大佗坊の在目在口

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鎌倉 明月院から浄智寺

2019-11-06 | 東海道沿線

極楽寺の近くに上杉憲方墓と伝わる史跡があった。それでは上杉憲方の墓はどこにあるのかとおもったら、おなじ鎌倉の明月院にあるという。明月院はアジサイの季節に何度か訪れたが、上杉憲方の墓は気が付かなかった。
 
明月院の寺伝によると、永暦元年(1160)この地の武将で平治の乱で戦死した山内首藤俊通の菩提供養の為、俊通の子、山内首藤経俊によって明月院の前身の明月庵を創建したという。その約百年後の康元元年(1256)、鎌倉幕府五代執権北条時頼(最明寺道崇)によってこの地に最明寺を建立し、三十歳で出家、覚了房道崇と号し弘長三年(1263)三十七歳で卒去。後に時頼の子北条時宗によって最明寺を前身として福源山禅興仰聖禅寺を再興、康暦二年(1280)足利氏満が関東官領上杉憲方(明月院天樹道合)に禅興寺中興を命じ塔頭も配置した。この時、明月庵は明月院と改められ支院の首位においた。山内首藤経俊は奥会津の山ノ内一族の遠祖でもある。
 
 
総門を入って左側(北)が山ノ内上杉屋敷跡でその奥に五代執権北条時頼の廟所(最明寺崇公大禅定門)、その左奥の宝篋印塔が時頼の墓と伝えられている。
 
 
上杉憲方(道合)の墓は本堂左手の崖際にある開山堂(宗猷堂)の後ろのやぐらにあった。もっとも鎌倉公方九代記によると「上杉安房守入道道合は慶永元年(1394)、朝の露と諸共に消え行けるこそ哀れなり。空しき屍をば極楽寺に送りて草根一堆の塚の主となし、幡をたて卒塔婆を立て、形の如くの孝養をぞ営まれける」とある。そうすると明月院のやぐらにある上杉憲方墓は供養塔という事になるのだろうか。新編鎌倉志によると、この道合石塔の前に憲方の霊屋があったという。
 
この開山堂の横に鎌倉十井の一という瓶ノ井があった。同じく鎌倉十井の一という甘露ノ井がある浄智寺に向かう。「鎌倉幕府第五代執権北条時頼の三男で、弘安四年(1281)没した北条宗政の菩提を弔うため寺を起こし、宗政とその子師時を開基としたとおもわれる」とは浄智寺のパンフの説明。新編鎌倉志によれば「北条師時を浄智寺と号す、法名は道覚と云」とある。さらに甘露井は「開山塔の後に有清泉を云なり。門外左道端に、清水沸出づ。或は是をも甘露井と云なり」とあり、境内に湧出る清水が二ヶ所あったと思われる。現在の境内の様子は新編鎌倉志記載の浄智寺古図とはだいぶ異なってしまった。
 
  
今ある甘露ノ井は参道入口の石橋のほとりにある。建物は大正十二年の関東大震災でほとんど倒潰したという。昔、外門に掲げられていた円覚寺開山の無学祖元(諡仏光国師)の筆による「寶所在近」と同じ文字の額が掲げられた総門と、2007年に再建された鐘楼門には「山居幽勝」の額が掲げられていた。本堂曇華殿の御本尊は室町期作の木像三世仏坐像で県指定の重要文化財です。左から「阿弥陀・釈迦・弥勒」の各如来で、「過去・現在・ 未来」の時を象徴しているという。また、曇華殿後ろ側には鎌倉三十三観音霊の一つ観音菩薩像も祀られていた。
 
 
 
 
鎌倉の山際のほとんどのお寺には「やぐら」がある。浄智寺も墓地の奥と書院の脇に浅いやぐらがあった。

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