、紐土を積上げる段階で、穴が出来る様にしますが、製作完了前に
再度、穴の形を整えます。
b) ほとんどの作品には、釉が掛かっていません。長時間高い温度で焼成し、強く焼締ています。
登窯で一番炎の当たる「火前」に窯詰し、赤い火色が強く出現しています。
) 板状の土を繋ぎ合わせた、長方形の「土の壁」の作品
抽象的な作品(名前)群になっています。作品例として
「東山にて」(1962 高68 X 横118 X 奥行15.5)、「小判型と七つの小窓」(1962 高38.5 X 横92 X
奥行15cm)、「巡礼者」(1961 京都市立美術館 高99.4 X 横13.8 X 奥行13.8cm)、
「ポケット地平線」(1965 高20.5 X 横83 X 奥行13cm)、「目と鼻の先の距離について」(1965)、
「詩人と家族」(1977)などの作品です。
) 歴史上の人物や、芝居の人物を題材にした作品
「櫻姫東文章ー風鈴お姫ー釣鐘権助」(1977)、「芭蕉」(1980)、「平曲」(1980)等の作品です。
これらの作品は、後の前衛陶芸家に大きな影響を与え続けています。
次回(山田光)に続きます。
最初に彫像(ブロンズ等)を作り、次に木彫を更に、土(テラコッタ)を使っての、陶彫という焼き物の
新分野を確立した作家です。
1) 辻 晉堂(つじ しんどう)本名 為吉: 1910年(明治43) ~ 1981年(昭和56)
① 経歴
) 鳥取県日野郡二部に生まれます。1931年 上京します。
1932年 東京淀橋にある独立美術研究所で、素描や洋画を学びます。
更に、彫刻を始め院展に出品する様になります。 当時は、モデルを使い、粘土で原型を作る
彫塑(彫像)を手掛けていました。原型はブロンズやセメントなどに置き換えられます。
) 1933年 第二十回日本美術院展に「千家元麿像」を出品します。翌年には同展に「田中の頭像」を
出品します。 1935年 日本美術院研究所に入所し、研鑽を重ねます。
第二十二回日本美術院展で「少女裸形」が奨励賞を受賞し、院友に成ります。
以後、四十二回展まで連続出品を繰り返します。
) 1938年 得度し晉堂と改名します。1939年 「婦人像」を発表した頃から、木彫に専念し
院展で立て続け大きな賞を受賞し、一躍有望な新人として注目を集める様になります。
その作風は、木を直接彫り刻む直彫の技法で、滑らかな仕上げではなく、荒削りのゴツゴツした
作りで、木の質感を十分活かした作りに成っています。
) 1955年 京都丸善での個展で、初めて陶彫の作品を発表します。
木彫が不要な部分を削りとる行為に対し、陶彫は土を積み上げ(足す)て創作する方法です。
辻氏が可塑性をもつ土を素材に選んだ理由は、土の持つ温か味と素朴さで、表現出来る事も
大きな魅力であったが、辻氏が清水焼の窯の多い所に住み、常日頃土に親しんでいたのも
大きな理由と考えられます。
② 辻氏の陶芸
大型の抽象的な彫刻作品を多く作っています。陶彫は窯で焼く必要があります。
その為、焼成で作品が壊れない為の工夫をする必要がありました。
) 凹みや穴のある作品
作品の表面に四角い穴や、不定形の穴がある作品は、辻氏の特徴で、表現としても重要ですが、
土の肉厚を薄くし、火の回りを良くする働きもあります。
作品例:「寒山」(1983 高112 X 横84 x 奥行28cm)、「拾得」(1983 高120 X 横83 X 奥行32cm)
「牡牛(おうし)」(1983 高65 X 横169 X 奥行58cm)、「猫の頭」(1981 高49 X 横44 X 奥行43.5cm)
「馬と人」(1983 京都市美術館 高101.5 X 横96 X 奥行41cm)等の作品があります。
) 「紐造り」で「焼締」
a) 作品の造り方は、粘土(テラコッタ)を紐状にして積上げる方法をとっています。
大まかな形に積上げた後、指やへらを使い、繋ぎ目を消し、更に土の表面を叩き締めます。
辻氏の作品の特徴である穴は、紐土を積上げる段階で、穴が出来る様にしますが、製作完了前に
再度、穴の形を整えます。
b) ほとんどの作品には、釉が掛かっていません。長時間高い温度で焼成し、強く焼締ています。
登窯で一番炎の当たる「火前」に窯詰し、赤い火色が強く出現しています。
) 板状の土を繋ぎ合わせた、長方形の「土の壁」の作品
抽象的な作品(名前)群になっています。作品例として
「東山にて」(1962 高68 X 横118 X 奥行15.5)、「小判型と七つの小窓」(1962 高38.5 X 横92 X
奥行15cm)、「巡礼者」(1961 京都市立美術館 高99.4 X 横13.8 X 奥行13.8cm)、
「ポケット地平線」(1965 高20.5 X 横83 X 奥行13cm)、「目と鼻の先の距離について」(1965)、
「詩人と家族」(1977)などの作品です。
) 歴史上の人物や、芝居の人物を題材にした作品
「櫻姫東文章ー風鈴お姫ー釣鐘権助」(1977)、「芭蕉」(1980)、「平曲」(1980)等の作品です。
これらの作品は、後の前衛陶芸家に大きな影響を与え続けています。
次回(山田光)に続きます。
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