大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

洞昌寺と太田道灌墓

2020-02-26 | 掃苔

伊勢原上粕屋にある洞昌寺太田道灌胴塚は、七人塚から歩いて二,三分のところにある。

寛政重修諸家譜、清和源氏頼光流太田系図、資長(入道号道灌)「両上杉隙あり、山内顯定、扇谷定政が兵威を揑かんがため、人をして道灌を讒せしむ、これより定政、道灌をうたがい、七月二十六日相模国糟屋の舘において殺害せらる。年五十五、法名道灌、其地糟屋庄秋山洞昌院の裏山に葬る」とあり、洞昌院は新編相模国風土記稿に「蟠龍山公所寺(公所は寺邊の字なり)と號す(津久井縣根小屋村功雲寺末)開山崇旭(長禄二年三月十五日卒)中興陽室照寅(天文八年七月二日卒)開基は太田左衛門大夫持資入道道灌(文明十八年七月二十六日卒、法名洞昌院心圓道灌)なり。釈迦を本尊とす。寺領三石の御朱印は、天正十九年賜りしが、寛永六年九月九日、火災に罹り、烏有せしを以て、十九年再び賜ふ(岡田淡路守重治推挙す)」とある。太田道灌墓、風土記稿に「五輪塔(高三尺五寸許)傍に古松二株(一は囲一丈六尺、一は一丈)あり。按ずるに、石塔の様當時の物にあらず、後世建し物と見ゆ、下村浅間社別當大慈寺にも、道灌の墳墓あれど、當院に埋葬せし事其證(寛永系譜其文下に註す)あり、道灌は太田備中守資清の子にして、左衛門大夫持資(初資長)と稱す。長禄元年、武州江戸、及川越岩槻の三城を築く。(寛永譜曰、資長、源六郎、左衛門大夫、剃髪して道灌と號す、歌人、相州の人なり。長禄元年、千代田、斎田、寳田三氏の家臣に命じて、城郭を江戸、川越、岩槻に築く)道灌軍法に精きを以て、世に師範と稱せられ、屢軍功あり。(曰、道灌常に古今諸家の兵書を読て、軍法の道に達し、能く城郭の地を知る。此故に世に軍法の師範と稱す、若年の時より、数度軍功あり)扇谷上杉修理大夫定正に属して用いらる、故に関東の諸家大に服し、関西の諸将も、其風を慕ふ者あり。又和歌を好む(曰、道灌もとより扇谷修理大夫定正が招に應じて、関東八州を以て是を指揮す、定正深く是に任じて、萬大小となく、道灌に問きく、是に依て関東の諸家、心を道灌に寄せずと云者なし、関西の諸大将も其風を聞て靡き従ふ者又多し。道灌父が風俗を慕ひて、和歌を好む、加之諸子百家の史傳、并に本朝二十一代集等の書籍を集め貯て、平生のもてあそびとす、其詠ずる所の家の集十一巻、其類を分て、砕玉類題と號す。按ずるに、今道灌の家集と云は、慕景集と名づけ、僅に一巻あり、残闕なるか)云々」また「文明十八年七月、讒言に依って、當所定正の館(館蹟の事下條にあり)にして誅せられ、當院に葬す。(寛永譜曰、七月廿六日、相州糟屋定正が館に入て卒す、五十五歳、秋山上糟屋洞昌院に荼毘す)」とある。太田道灌の墳墓に近づくとトタンで造られた六角錐の蓋をかぶせた古切株が二つ墓の前に在った。

風土記稿にある図には両側に大きな松がありその間に五輪塔が描かれている。墓に近づいてびっくり。五輪塔が宝篋印塔に替わっていた。徳富猪一郎が大正十五年四月にここを訪れ「今は向かって右則の松は、只だ枯株のみを剰まし、其の左側のは、堂々として天を衝いている云々、而して五輪塔の代わりに、今は宝篋印塔がある」と書き残している。大正十五年にはすでに宝篋印塔に替わっていたことになる。


墓域の横に数多くの宝篋印塔、五輪塔が並べられていた。極楽寺跡から移設された石塔群だという。


洞昌寺の北にある厚木七沢の大山の麓、実蒔原は山内、扇谷の両上杉勢が戦った古戦場跡、この集められた石塔群は兵どもの夢の跡なのだろうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 伊勢原 上粕屋神社と七人塚 | トップ | 伊勢原 上行寺 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

掃苔」カテゴリの最新記事