スリップとは泥漿(でいしょう)状の化粧土の事です。化粧掛けの技法は古く、江戸時代初期頃、
又はそれ以前から行われていた様です。主に白以外の濃い色の付いた土を、白化粧土で覆い綺麗に
見せる為に行われていました。それ故、その技法は刷毛目や粉引、三島(印を押した素地に白化粧掛
け)等の方法が取られていました。ここでお話しようとする「スリップウェア」の技法は、従来の
方法とやや異なるやり方の化粧掛けの方法です。
1) 「スリップウェア」はヨーロッパ(特に英国)から、わが国へもたらされた技法です。
西洋での「スリップウェア」の歴史は古く、古代ローマの時代まで遡るとも言われ、西洋の各地の
窯場で、日常的な器に使われていたとも言われています。但しここでは、主に英国で行われていた
技法に付いてお話します。なぜなら、英国のスリップウエアに強い影響を受けた人が、民藝(みん
げい)の創設者である、柳宗悦を始め、濱田庄司、河井寛次郎などの人々だからです。
① 我が国で最初に「スリップウエア」が紹介されたのは、1913(大正2)年日本橋丸善書店より
発売された、「古風な英国陶器」(当然、英語の題名です)と言う、英国のコレクター著の洋書
です。この本は柳宗悦(むねよし、1889年 ~1961年)氏、富本憲吉氏(1887~1963)、バー
ナードリーチ(1887~1979)らの 目にとまります。
この本は、「スリップウエア」に付いての解説、産地、技法などが記載されていました。
富本とリーチは、再現を試みます。スポイト掛けの要領で黄土、赤土、白土などで試します。
② 英国に留学中の濱田庄司氏(1894~1978年)が、「スリップウェア」の大皿に出会います。
1920(大正9)年、20代の濱田庄司氏は窯場の近所の家で、45cm程度の大皿に出会い、大変驚き
ます。それは、黒地に単純な白い縞模様のある大皿で、実用品として使われていた物です。
その後、この「スリップウェア」の作品は当地で多く見付ける事が出来、その一部の写真は、
京都時代の友人の河井寛次郎氏(1890~1966)に送られます。
濱田氏は1924(大正13)年の帰国の際、10枚ほどの「スリップウェア」の作品を持ち帰ります。
これらの作品は京都の河井寛次郎氏に見せる事になります。実物を見た河井寛次郎氏は、形の良
さ釉の美しさ、自由で味のある縞模様の魅力に驚きます。多くの日本人の心を掴む事になります
③ 柳氏らによって、「民藝」の語が使われる様になります。
当時、柳氏と河井氏は不仲で有ったが、濱田氏が「スリップウェア」の皿を、河井氏の家に見る
来る様に柳氏を誘い、不仲が解消する事になります。その後、3人で紀州への旅行先で、「民藝」
の語が初めて登場したそうです。それ故、「スリップウェア」も民藝誕生に一役買ったとの事です
注: 民藝とは、名も無き職人の手から生み出された、日常の生活道具の中に「用の美」を
見出しもう一度表舞台に登場させて、活用する独自の運動で、民家、民具、民画などが含まれ
ます。美術品とは一線を画しています。現在でもその運動は続けられています。
以下次回に続きます。
参考資料: 「スリップウェア」 編者、発行所:誠文堂新光社(せいぶんどうしんこうしゃ)
(英国から日本へ受け継がれた民藝のうつわ、その意匠と現代に伝わる制作技法)の副題あり。
又はそれ以前から行われていた様です。主に白以外の濃い色の付いた土を、白化粧土で覆い綺麗に
見せる為に行われていました。それ故、その技法は刷毛目や粉引、三島(印を押した素地に白化粧掛
け)等の方法が取られていました。ここでお話しようとする「スリップウェア」の技法は、従来の
方法とやや異なるやり方の化粧掛けの方法です。
1) 「スリップウェア」はヨーロッパ(特に英国)から、わが国へもたらされた技法です。
西洋での「スリップウェア」の歴史は古く、古代ローマの時代まで遡るとも言われ、西洋の各地の
窯場で、日常的な器に使われていたとも言われています。但しここでは、主に英国で行われていた
技法に付いてお話します。なぜなら、英国のスリップウエアに強い影響を受けた人が、民藝(みん
げい)の創設者である、柳宗悦を始め、濱田庄司、河井寛次郎などの人々だからです。
① 我が国で最初に「スリップウエア」が紹介されたのは、1913(大正2)年日本橋丸善書店より
発売された、「古風な英国陶器」(当然、英語の題名です)と言う、英国のコレクター著の洋書
です。この本は柳宗悦(むねよし、1889年 ~1961年)氏、富本憲吉氏(1887~1963)、バー
ナードリーチ(1887~1979)らの 目にとまります。
この本は、「スリップウエア」に付いての解説、産地、技法などが記載されていました。
富本とリーチは、再現を試みます。スポイト掛けの要領で黄土、赤土、白土などで試します。
② 英国に留学中の濱田庄司氏(1894~1978年)が、「スリップウェア」の大皿に出会います。
1920(大正9)年、20代の濱田庄司氏は窯場の近所の家で、45cm程度の大皿に出会い、大変驚き
ます。それは、黒地に単純な白い縞模様のある大皿で、実用品として使われていた物です。
その後、この「スリップウェア」の作品は当地で多く見付ける事が出来、その一部の写真は、
京都時代の友人の河井寛次郎氏(1890~1966)に送られます。
濱田氏は1924(大正13)年の帰国の際、10枚ほどの「スリップウェア」の作品を持ち帰ります。
これらの作品は京都の河井寛次郎氏に見せる事になります。実物を見た河井寛次郎氏は、形の良
さ釉の美しさ、自由で味のある縞模様の魅力に驚きます。多くの日本人の心を掴む事になります
③ 柳氏らによって、「民藝」の語が使われる様になります。
当時、柳氏と河井氏は不仲で有ったが、濱田氏が「スリップウェア」の皿を、河井氏の家に見る
来る様に柳氏を誘い、不仲が解消する事になります。その後、3人で紀州への旅行先で、「民藝」
の語が初めて登場したそうです。それ故、「スリップウェア」も民藝誕生に一役買ったとの事です
注: 民藝とは、名も無き職人の手から生み出された、日常の生活道具の中に「用の美」を
見出しもう一度表舞台に登場させて、活用する独自の運動で、民家、民具、民画などが含まれ
ます。美術品とは一線を画しています。現在でもその運動は続けられています。
以下次回に続きます。
参考資料: 「スリップウェア」 編者、発行所:誠文堂新光社(せいぶんどうしんこうしゃ)
(英国から日本へ受け継がれた民藝のうつわ、その意匠と現代に伝わる制作技法)の副題あり。