大佗坊の在目在口

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伊豆 龍若丸と神尾氏

2019-11-13 | 

源範頼や鎌倉二代将軍頼家の墓を訪ねて伊豆の修善寺に行った。戻ってから伊豆の地誌、増訂豆州志稿を読んでいたら、伊豆に上杉龍若丸と神尾治部右衛門に関係する神社、お寺が在ることが判った。会津藩の絡みで、旧北條氏家臣だったという神尾伊予栄加という侍を探している。小田原東町の大友皇子が奉ってある戎神社の横に上杉神社がある。この神社の事は以前「正之公母堂浄光院と神尾氏」で一部紹介した。新編相模風土記稿に「戎社の側、海岸丘上ニアリ。小笹生茂リシ中ニ方二間ノ処ヲ墳所トシ五輪塔六基並ビ立リ。中央ナルハ大ニシテ餘ハ皆小ナリ(大ナルハ高三尺小ナルハ二尺)土人是ヲ龍若稲荷ト唱エ若手ヲ振ルヽ事アレハ、必崇アリトテ甚敬憚ス。按スルニ天文二十一年(1552)北條氏康、管領上杉憲政ノ嫡男龍若丸ヲ殺シ且憲政ノ家人、妻鹿田新助等六人ヲ一色ノ松原ニテ刑セシコトアリ」とある。天文二十一年、北条氏康に平井城(群馬藤岡)を攻められた関東管領上杉憲政は嫡男龍若を打棄てて、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り落ち延びていった。置き去りにされは家臣の逆心にあい、北条氏康に捕らえられ処刑されたという。
 
 
鎌倉九代記は詳しく「龍若殿をば、笠原能登守請け取りて、荷鞍置きたる馬に打乗せ、中間二人に口を引かせ、白昼に小田原へ入れまいらせければ、是を見聞く輩、袖を絞らぬは無かりけり、翌日早朝に神尾治部右衛門に仰せられて、御首を討たせらる云々」、また「石巻隼人正に仰せて、お局を初めとして、悉く搦取り、後代の見懲の為、一色の松原に引出し、磔にぞ懸けらける」と、新編相模風土記稿には九代記の引用がある。一方、寛政重修諸家譜藤原氏良門流上杉系譜に「小次郎龍若丸 永禄元年父憲政越後国に没落のとき、独平井城のとどまり旧臣これを保護す。しかるに妻鹿多が一族そむきて龍若丸を擒にし、北條氏康に降る。のち氏康がために害せらる」とあって、さらに関東古戦録に「氏康則笠原越前守康朝ヲ以テ請取セ伊豆ノ修善寺ヘ送リ遣シ南方小番ノ侍神尾治部左衛門ニ介錯ヲ命シテ終ニ誅戮セラレケリ去共氏康誉ノ大将ナレハ石巻隼人正ニ申含メ不忠不義ノ悪逆人世以テ見懲シテ為ナリトテ目賀田ヵ一族八人ヲ高手小手ニイマシメ小田原ノ大路ヲ引渡シ一色村ノ松原ニ磔ニソ梟レシケル」とあった。南方小番ノ侍がどのような役割なのか、神尾治部左衛門は伊豆衆筆頭の笠原越前守康朝組の侍なのかはっきりしなかった。延宝三年(1675)成立の「鎌倉九代記」は龍若丸打ち首の場所の記載はなく、享保十一年(1726)完成の「関東古戦録(関八州古戦録)」は龍若丸は修善寺にて誅戮とある。社寺の記載が詳しい、文化三年(1806)に完成している「五街道分間延絵図」の網一色村に戎宮の記載は在るものの上杉神社の記載がない。

 
文化九年(1812)完成の「寛政重修諸家譜」では龍若丸項に氏政に害せらるとあり場所の記載はない。天保十二年(1841)成立の「新編相模国風土記稿」は「氏康龍若丸ヲ殺シ」とあり、後記に鎌倉九代記を引用している。龍若丸の誅戮場所が記載されているのは北条氏康が平井城を攻略した天文二十一年(1552)から百七十年も後に書かれた「関東古戦録(関八州古戦録)」だけだった。本当に龍若丸は殺されたのか、また殺されたとすれば何時どこで殺されたのか判らなくなってきた。龍若丸と神尾氏の伝承を求めて伊豆の門野原に出かけた。

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