大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

伊豆 門野原神社

2019-11-20 | 

修善寺駅から国道414号を南下して県道124号との分岐点(出口)の先に門の原バス停がある。このバス停から西に5.6分歩いた所に門野原神社がある。この神社への入口が分からず付近をウロウロしてしまった。
 
 
伊豆門野原は作家井上靖の父親の出身地でもあり、家に戻ってから井上靖の自叙伝的小説「しろばんば」を読んだ。小説に出てくる伯父は湯ヶ島小学校校長石渡盛雄をモデルとしている。井上靖の父親
井上家の婿とあるのでの、実家は石渡家なのだろう。石渡家は門野原の旧家で明治中期の資料を纏め郷土史「温古誌」を編纂した三島神社の神官だった石渡延美の先祖は北条家石渡隼人知祇󠄀と伝わる。延美の孫で府立三中教師だった石渡延世の学校葬で「人は云ふ、訃あり、石渡先生長逝し給ひぬと、果して然る乎」で始まる送別の辞を送ったのが芥川龍之介だったのには驚いた。伊豆の地誌、豆州志稿に「神尾治部右衛門墓、門野原村神土にあり小石祠を建つ。古老傳。云上杉龍若、湯ヶ島に於て自刃す、其臣神尾氏追跡して此に至り龍若の死を聞き亦自刃す因て此に葬り石塔を建つと、後又祠を建て石塔を神主とす(旧称神戸八幡にして墓地とは異処也)、旧墓所は一石を標とす登れば祟りを為すと云」とあるが、増訂豆州志稿(以下増訂)に「村社門野原神社祭神不詳,相殿五座山神、稲荷、八幡、愛宕、姥神。初字諏訪の社に在りて相殿に山神を祭る(山神同林中に在り五輪の塔を蔵す)」。明治六年に五座の祭神を合祀し諏訪神社とし、さらに明治十一年に門野原神社とした。祭神の姥神は上杉龍若の乳母を祭ったものだと云う。
 
 
 
また「別殿の内、神尾とある。霊神は初字神土に在て八幡と称す、明治六年遷祀す。神土八幡、五輪矢鏃を主とす上杉の臣神戸を神とし祭る由。神戸は神尾の誤にして神尾治部右衛門也、蓋龍若の乳母と共に此地にて自刃せるならむ」とあり、この門野原の地名は、豆州志稿に旧名龍若臣神戸氏を葬りし原なればなりとあり、増訂に「龍若臣は神尾氏なり神戸にあらず若くは神尾を神戸と転記せるも知るべからず或は云門野原は神土(かむと)ノ原ならむ、神土は神領なり検地帳神土の地名多しと、伊豆順行記にも古へ神土原と記せり」ともある。門野原の神土の呼名もよく解らない。温故誌では「かんと」と表記しており、さらに「門野原に上杉龍若の臣神尾氏の古墳あり、古老云、神尾は主人を慕い来れるにもはや湯ヶ島に自刃せしと聞て此処に自刃す、后年其石塔の頭を神体として若宮八幡と祭、その神体いまに存せり」、また「門野原字神土と云処の田中に上杉龍若臣神尾氏墓あり、古は五輪ありたりと云、其五輪の頭計り存れり、村社に蔵ス、墓地には享和元年(1801)造立の小石祠あり、彫り曰、上杉龍若家臣 神尾門殿神廟 願主小森安右衛門 安右衛門其当時田地の持主也、口碑に曰、耕作の為此地墓を汚し神罰を蒙れり、故に小石祠を建立すと云へり」と、また「神尾氏五輪の頭(長壱尺ニ寸)明治廿八年上杉臣神尾氏の石祠に蔵す」とある。龍若が殺されたのが天文二十一年(1552)とすれば、約百五十年後に神尾氏を祭った小石祠が建立されたことになる。百五十年間の間に神尾治部右衛門は北條家臣から上杉龍若家臣へと誤って伝承されたことになるのだろうか。ご神体の36cmばかりの五輪の頭が残っているかと門野原神社を訪ねたが、残念なことにの五輪の頭が在るのか、無いのか、神社の石段を登った時から誰かに見られている気配があったが、周りに人影もなく聞くことが出来なかった。

 

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