大佗坊の在目在口

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鎌倉 妙本寺と本覚寺

2019-07-17 | 東海道沿線

伊豆修善寺にある源頼家墓所に誰が言い出したのか分からないが、若狭局とその子一幡のものだという墓があった。鎌倉の妙本寺に比企一族の墓所があるのを思い出して20年ぶりに訪ねた。JR鎌倉駅前若宮大路にある鎌倉郵便局の横の道を進み滑川に掛かる鎌倉十橋の一つ、夷堂橋(えびすどうばし)を渡ると髭題目や閻浮堤内本化最初霊窟と彫られた妙本寺の石塔が現れる。
 
Wikipediaに閻浮提(えんぶだい、サンスクリット語)とは、古代インドの世界観における人間が住む大陸だとあった。日蓮宗で,「南無妙法蓮華経」というお題目を,特殊な筆法で書いたものを言い、法を除くほかの六文字の筆端をひげのように長く走らせる書体で,万物が仏法の光明に照らされて,ことごとく真理の活動をなすことを表現するものだという。なにか山門を入るまでに疲れてしまう。
長興山妙本寺の場所は右大将頼朝の乳母比企尼の邸宅で、其甥比企能員に伝わり、頼家嫡男一幡の小御所及び源頼経御台所(頼家娘)の竹御所は皆この場所だったという。新編鎌倉誌に「妙本寺(附比企谷、比企能員跡、竹御所)、妙本寺は長興山と号す、日蓮説法始の寺也。相傳ふ、日蓮の俗弟子、比企大学三郎と云し人、建立す。日蓮在世の時、日朗に附属する故に、日朗を開山とす云々、此地を比企谷と云。比企判官能員が旧跡なり」さらに「頼朝の乳母、能員が姨母、武州比企郡を請所として居す。故に比企尼と号す。甥の能員を猶子として、共に此所に来居す。故に比企谷と云なり。能員が女は、若狭局と号して、頼家の妾にて、一幡君の母なり。故に能員、恩寵渥く、権威盛なりしが、北條家を亡さんと謀るに因て、建仁三年(1203)九月二日、北條時政が名越の亭にて誅せらる。一族此地にて悉く亡びたり」とある。建仁三年(1203)の翌年、元久元年(1204)七月十八日、北條は修禅寺に幽閉した源頼家を指殺している。比企大学三郎は法名を日学、号を能本という。日蓮聖人は比企能本の父・能員に「長興」、母・渋河氏に「妙本」の戒号を与え、三郎能本は文応元年(1260)、故御台所二十七回忌にあたり、御所を転じて法華堂とし、「長興山
妙本寺」と名付けたという。総門を入り右手に方丈門があり、その奥の石段の上に蛇苦止堂がある。
 
 
 
ここは、比企一族を滅ぼした北条時政の子北条時村の娘に大蛇となって取りついた若狭局の霊を鎮めるため蛇苦止明神社を祀ったもの。蛇形曼荼羅より名付けたものか。
 
  
 
比企一族の墓所
 
五輪塔は前田利家側室寿福院(三代利常生母)の供養塔。
 
比企の変で、小御所の焼け跡から殺された一幡のものと思われる着物の袖が見つかり、それを弔った一幡袖塚がある。横に明治三十九年、池上本門寺六十八代貫首日亀上人篆額による「無垢證之碑」があった。
 
 
後で知ったが、応永二十九(1422)年妙本寺墓地左手の崖に上杉憲直に追われ、ここで自害した佐竹常元と男一人並びに家人十三人が討死した佐竹矢倉が残っているという。気が付かなかったのは残念だったが、ここにも修善寺の源氏山公園にあった十三士墓と同じ十三という数が出てきた。
帰り、夷堂のある妙厳山本覚寺に寄る。本覚寺は身延山から日蓮の遺骨を分骨したため東身延とも言われ、いま境内にある夷堂は鎌倉大蔵幕府政所の裏鬼門に鎮守として建てられたともいう。
  
 
 
地図を見ていたら近くに蛭子神社が在った。夷と蛭子、同じ呼び名かと思ったら、「ひるこ神社」というらしい。こんど訪ねてみようと思う。

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