大佗坊の在目在口

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郡上八幡凌霜隊

2013-11-01 | 

数年前、櫻の咲く時期に会津飯盛山に旧会津藩士の墓を探しに行った。飯盛山広場、左手の白虎隊士墓の奥にも藩士の墓域が在るが、その時は反対側の右奥にある比較的新しい墓域に向かうと、その途中に「郡上藩 凌霜隊之碑」が目に留まった。碑文には
「道ハ一筋ナリ  副長 速水小三郎
此の碑は戊辰の戦に会津侯を盟主と頼み各地に転戦して若松城の
籠城戦に参加し白虎隊と共に奮戦死闘した美濃国郡上藩凌霜隊の
事績を偲び且つその霊を慰め永くこれを後世に伝えるため郡上の
石で郡民等の浄財によって建立したものである」とあった。
 
戊辰戦争で若松籠城戦の中、他藩の応援部隊が共に会津で戦った記録は会津側では極端に少ない。最近、会津藩士日向内記の家族の事を調べていて、郡上藩凌霜隊士矢野原与七が残した手記「心苦雑記」を知り、凌霜隊(りょうそうたい)の読み方も初めて知った。岐阜県内には元十三藩の領地があり、美濃郡上藩五万八千石藩主は若い青山幸宜で、まだ指導統率力が弱かった。他の小藩と同じく、国元の恭順派と江戸在中の佐幕側との二派に分かれた。慶応四年(1868)、戊辰戦争が始まると、国元ではその年の二月に恭順したが、しかし江戸家老朝比奈藤兵衛は子、朝比奈茂吉を脱藩させ江戸詰めの藩士で凌霜隊を結成させた。心苦雑記によると「当藩ニは会津公エ属し度志願ニ付服部氏を相頼、今市宿にて会藩日向内記隊エ合兵して都合百余人」「若松表エ参り候速見武井米沢岡本四人之面々閏四月七日藤原宿エ帰着会公ニテ願之趣御聞届凌霜隊之儀は同藩重臣萱野権兵衛殿エ付属」とあり今市では日向隊に属し、そのあと小山田隊の指揮下に入ったが、「跡の押勢にも構はず、真先に進むは勇の様に見ゆれ共、不策也」その戦術に疑問を持ち若松籠城戦では再び日向隊に属して若松落城まで戦った。朝比奈家老が凌霜隊を結成し会津に向かわせた時、凌霜隊に同行した会津脱藩服部半蔵(実は常五郎)とは誰だったのだろう。凌霜隊士の故里、郡上八幡を駆け足で廻った。
 

郡上藩四万八千石の城下町で見下ろす城山にある郡上八幡城天守閣(木造・昭和八年再建)への途中(天守閣裏手)に「凌霜の森」があり、ここに凌霜隊慰霊碑が建立され、城山麓の岸剣神社の入口階段の左側に凌霜隊之碑が建立されている。

 
 
 
会津藩降伏と共に凌霜隊士は美濃国郡上藩にて謹慎となり国元では脱藩者として罪人の汚名を着せられ、赤谷の揚屋入りを命じられている(明治元年十一月)。慈恩寺山門手前の石垣のところを左折
 
翌年の三月、赤谷界隈は風気とおらず、一同疲弊疾病の者多く、場所替えの願いを提出するも聞き入れられなかったが、五月、領内の慈恩寺が中心になり各寺院が相談して朝廷に請願した事により、赤谷揚屋から職人町の長敬寺に移ることが出来た。慈恩寺参道
 
職人町長敬寺

 
同年九月「先般若松表において降伏いたし候者共禁錮差免謹慎致付べく候事」と禁錮を免除され、「謹慎御付置候処此度御免候事」と兵部省通達でやっと謹慎を解除されたのは、翌年明治三年二月の事だった。
凌霜隊副長速水小三郎の墓碑は東京青山崑崗山玉窓寺にある。
墓石 (左、速水家族之墓・右、速水累代之墓 誠性院諦岳行道居士 明治廿九年十月葬)
 

凌霜隊(青山家脱走人名簿)
隊長 朝比奈茂吉・副長 坂田林左衛門・速見小三郎其外に小出於兎三郎(九月朔月小山戦争手負同月七日落命)・菅沼銑十郎(四月十六日小山戦争手負若松病院七月十七日死)・尾島左太夫・氏井儀左衛門・中岡弾之丞(八月二十五日横川戦争討死)・田中亀太郎(四月十六日小山戦争討死)・売間直次・武井安三・山脇金太郎(八月朔日大内戦争討死)・桑原鑑太郎・松尾才治・小野三秋・米沢小源治・岡本文造・矢野原与七・中瀬鐘太郎・鈴木三蔵・池尾幾三郎・山脇鍬橘・斎藤巳喜之助・牧野平蔵・金子勇次郎・浅井晴次郎・斎藤弥門・野田弥助・山田熊之助・小泉勇次郎・安村敬三郎・中村国之助・山田惣太郎・岸本伊兵衛・土井重造・山片俊三(四月十七日行方不明)・白岩源助(四月十六日行方不明)・石井音三郎(九月十九日若松城中討死)・林定三郎(九月朔日関山戦争討死)、外に小者六人・孫三郎・源蔵・久次郎・久七・小三郎(八月朔日大内戦争死)・籐平・四十五名

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