日暮里駅西口を出て左、御殿坂からゆうやけだんだんを下り、谷中ぎんざ入口手前を右折、諏訪台の裾の六阿弥陀道から道灌山通りにぶつかったら右折、西日暮里駅の手前の間の坂を登り、諏訪台通りを南下すると御殿坂にぶつかる。ここを左折するとスタートの日暮里駅が見えてくる。一周、約1,8kのエリアが墨田区の西の外れ、JR山手線の内側が西日暮里三丁目で、別名、日暮(ひぐらし)の里と呼ばれている。このエリアには古くからのお寺さんがあり、旧幕臣の墓域や史跡も多く残っている。
日暮里駅西口を出ると道路の反対側にみえるのが「月見寺」とも呼ばれた長久山本行寺です。
ここは美濃加納藩主永井家の菩提寺でもある。幕末に活躍した幕臣で軍艦奉行、函館奉行を勤めた永井尚志、儒学者市河寛斎・書家米庵父子等の墓がある(いずれも都指定旧跡)。
また寛延三年(1750)建碑の道灌丘碑が残っている。
この道灌は太田道灌の事だと思っていたが、新編武蔵風土記稿に「江戸誌等の書に此山太田道灌が砦蹟なる故道灌山と称せる由いえるは誤れり」とある。大道寺幽山によれば関道閑の屋敷蹟なるを北条安房守が聞き傳え、また谷中感應寺、根岸善性寺は関小次郎入道道閑の開基で、この付辺を領したと傳え関道閑の居蹟であるのは明らかで、当国の名家である大田氏とたまたま名が同じなので太田道灌が砦蹟などと云い始めたのではないかと風土記稿にあった。二十一世日桓が小林一茶と親交があり、一茶の句碑もある。
本行寺の隣が大黒山経王寺、ここは山門脇に門番所が残り、横道には築地塀が連なっていて今では貴重な建築となっている。
戊辰の上野戦争で寺の前にあった谷中天王寺(感応寺)が彰義隊の分営とされ、戦いから寺に逃れた彰義隊士と西軍との銃撃戦で撃ち込まれた銃弾の痕が山門に残っている。大方の人が指を入れるので、今はツルツルになっている。
その先にある宝珠山延命院の境内には都指定天然記念物の樹齢六百年を超すと云う「延命院の大シイ」がある。天保七年(1836)の「江戸名所図会」「日暮里惣図」に、現在地と思われる位置に本樹の全容が描かれている。
江戸幕府の第十一代将軍徳川家斉の時、大奥でおきた延命院事件の舞台となったところ。本堂の右側に日潤と日道の墓碑がひっそりとあった。
ここの七面大明神を勧請した七面堂には上野戦争の矢弾の跡があるという。最初、七面のお堂かと思って壁を一生懸命数えてしまった。弾の痕はお堂の右柱の痕がそうではないかと思うがハッキリしなかった。
六阿弥陀道から道灌山通りに向かう右手にあるのが南泉寺、山号は瑞応山で元和二年(1616)、徳川家から約三千坪を賜り創建された。元来、武家寺で大名や旗本の檀家が多いという。
出羽鶴岡藩主酒井忠器の四男で叔父市橋長富の養子となり天保十五年、近江仁正寺藩最後の藩主となった市橋家十代、市橋長和(後長義)と市橋家の墓域が参道中腹にある。
浦賀奉行の遠山景高の墓所も登り切った左奥にある。
その途中には坂氏代々之墓域がある。徳川二代三代将軍に仕え、家光将軍の信任厚かった老女岡野(宗仙の二女)の方の墓
西南戦争別働第三旅団四番小隊の戦病死者、横田貞永(鹿児島県士)、岡田惟頼(旧幕臣)、青木萬亀雄(茨城県士)、三名の招魂碑である戦死之墓が本堂入口の右側にある。
寺の墓域に入る右側にあるおまねぎ堂がある。
お招き様なのか陽石と陰石が祀られていて近くの三業地の芸者衆が信仰していたのだろうか。
東京日暮里界隈(法光寺、修性院、青雲禅寺)
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