大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

城崎温泉にて

2017-09-23 | 

中学か高校で志賀直哉の「城の崎にて」が国語の教材として出た。授業のスタートから「城」が読めなくて戸惑った。文章に、それ、これが多く、本文を行ったり来たり、この小説の難解さにてこずった記憶だけが残っている。小説の理解度はともかく、この題だけは記憶に残った。そんな訳で城崎温泉は行ってみたい場所の一つだった。城崎には午前中に着いた。駅前が閑散としているのに驚く。
 
昼食はこの街で人気店だという一階は魚屋で二階が食堂になっている店に入った。客が一組もおらず、ここも閑散としていた。
 
早々に食事を終わらせ、大師山(標高230m)に設置されたロープウェイで温泉寺に向かう。入口から乗り場までの石段がきつい。
 
 
山頂駅の脇にカニ塚と昔は奥之院千手堂と呼ばれていたところに今は「列仙閣」がある。
 
中間の温泉寺駅に温泉寺の本堂がある。このお寺は道智上人により天平年間に開創された山陰一の古刹で温泉寺本堂は但馬では最も古い仏殿で建立は至徳四年(1387)と言われている。 ご住職に御朱印をお願いしている間、若いお坊さんが本堂を丁寧に案内してくれた。
 
 
麓の山門
  
 
右 麓から本堂への参道
 
温泉寺から極楽寺に向かう。臨済宗大徳寺派の極楽寺は江戸時代、但馬出石出身の沢庵宗彭が中興している。山門の手前左手に浪切不動尊、山門をくぐると境内に黒砂と白砂の清閑庭と呼ばれる枯山水の石庭があり、禅宗の質素な美しさを持つお寺さんだった。
 
 
 
訪ねた時は、本堂で御詠歌の練習が始まっていて、御朱印はあとで宿に届けてもらえるということで大変恐縮する。極楽寺から城崎温泉の奥、大師山の北側を源流とし城崎温泉街沿いを流れ、円山川に合流する大谿川に沿って志賀直哉ゆかりの宿に向かう。
 
宿のH・Pによると「城の崎にて」当時の建物は大正14年の北但大震災により倒壊したが、昭和2年の再建以降も昭和30年代まで幾度となくお越しいただき、その際の部屋が26号室で、現在も当時のまま残してあり、縁側からは「暗夜行路」に描かれた庭園を眺めることが出来るという。この宿は温泉街側と庭園側に部屋が分かれていて料金も異なる。折角なので志賀直哉も見たという庭園側に部屋を取って貰った。
 
部屋は2階の26号室のお隣で、宿自慢の庭園が一望にと外を眺めると、エッという感じ。一階のロビーで記帳をしているとき、池の魚を狙ってサギがいた中庭だと思っていた所が二百坪位の庭園だった。
 
 
庭を見に来た訳ではないので気を取り直す。一番の目的は七湯ある外湯めぐりで楽しみにしていた。温泉外湯は曜日によっては休湯しているところもあるが、一の湯、御所の湯、まんだら湯、さとの湯、柳湯、地蔵湯、鴻の湯と七湯ある。しかし、観光協会のパンフをよく読むべきだった。旅館で説明を聞くまではいくつかの源泉があると思い込んでいた。協会の案内に「すべての源泉は1972年に作られた集中配湯管理施設に集められて、平均温度を57度に安定させてから町内に張り巡らされている配管を通じて、各外湯・旅館に送られている」とある。いくつかの源泉を混ぜて各外湯・旅館に配湯しているという。要は、湯船の形だけが異なり泉質はどこの各外湯・旅館も同じだという。驚愕の現実に楽しみにしていた外湯めぐりが急速に萎んだ。全旅館が豊富に使えるだけの湯量がないらしい。それでも気を取り直して外湯の一の湯に入りに行った。何だか大きめの銭湯に入った気分で早々に出てくる。
 
鄙びた温泉地でもなく、特徴のある源泉の温泉地でもなく、志賀直哉を除いたら何が残るのだろう。ビールを飲みながら屋根を眺めた。小説に描かれていた鼠も見なかったし、蜂の死骸も無かった。風もないのにヒラヒラ動く葉が、風が吹いたらその葉が動かなくなったのを見上げて、志賀直哉は「原因は知れた」という。凡人中の凡人には何が解ったのか皆目見当がつかない。夕食の時間になった。給仕の若い女の子が一生懸命、料理の説明をしてくれた。同じ料金の箱根湯本の旅館よりよほど美味しかった。
  
                             

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