大佗坊の在目在口

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松阪 来迎寺から常教寺へ

2023-07-14 | 

松阪駅で初めて、松阪は「まつざか」ではなく「まつさか」と濁らないで呼ばれているのを知った。

市のHPを見たら、「まつさか」とひらがなのルビが振ってあった。ネット情報によると、明治二十二年の市制、町村制の施行により「つちへん」の松坂から「こざとへん」の「松阪」に変え、さらに平成17年1月の市町村合併により読み方を「まつさか」で統一したという。白粉町の来迎寺を訪ねる。白粉町というから華やかな花街にあるお寺かなと思ったら、天正十二年(1584)、近江日野城主蒲生氏郷が伊勢国領主となり飯高郡松ヶ島城に入城した。天正十六年(1588)、現在地の飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに城を築いた。昔、白粉を商売とする家が二軒あり、名付けたという。戦国時代に白粉が商売として成立つほど売れたのだろうか。来迎寺開基縁起によれば、永正中北畠材親、戦死の者を弔い戦場の罪を懺悔するため、松ヶ島に一寺を建て教主山真盛堂来迎精舎と号したという。蒲生氏郷の松坂城築城に伴い来迎寺も現在地に移転し、山号は教主山。院号は無量寿院とした。三重県の文化財をみていたら松阪駅から南西の方向約20kの飯南町深野に浄土宗の来迎寺があった。白粉町の来迎寺は「らいごうじ」、県指定有形文化財の梵鐘がある飯南町にある来迎寺は「らいこうじ」と濁らないという。



白粉町の来迎寺本堂は国の重要文化財に指定されている。享保元年(1716)十二月の松坂大火で表門(現在の裏門)を除き焼失したが、焼失後の享保十六年(1731)三月に再建された。

境内建物のうちで裏門が最も古く、現表門(鐘楼門)は文政四年(1821)に完成している。建物再建時には松阪の豪商三井家が深く関わっていたという。来迎寺裏門は一間一戸の薬医門で大棟の鬼瓦に「寛永二年(1625)七月吉日伊勢山田乃住人藤わら吉左衛門作」とヘラ書きがあり、市有形文化財に指定されている。

境内に御神籤の創始とされる元三慈恵大師良源を祀る元三大子堂があった。
             
比叡山延暦寺)の角大師護符、降魔(鬼)大師護符 小田原本源寺の豆(魔滅)大師、角大師護符
来迎寺のそばにスッキリした感じのお寺があったので寄ってみた。


真宗高田派の常教寺といい、昔は松坂の駅部田にあり、寛文十一年(1671)蓮乗院文応上人が現在地に移遷させたという。本堂は寛政十一年(1799)の建立。「延享元年(1744)高祖親鸞上人自彫の木像を勧請安置せり」と明治二十二年発行の伊勢名勝志にあった。親鸞上人の入滅は弘長二年(1262)十一月と云われているので、どこかの寺社等に招請して安置したのだろうか。この境内に観音堂があり霊験顕著にして信者群れを成せりというが、具体的な由緒は不明だという。。
本居宣長の墓がある新町の樹敬寺に向かう。

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